2‐8



「あっ危ないから、どいて」

 ガスマスク男。と言うよりガスマスク少年は身の丈に余る工事用のハンマーを身体全体で振り回し、嵌め殺しになった窓ガラスを次々と破壊していく。

 外から館内に響く轟音と、中へ飛び散る破片に狂人たちの動きが止まる。その隙を利用して俺は人壁をすり抜け、メグミの元に駆け寄った。

「おい。しっかりしろ」

 激しく揺さぶり、頬を叩く。しかし反応はない。

 急いで仰向けに寝かせ、鼻を塞ぐと、そこでメグミは咳きこんだ。近づいていた俺の顔をメグミは弱々しい力で押し退ける。

「やっと来た」

 今まで張り詰め続けていたメグミの顔が今日初めて緩む。

 力なく垂れ下がった手に握られていたのはスマートフォン。着信画面には水上瞬と表示されていた。

「『秘策を待ってんだ』ってこのことだったわけか」

「へへへ」

 体を起こしたメグミは空気が抜けるように笑う。

 やっと、部屋に充満した一酸化炭素が抜ける。痺れが消え、身体の力が戻ってきた。

「さて、ストレス発散でもするか」

「そうだね」

 猛り狂う唸りが聞こえてきた。今か今かとメグミの中で燻ぶっていた怒気は炎のような不定形からさらに密度を増し、はっきりとした形を成していた。隣には猛獣がいる。

「俺の出番はなくてよさそうですか? 」

「うん」その声は直情的な怒りではなく、冷静さを帯びている。

 ああ、メグミって本気で怒ると静かになるんだな、そんなことを思った時、突然犬の鳴き声が聞こえた。それに驚いて割れた窓の方に視線を向けると、樹のせいではなく犬が何度も吠えていた。

「なんだあの犬? 」

 問いかけようとして振り返るとメグミは怒りとは違う感情を纏っていた。

「いや、あたしの出番ないかも。もちろんさっさんの出番もね」メグミの顔は驚きと不安に染まっていた。

「『もちろん』って。それはひどいんじゃないのか。俺にも見せ場―――」

 抜けてきた人壁に再び視線を向けると、壁はもうなかった。

 遠くの波音さえ聞こえる静寂の中でエリが叫んだ。

 閃光弾を食らったかのような衝撃が体を走り、思わず耳と目を塞いだ。心の中で驚きが止み、それから鈍い動きで瞼を開く。

 彼女の手にはナイフがあった。それとべっとりとついた誰かの血。

「―――なんで」

 混沌の渦中で人影が音を立てて崩れた。



 近くの病院に救急搬送され、タカシは今、手術室の中にいる。陽の光のあった時刻はとうに過ぎ、真夜中の暗さが待ち人の心に影を指す。

 祈り願うような二人と、天井を仰ぎ、手を繋いだまま固まってしまっているタカシの両親。これを見たらタカシは何を想うのだろう。あんたを大切だと思う人達は、あんたを失いそうになり、こんなにも取り乱しているんだぞ。俺が説教するのもお門違いだが、今すぐにでも手術室に乗り込んでそう叫びたい。

 手術中を知らせるランプの色が緑に変わり、ドアが開く。

「先生、貴士は―――」タカシの母親が、白衣に縋りつく。

「石田さん。落ち着いて聞いてください。あと数ミリズレていたら重大な臓器障害を併発する可能性があったかもしれませんが、幸いそれはなく、挫滅創及び止血の処置を行うとご子息は一命をとりとめました」

 あの犬の鳴き声がなければどうなっていただろうか。

 信じ難いけど、奇跡のような偶然は本当に存在するんだな。タカシの母親もそこで一息ついた。だが医師の顔はまだ温かみを取り戻していなかった。

「ですが、血中に残った一酸化炭素で昏睡状態です。正直いつ起き上がるかわかりません。起き上がったとしても、神経症状による後遺症が残る可能性があります。ですので、ご家族の方は一度個室で転院の手続きとともに詳しい説明を致しますので」

 医師は、励ますこともなく、冷たく接することもなく、あくまで事務的に説明を終える。説明業務のバトンをもらった看護師が手際よく、両親を連れて廊下の奥へ消えていった。

「あたし、結局、何も出来なかった」

 メグミの声が静かな廊下に響く。

 声が間もなく嗚咽に変わるのを俺は知っている。でもかける言葉はいまだに見つからない。

「防げなかったことだ。仕方がないだろ」そう口にしようとした時、瞬が口を開いた。

「そんなことはないよ。だって恵さんに呼ばれなかったら今頃、貴士のことも知らず、『自分が助けに行けばよかった』ってただ悶々としてるだけだった。でも、メグミさんのおかげで僕はここに来れた。自分で言うのはホント情けないけど、これって意気地なしの僕にとってはすごいことなんだ。背中を押してくれたのは恵さんだよ。『だから何もできなかった』なんて言わないで」

 緊張すると早口になるシュンは時折自分が頭に思い浮かべるスピードについていけなくなって唇をもつれさせながらも言い切った。

 弾幕のように撒き散らしたシュンの言葉はすぐにはメグミに届かなかったが、飛び散った薬莢を拾い集め、まだ熱さが残っているそれらを抱きしめるようにメグミが呟いた。

「ありがとう―――」

 メグミの瞳から溢れだした流れは濁流となり、ぼろぼろと床に零れ落ちていく。

「少し前にさ、俺のことを『ヒーロー』って呼んだことあっただろ? 」

 ぐすっと鼻を啜るとともにメグミが頷く。

「その時も『違う』って思ったけど、今はっきりわかった。メグミにとってのヒーローは他にいる」

「だれ? 」

 泣きじゃくるメグミを前に答えを言ってもよかったが、恥ずかしくてはぐらかした。

「ゆっくり探すといい」

「わかんないよ。はっきりここで言って。誰なの? 」

 縋りつくメグミをゆっくり振り払った。

「恵、もう泣くな。泣くんだったらそのエネルギーを願う方へ向けてくれ。な。ああそうだ瞬、俺は一服してくるからな。後よろしくな」

 去り際、二人の頭に両手を置いて粗雑に撫で回した。

 絞り切った先の言葉が思いつかなくなった俺は二人の前から逃げる。

 ふと振り返ると、メグミとシュンがぎこちなく座っていた。


「結局、子供に責任転嫁か。何もできてないのはどっちだよ」

 夜空の下で煙と渇いた嗤いを吐きだした。誰もいないのを確認して瞼を腕で覆った。



 騒動から数日経ち、警察の事情聴取やら、どこから嗅ぎつけてきたのかわからないがマスコミへの対応やらを終えると、あっという間に高校は夏休みを迎えようとしていた。

 あの後一泊し、夕方ごろ帰ってくると、梅雨も明けたせいでこの街にいよいよ夏本番の暑さがやってきた。

 誰にとっても嫌な季節だが、俺にとって夏は特に辛い。

 というのは、アルビノの体質で日光にはすこぶる弱いからだ。そんな憂鬱をやり過ごすには、娯楽が必要だ。

 最近の俺の娯楽は高校生同士の、見てるこっちが共感性羞恥で目を逸らしたくなるような、ぎこちない交際を見守ることだ。

 高校近くに転院したタカシの見舞いにメグミ達は毎日、足繁く通っている。あの騒動以来、次第に二人で行動することが多くなっている気がする。

 夏休みに進展があれば面白いことになりそうなんだが、シュンは思った通り奥手な少年で最近のふたりを見ていると、とにかく焦れったい。

 それは俺だけでなくメグミもそのように見える。まぁ、これはこれで見ていておもしろいから放っておくことにしよう。


 二人が心配しているタカシの容態はいまだ昏睡状態のまま。

 医者が言うには「一命を取り留めてはいるが、まだ予断は許されない」らしい。

 俺自身はタカシが起き上がっても、特に言うことはない。

 でもメグミやタカシの両親、そしてシュンは伝えたいことが沢山あると思う。いつまで待てせるというのか、あの寝坊助は。


 ちなみに、刺殺未遂で現行犯逮捕された井上絵里には傷害罪が適応され、その他一行には刺殺を幇助した罪が課せられた。

 責任能力も少ないし、犯行が計画的でもなかったため、勘ではあるがエリでも2、3年で出所だろう。その他一行に関しては禁固刑すらないかもしれない。

 普段の彼女たちは雑踏に紛れる一人かもしれない。

 でもあの夜は違っていた。

 頭上に操縦者でもいるかのように連中は集団自殺の完遂に躍起になっていた。

 眼球が飛び出すほど瞼を引き剝いて、譫言を溢しながら襲い来る姿はもはや人間ではないナニカだった。

 そういった危険因子が被害者たちの意志に関係なく解放されてしまう。

 メンバーは地方に散らばっているため、出くわすことはまずないが、可能性はゼロじゃない。

 自分または自分の大切な人達に危険が降りかかると考えると不安だ。もしメグミに、サユリに……と考えたくはない。

 日々を気楽に生きる俺ですらそう思うのだから、きっとタカシの両親はもっとつらく苦しい思いを抱えているのだろう。


「あの子は怖気づいちゃっただけ。だから手伝ってあげたの」

 タカシの脇腹を刺した後、エリはそう言って笑った。

 笑みには善行をやり遂げた清々しさが浮かんでいて、吐き気がするほどその表情が気持ち悪かったのを覚えている。

 これを知ったらタカシの家族はきっと憤りを覚えるだろう。いや、そんなものとうに越した黒い感情が生まれるのは必然だ。


 この件はひと段落終えただけで、根本的は何も解決していない。

 それはタカシの容態然り、拭いきれていないそれぞれの想い然りだ。

 火種が燻ぶったままというのはどうにも居心地が悪い。

 メグミはきっと俺以上に悶々としているのだろう。そのあたりのフォローを是非ともシュンには頑張ってもらいたい。

 心の澱は残るが、それでも日は昇り、暮れていく。

 抗いようのない時の流れが記憶を薄れさせてくれるかといえば、そうであって欲しいが実際は分からない。

 数式に数値や記号を投げ続ければ、必ずその先に答えが待っている。

 でも、何かに意識を向け熱中の渦に自分を投げ続けてしまうとその先に答えが待っているとは限らない。

 それでも盲目のまま構わず前へ進むと永久に不完全燃焼が続く迷路が待ち受ける。


 だから俺は頑張るのが大嫌いなんだ。


 仕方がない、と割り切るのが賢いと思った。じゃないと今みたいな気持ちを抱えることになる。

「なんなんだ……クソッタレ」

 気持ちが切り替わらないまま、夏休みが到来した。そして新たな依頼がやってきた。その依頼人は俺にとっても、メグミにとっても因縁の相手だった。

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