3‐2
今日は半日で終わるはずの日程だ。でも俺はまだ退勤できていない。退勤できない理由の大概は目の前の男に収束していた。
「あの時は、本当に気が滅入っていた。時間が経って分かったよ。俺、相当馬鹿で気持ち悪かった。頼む、この通りだ」
先ほどまで、学内を騒がせていたオッサン改め、関太平は俺たちの前で額を床に擦りつけている。俺達は数メートル手前まで下がって、カウンセラー室の扉の手前でタイヘイの土下座を見ていた。
「別に俺はいいけど。メグミはどうなんだ? 」
カウンセラー室の扉に背中をぴったりとつけたままのメグミに話を振る。
「オッサンが反省してるのは分かった。でも今日も、その前も、あたしは本気で怖かったんだからね」
「本当にすまなかった」
依然として床と額をくっつけたままのタイヘイにメグミは近づいていく。その足音に気づいてタイヘイは力なく顔をあげた。若者らしい当たり散らすような苛立ちや、騒ぎ立てるような軽薄さもなく、むしろメグミは落ち着いているように見えた。
「立って」
まるで処刑人みたいだ。
口内に溜まった緊張を吐き出したのか、それともメグミに返事をしたのかわからない声をタイヘイは漏らして、立ち上がるとタイヘイの膝は産まれたての小鹿のように笑っている。でも視線はまっすぐメグミを見つめている。立ち姿こそ力ないが、目の奥には潔さがあった。
「何をするのかは分からないが、指を折るとかそういうことはやめてくれ。この先困る」
「別にそんなことしない。後々面倒だし」
一切の笑顔もなく、凍てついた表情のままのメグミ。隣にいたシュンが唾を飲み込んだ音が聞こえる程、部屋の中は緊張で静まり返っている。
「オッサンさ、もう一度襲いに来てよ。全力で」
軽やかなステップでメグミはタイヘイとの距離をとる。左右に小刻みにステップをとりながら、格闘家よろしく相手を視る。
戸惑いながらもタイヘイは気勢を上げ、メグミに突っ込んでいく、そして彼が飛び跳ねて襲い掛かろうとした瞬間―――
メグミが四股を踏むみたいに足を開き、ぐっと腰を落とす。左膝頭を床に付くか付かないかくらいに体勢をさらに低くすると巨躯が小人のように折り畳まれていく。その動きはただ目線を落としたというより、バネを縮ましているみたいに力を溜めこんでいるのか、
「行きます」
―――次の瞬間、内に貯め込んだ力が一気に上昇した。
岩石のように堅く握られた拳がタイヘイの股間を捉える。バネのように縮んでいたメグミの身体は反発力で一気に伸び切り、アッパーカットがタイヘイの股間に減り込んだ。
力を解放する瞬間には旋回も加わり、ドリルのように突き進む推進力でより拳が減り込んでいった。
体重七十kgが勢いのまま宙を舞い、床にたたきつけられた。格闘ゲームなら、目の前にK.O.と表示されていただろう。
「今の技、僕がよく使うやつだ」
「下・右斜め下・右+パンチだったっけ……? 」
「そうそう」
目の前で男一人が突き飛ばされている状況を俺たちは未だ、飲み込めないでいた。まるでアーケードゲームの画面を覗いているみたいだ。
人がショックを受け入れる過程というのはまず「こんなことはあるはずがない」と否定するところから始まる。つまり俺たちは身悶える中年オヤジを見てもまだ第一段階のままで思考が止まっているという事だ。
数分の間を置いて、ゆっくりと事実が頭の中に入ってきた。こんな子に俺は突き飛ばされたり、蹴られたりしていたのか。どうりで、痛み止めもすぐには効かないわけだ。
言葉にならない悲鳴とともにタイヘイはアルマジロさながら蹲っている。
見ていると怖気が背筋を這いずった。実際に殴られてもいないのに、痛みが頭の中で再生され、思わず俺は自分の股間を手で押さえる。
横を見るとシュンもそうしていた。
「よかった……俺のはある。シュンは? 」
「大丈夫……僕のもある」
自分の股間はちゃんとついているのか、なんて、当たり前なことの確認作業を今更終える。あれが俺じゃなくて、心底よかったと胸を撫で下ろす。
きっとタイヘイは今、内臓を手で鷲掴みにされ、力のままにぐわんぐわんと揺さぶられているような痛みに襲い掛かられていることだろう。
渾身の一撃をくらい、白目を剥いて泡を吹かないだけで十分凄い。俺は目の前で悶え苦しんでいる男、いや漢にリスペクトを感じていた。
「これで、気は済んだか……? 」
呻きに言葉が埋もれている。
「はぁー怖かった」
緊張の糸が切れたのか、メグミは力を抜くようにしゃがみ込んだ。
「こっ怖いのは、めっ恵さんだよ」
「そう? いやー、すっきりした! 」
メグミは曇り一つなく笑顔を輝かせた。失神寸前の人を前にして、よくもこんなに晴れやかな表情が出来るもんだ。
笑ったり泣いたり怒ったりと色んなメグミを見てきて考えたが、やっぱりメグミの印象にぴったりなのは「ポップな獄卒」だろう。
「立てます? 」
俺は倒れているタイヘイに手を伸ばす。
縋りつく様に伸びた手を握り、シュンと一緒にタイヘイを立ち上がらせた。そしてソファまで運ぶ。月のようにところどころクレーターがあり、真ん丸なタイヘイの顔が活動的な血色から青白く変化している。
力ない顔を見続けるのもしんどくなってきた。視線を少し下げると草臥れたシャツの胸ポケットに吸いきる寸前のハイライトが収まっていた。
「散々な日になりましたね……まぁ、一服でもどうですか」
俺は内股歩きのタイヘイの背を擦りながら、ベランダに出た。
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