2‐5
どんなに呑んでも記憶だけは消えない自分に激しく後悔しながら、ベッドから出る。すると、小さいキッチンに身を寄せて朝ごはん作りに励む二人の姿があった。
「おはよう」
声を掛けると、快活に朝を告げる声と、ぎこちなくてか細い返事が同時に聞こえた。きっとサユリも俺と同じ気持ちなんだろう。
無言のまま、朝食をとり、サユリのアパートを後にする。その時間はちょっと気まずいだけのいつもの朝のはずだった。黒い祭りに巻き込まれるまでは、そう思っていた。
「見て、ペンギン。かわいい」
目の前には女性インストラクターの明朗な掛け声と同時にお辞儀を繰り返すペンギンたち。タイミングがズレながらもインストラクターの掛け声に合わせて何度もこちらにお辞儀をする姿はなんと健気で、愛おしくみえる。
「それはそうだけど、なんか平和すぎないか? 」
俺のボヤキに対して、メグミはメンバーの顔を覗いた。つられて視線をやると、奥に座るタカシ以外、みんなこの時間を楽しんでいた。
シュンには「この会は全員が楽しんでから死ぬって決まりがあるから、泊りがけになるよ」と聞いていた。
分かってはいたが、ここまで周りが燥ぐなんて予想していなかった。
メグミと同様に歓声をあげるメンバーは俺と彼女以外に四人いる。
一人目、伊藤圭介。彼はブラック企業に就職して、過酷労働の末、働く意味を生きる意味と混合してしまった社会人。
二人目、成瀬優子。奇抜なメイクに舌ピアスそしてボディスティッチが彼女のトレードマークだ。彼女は典型的なメンタルヘルスで幼い頃の虐待を引き摺り続け、もう疲れてしまったらしい。
三人目、井上絵里。転職を繰り返すフリーター。声優を目指して上京したらしいが、次々とオーディションに落ちて、夢は潰えてしまったらしい。闇が一番浅いのか、座席で燥ぐ彼女の姿はただ遊びに来ただけのようにも見える。
そして四人目、誰よりもつまらなさそうに景色を見ているタカシ。彼は今何を想ってここに座っているのか。
四人にはそれぞれの虚があり、規模は大なり小なり違うが、虚を抱えて歩き続けることに疲れたのは同じだろう。そういうことを鑑みると、メンバーが燥ぐ姿は今まで笑ってこられていなかった分をこの場で使い果たそうとしているようにも見える。
水族館を後にし、バスは次の目的地へ向かう。座席では相変わらず闇が垣間見えないメンバーが談笑に華を咲かせている。
通路を挟んだ隣に座るエリとタカシの会話が耳に入ってくる。
さすが声優になる為に養成所を通っていただけのことはある。エリの声はよく通って聞き取りやすい。
「貴士くんってさ、高校生? 」
「そうっす」
「そっか。まだまだあるのにね」
「いいんすよ、どうでも。絵里さんはいいんすか? 」
「いいんすよ」
窓の外の景色にエリは目線を置いた。、光を乱反射させて輝く海原が車窓から見える。
「こんな時でも、海は綺麗に見えるんだね」
「海はそこに在るだけすよ。そこに綺麗とか汚いとか思うのは気の持ちようでいくらでも変わる」
「うっわー、冷めてんね。最近の十代って全員こうなの? 」
いつの間にか聞き耳を立てていたメグミがぶんぶんと頭を横に振る。俺は観察を続けた。
「いや、俺だけじゃないかな」
溜め息を漏らすようにタカシは笑う。自分を取り囲むものすべてに冷笑を放ちながらタカシはなおも静かに罵倒を続ける。
「絵里さんはただの海に綺麗という感想を持ったんすよね? それってまだ生きることに希望を感じてるってことじゃないですか? だって俺は同じ景色が映っても、何も感じなかったんだから。絵里さん、本当は死にた――――」
突然エリは取り乱し「違うよ」と否定した。その取り乱し方は言わずとも認めているようにも見える。罪悪感を抱いたのかタカシは罵倒を止める。
「わたしだって、それなりに悩んだの―――その時間や想いを馬鹿にしないで」
緩んでいたエリの顔が苛立ちで歪んだ。
「本気で死ぬから」
その宣言は自分への言い聞かせなのか、それとも、覚悟は決まっているのか。
「そうすか。傷つけたなら謝ります。すいませんでした」
「納得してくれたなら、それでいいよ。理由はそれぞれあるけど、いっぱい苦しんだんだから、今日ぐらいは楽しもうよ」
「そうっすね」
バスはそれぞれの想いを抱え、次の目的地へと向かう。
水族館に行った後、絵画体験教室に向かった。これは普段からピアスや指輪を作っていて、「一度でいいから死ぬ前に、私の絵を残したい」と言ったユウコの要望だった。
出来上がった絵を見せてもらうと、ユウコによって描かれた傷だらけのゴスロリ少女が、此方を見ていた。
普段から創作に明け暮れる毎日を送っているせいか、ユウコの絵はすでに素人の落書きを超えていた。額の奥に本当に少女がいるみたいだった。一同が息をのむ中、メグミだけが「ホラー映画に出てきそう」と誰もが思ったが口に出せなかったことを代弁すると、ユウコは「言えてんね」と笑った。
次に行ったのは、ボルダリング場だった。これは伊藤圭介の要望だ。「最近気になっていたから」という死ぬ前にしてはひどく軽薄な理由だった。
壁に隆起した、様々な石に足をかけ、または手で掴み体のいたるところの筋肉を燃焼させながら、上っていく。運動不足だった俺はすぐにバテてしまい、マットに大の字になった。一度寝転ぶともう昇る気がほとんど失せた。
ボルタリング用のシューズは昇りやすさを追求するためにつま先と接地面のロスを極限に少なくしている。そのため、普段履いているスニーカーの倍は足回りがきつい。特に趾先は普段は横並びになっている足趾が重なるくらいだ。その窮屈さでわずかなやる気も完全に失い、俺はボルタリング場裏の喫煙所へ直行した。
「おい、未成年」
そこにはタカシがいた。派手な出で立ちはなりを潜め、貴士の纏っている衣服は黒で統一されている。
「うるせぇよ」
睨み返しながらそう言ったタカシに苛立ちを覚えながら、真向いのベンチに腰を下ろし、煙草に火をつける。
「シュンが心配している。今すぐこんなところから抜け出して帰れ」
世間話をしてから徐々に本題へ、なんて考えていたが、そんな時間も面倒で、いきなり今回の目的を告げた。
タカシは、一瞬目を見開いたが、すぐに仏頂面に戻った。
「じゃあ、なんで瞬が出てこないわけ? 」
「『僕が行くと余計にこじれる』ってさ。きっと互いに感情的になるのが見えていたんだろうな」
「……んだと? 」
吊り上がった眼尻に、皺の寄った眉間。タカシは分かりやすく、挑発しやすい。
「今ので分かった。そうやってあんたが怒るから、お互い冷静な話し合いができないと瞬は判断したんだな」
「黙れ。お前には関係ないだろ」
「いやいやいや、関係はあるって。だって俺が瞬の代理人だから」
「それでも、お前には関係ない」
「だから聞いてませんでしたか? 俺は瞬の代理人だからここに来てんの」
「黙れ」
「黙るのはあんただ」
親友の行動予測はついていたのだろうが、シュンは人選を誤った。説得するのは俺ではなく、メグミや他の人物の方が良かった。
―――俺はこいつが嫌いだ。
つまり、どんなに理性で抑えても怒りが溢れ、感情でぶつかり合おうとしてしまう。
自覚はしているが、こればかりは止められそうにない。
「だいたい、死んで何になる? あんたが死んだところで世界は変わりやしない。それとも『俺が死ねば何かが変わる』とでも思ったんですか? 」
「うるさい。お前に何が分かる」
「わかるよ。だって俺もこの髪のせいでお前と同じ目にあったからな」
「は?」
逸らしていたタカシの視線が始めて此方に向いた。でも視線は俺を一瞥したきり、すぐに他へと流れていった。
「お前と俺は違う」どこまで行ってもコイツは俺を認めようとしないだろう。体に残った熱気と、外の暑さが苛立ちを加速させる。今すぐにでも暴れてやりたいが、「こいつの前で取り乱したくない」というプライドでその行動を何とか押さえつけていた。
「そうだな。だって俺はやり過ごせた。でもあんたはどうだか」
「何が言いたい? 」
きっと寸でのところで理性を保ち、俺を殴るまいとしているのだろう。拳が震えている。俺と同じ理由でタカシも冷静さを装っているのだろう。だったら、根競べだ。
「あんたが死んでも、何も変わりやしない。そうしたら今からやろうとしていることは全くの無駄だ」
「仮にお前が俺と同じ境遇だとしても、俺はお前になんか同情しないし、話を聞くつもりなんかねぇよ。消えろ」
「そうかい。じゃあ、去り際に一言だけ言っとくよ。あんた、真面目ちゃんだろ? だから疲れん―――」
タカシの拳が俺の右頬に抉り込んだ。口腔内に鉄の味が広がり、歯が取れるほどの痛さを感じたかと思うと、衝撃で左に身体が流れる。
倒れる直前で足をふんばってバランスを立て直す。
そして一発殴ったことで次はないだろうと安心していたタカシの右腹に思い切り拳を減り込ませる。
「お前……学校の職員だろ! 」
「なんだ、気づいてたか。でも今はプライベートなんで」よろけたタカシに間を与えず、俺は拳で彼の顔面を砕いた。
「『職員だから、生徒を殴ってはいけない』確かにそうだな。でもな、そんなもん投げ出しちまえばいい。『俺はクズだから』って開きなおりゃいい。固定観念に縛られているから、あんたは俺に『真面目ちゃん』って言われんだよ」一言吐き出し度、タカシの身体に殴打を浴びせていく。
「自分が良ければそれでいい。お前の言っているのはそういうことか」俺の拳を浴びきった後、膝に手をつき、タカシは此方を握りつぶすような圧を纏って俺を睨んだ。
「ああ、そうだよ。クズなんだから他人のこと気にしてる余裕なんてないわけ」
「自覚してんなら、直そうと思わねぇのか? 」
「アルビノ。障害者。黒人。ホームレス。不倫した俳優。そして外国人ハーフ。後は……暴力職員もか。それって全て他人がつけた名前やレッテルだろ。固定概念だ。別に人種なんてものは自分たちに選べないものだし、特異体質や先天的な障害だってそうだ。それに、暴力を振るう人達だって、大概は衝動的なものだけど、紐を解けば、何か理由があったのかもしれない。なのに話も聞かず、決めつけた者たちは平気でそういった人達にタグをつける。そんな奴らの意見なんてな。気にしたってしょうがないんだよ。所詮人なんてできること限られているんだから俺は俺のことだけ、あんたはあんたのことだけ考えてればいいの。だから直す気なんてないね」
一息で言いきった。
「言いたいことはだいたいわかった。お前、捻くれてんな」
「だから何だよ。臆病者のあんたには言われたくない。あ、ちなみに、俺が殴ったのは『ただムカついた』ってだけだから」
苛立ちで血管がはち切れそうな中、説得を試みたが感情で動く自分が、理性で話す自分に叶うはずもなく、最後に俺が浮かべたうすら笑いが再びゴングとなった。
挑発でタカシの怒りが一気に燃え上がり、俺達はすぐに殴り合いの喧嘩になった。
肌に幾つもの擦り傷ができ、指の骨は繰り返される殴打で軋み、拳が表皮を通して臓器に減り込む度、相手の叫びが頭の中でがなり立てる。
―――お前が嫌いだ。そう叫ぶ代わりに、互いの意地を殴打していく。
「なにやってんの! 」
その声でやっと互いの拳が止まった。
全力で殴り合っていた俺たちは動きを止め、その瞬間に膝から崩れ落ちた。
焦った様子で駆けつけるメグミが視界の中で霞んだ。
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