2‐6
起きると車内だった。
腫れた顔を顰めながら窓を覗くと、立ち並ぶ旅館の上に星空が見える。
「やっと起きた」
呆れと憐れみが混じった瞳が俺を見る。メグミの表情には疲れが滲み出ていた。俺が起き上がったところを誰も気にしていないということはきっとメグミが一人で奮闘して事を内々に収めてくれたんだろう。起き上がって数秒で意識することなく、口から「すいません」が飛び出した。
「何やってんのよ」
「はい」反論する気は削がれた。
「大人でしょ」
「はい」返す言葉も見つからない。
「しっかりしてよ」
「はい」ただ途方に暮れるのみ。
「『はい』って言ってればいいと思ってんの」
「はふぃ」
頬を鷲掴みされた。
意気消沈する三十五歳の顔を振り回し、メグミは「もういい。無能は当てにしないから」そう吐き捨ててそれからは俺に視線を戻すことなく、ずっとスマートフォンの液晶の上で指先を滑らせていた。
死ぬ前くらい贅沢したい―――というなんとも漠然とした井上絵里の要望により、俺たちはこの街の老舗旅館に来ていた。
白と黒を基調とした飾り下のない色遣いは訪れるものに親しみやすさを与え、館内から漏れ出るような山吹色の灯は木造建築の温かみをさらに際立たせている。
迎えてくれた女将さんは騒がしくもなく、かといって静かすぎることもなく、適度に明るい人だ。
初対面であるのにさりげないおもてなしや、気さくな女将さんの性格に俺は絆され、今は友達のお母さんぐらいまで距離が縮んでいる。
知り合う過程の中には強引さがなく、さすがは老舗旅館の女将と言うだけある。長年変わることなく愛され続けてきた宿、という謳い文句は伊達じゃない。
エリの考えはどうであれ、確かに死ぬ前にこの旅館を訪ねるのは良い選択だと思う。
だけど、俺はその魅力を表面上でしか感じ取ることができず、堪能は出来なかった。
料理を運べば口に残った血の味が邪魔をし、温泉に浸かれば傷口に湯が沁み、シャワーを浴びるしかないがやっぱり傷口に沁みてその度体が跳ね上がり、隣の少年に心配される始末。
風呂から上がり、傷む心と体を休ませていると、メグミから着信があった。
要件はエントランス前の休憩スペースに集合のこととだけ。
休憩所の長椅子に腰を下ろし、煙草に火をつける。
テレビ横にある本棚には懐かしいタイトル少年漫画が揃っていた。旅館に来て初めて感じる細やかな幸せに浸りながら、頁を捲ってメグミが来るのを待った。
すると、湯気を立ち昇らせながら、浴衣姿のメグミが現れた。旅館の風呂を堪能したはずなのになぜかメグミの表情は晴れやかでない。
「作戦会議を始めます」
「わかった」
「だったら、漫画なんて読んでんなよ」
「おい、ちょっと……ったく今からやっと名推理が始まるとこなのに」
作戦会議もとい、メグミによる一方的な説教を聞く会が始まった。
メグミの顔を苛立ちで曇らせているのは俺だ。それを長々と説教されている間にこれでもかと思い知らされた。
ぐうの音も出ず、俺は女子高生にただ説き伏せられていく。
大人ってなんだろう。プライドってなんだろう。そんなことを説教を聞く間思い続けた。
30分が過ぎるとやっと解放された。
「そう言えば、メグミさん。作戦というのは」
「ああ、作戦ね……」
今さっきまでの強気な顔が一瞬、崩れた。
「秘策があるんじゃないんですか」
「秘策があるというか、秘策を待ってんの」
俺が首を傾げると、メグミは「明日になればわかる」とだけ告げて逃げるように部屋へ戻っていった。
おい、結局説教したかっただけかい。
翌朝、靄のとれない俺の気持ちとは対照的に空は薄花色に染まって、その中で暢気に雲が泳いでいる。見下ろすと、植えられた木々の緑が穏やかな風と一緒に揺れていた。風に乗った葉が遊ぶように舞い落ち、灰色のコンクリートに彩を添える。
「帰りたい。帰って昼寝がしたい」
「え? 帰るってどこに? 」
訝しむ相部屋の住人、ケイスケに心の底から湧き出た独り言を聞かれてしまった。俺は慌ててその場を取り繕い、愛想笑いを浮かべて難を逃れる。
朝食をとり、一晩世話になった女将さんに一行はお礼を告げるとバスを走らせて目的地に向かった。
「あの女将さんいい人だったね」
メグミは遠ざかる旅館にいつまでも視線を止めたままだ。
「だな」
「女将さん『これから自殺しに行く人を自分は送りだした』と知ったらどう思うんだろうね」
「いい気分はしないな」
「そう、だよね」
俯くメグミの顔を覗き込んだ。
「―――みんな、勝手だよ」
こう思うのはきっと他者を気にかけているからなのだろう。
そう思うのはきっとメグミくらいで、多分自分のことしか視野にないメンバーの心には欠片も存在していない気持ち。
「精一杯もてなした女将さんの気持ちはどこに行っちゃうのさ? 」
旅館が米粒程に縮み、視界から消えるとメグミは視線を落とした。
「あの人達は笑っているけどな。だからと言って外に目が向くほどの余裕はないんだよ。だから、あの女将さんのことは、まぁ、本当は心優しいメグミさんが救ってやってくれ」
「うっさい本当はが余計だよ。バカ……」
「おい……泣くなよ」
「……その時はさっさんも一緒だからね」
「はいはい」
「さっさんも。沙友里さんも。瞬くんも……もっと、もっと大勢で行くんだから」
「そうだな」
競技会で校長の願いを叶えられないと知った時だって、今だって、メグミは他人のために涙を流している。
対して俺は震えるメグミの肩に手を添えることしかできなかった。
「……だせぇな」
メグミの泣き声の隣で、自分の声を埋もれさせるように呟いた。
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