1‐7
「ここでやるのかよ……」
見上げるほどの巨塔がそこにあった。
円柱状の塔はただ佇んでいるだけなのに、圧を感じる。
ホテルの展望台ホールを貸し切ってやるとは聞いていて、どんなものかと想像もしていたが、目の前の景色は庶民的な予想を遥かに超えてきた。
「圧巻だな……」大抵のことでは驚かない校長ですら息をのんでいる。
「白い海苔巻きが立ってるねー」
何を能天気なことを。
そう思ってメグミの顔を覗くと、彼女は菩薩みたいな顔で遠くを見つめていた。大丈夫だろうかと、目前で手を振っても反応までには数秒かかった。
エントランスから最上階手前まで上がり、会場の中に入れば、余計に緊張は増した。
扉を開けた途端、燕尾服を着こなした男たちの視線と華やかで色鮮やかなドレスを纏った女性の視線が一心にメグミ達に向く。
メグミは最寄り駅を降りた時から、肩を強張らせたままだ。視線が集まるとさらに肩が吊り上がった。その隣を見ると、メグミほどではないが、校長も緊張している様子だった。
「メグミさん、僕も競技会はこれが初めてだから」
校長がメグミの手を取った。寡黙な校長がメグミを鼓舞した。
一瞬驚きはしたが、この大会にそれほどかけているのだろうと思うと納得できた。
「はい」
覚悟を体の中に押し込むようにメグミが呟いた。
開会式を終え、順番が発表される。全二十組の中から、メグミ達は十二番目だ。ちなみに清美さんたちのペアは三組目だった。
これであれば相手の踊りをじっくり観察してから自分たちの踊りができる。ついているぞ。
「サトさん。やってみるよ。もうやるしかないもんね」
「冴島先生。今までサポートありがとう」
深々と校長に頭を下げられ恐縮した。下げた頭をあげてもらうと、校長の表情にいつもの落ち着きがないように感じた。隣を見ると、メグミも戦場に赴くように顔をそして体を強張らせていた。
「今生の別れじゃないんですから。大げさにならず、もっと楽に行きましょうよ」
おどけて見せたというより、おどけるしかなかった。
気楽に振る舞えるのが自分しかいないため、その役回りは必然的に俺に押し付けられる。がんばれと心の中で祈り、メグミ達を送り出した。
今頃、選手たちはステップの確認や、集中するために音楽を聞きながら体を動かしている頃だろう。
コーチではない俺はおとなしく観客席に座っているしかなかった。最後の時までメグミ達を見届けられないというのは何となく心がざわつく。
アナウンスが鳴り、一組目が踊りを始める。
フロアの周りをとり囲むようにして審査員が立っている中で踊るというのは慣れればどうということはないが、そうでない間はどうしても体は思うように動かなくなってしまう。
目の前では若手のペアが踊っている。その影響もあってかワルツの足運びはただステップの軌道を擬えているだけのように見えた。次の組も最初の組と同じ印象を得た。審査員達の表情もそれほど芳しくはなさそうに見える。
「三組目、藤田、武田組」
名前を呼ばれて清美さんたちがフロアに入る。すると、先ほどまでは視線をあちらこちらへ彷徨わせていた審査員達が一斉に清美さんを見た。そして注目が集まったところで踊りが始まる。
清美さん達が踊るのは種目で言うとヴェニーズワルツだ。
この踊りはウィーンを中心としてヨーロッパ中に広まった古典的なワルツで、使えるステップが三種類しかないのが大きな特徴だ。
ステップは右回りのナチュラルターン。その逆のリバースターン。そして回転方向を変えるために前進するステップのみだ。
ワルツとは違いステップの数が非常に少ないため初心者にとっては踊りやすいが、その分表現の幅がぐんと狭まってしまう。シンプルがゆえに難しいこの種目は選手たちには敬遠されがちらしい。
清美さんが纏った漆黒のドレスには胸元のレースや裾に翡翠色があしらわれている。ターンやフロアを滑るような前進の度にドレスの光沢が波打ち、はためく翡翠が体の動きに広がりを持たせている。
ヴェニーズワルツは同じステップを繰り返すので、数瞬前に行ったステップと今行ったステップを比較することができ、細かな粗が出やすい。だけど、清美さん達は隙を一切見せず、バリエーションの少ないなかで洗練された型を貫き通している。
形を一切変えず、幾年にもわたって受け継がれてきたヴェニーズワルツを踊りこなす清美さん達はまるで「私たちの意志はたとえ何があろうとも変わらない」そう声高に訴えているように見えた。
洗練された振る舞いに審査員達が惹きつけられていく。審査員の視線は彼女らを核とした蠱惑の渦の中心に注がれている。
前の二組とは比べ物にならない芯のある美しさがそこには在り、俺もいつの間にか渦の中で溺れていた。音が鳴りやみ、眠りから目を覚ますように前のめりになっていた身体を起こす。正直なところ、この組に勝てる気がしない。
練習最終日の彼らの踊りを思い出す。練習自体は順調であったが、予想していた通り、時間が足りなく、それが演技の足を引っ張っていた。
踊り自体は滑らかになっているし、他と比べても見劣りはしないとも思う。だけどその演技が安定して続けられるかといえばそうではなかった。ステップが違っていたり、足の運びがずれたり、表情が堅かったりと綻びが垣間見えることはある。要するに表現するに際しての持久力がメグミ達には欠けていた。
熟練したプロであればミスをカバーする応用力があるが、メグミ達はそうではない。
ただでさえ競技会で踊るのは綱渡りで足元がふらつくというのに、清美さん達の圧倒的な踊りが暴風となってメグミ達に吹き付けている。
「冴島さん。ちょっと……」
歴然とした熟練度の差に肩を落としていると、縋るような声が聞こえた。振り返ると前島先生がいた。
「メグミちゃんがいないの……冴島さんのところに来ていると思ったのに」
観客席を何度も見渡し、前島先生はメグミの姿がないと分かると「ああ、もう」
と崩れ落ちるように頭を抱えた。
「落ち着いてください。俺も探しますから」きっとメグミの人生の中でこれほど重圧のかかったことはないのだろう。あの踊りを見たのなら出場を躊躇うのも無理はない。だけど、メグミは完全に逃げだすことはしないはずだ。そんな予感を手繰りながら、俺は会場中を駆け巡った。
ロビーの隅で淡い藤色のドレスが蹲っていた。
裾から胸元にかけて藤色が濃くグラデーションされたメグミのドレスは前島先生が知り合いのデザイナーに頼んで作ってもらった特注品だ。
イメージはクレマチス。花言葉は「あなたの心は正しく美しい」そう前島先生が言ったのを覚えている。思い返してみれば、そのドレスを着た時もメグミは着ているというよりかは着られている感じがした。
「行かないのか」
返答はない。言葉の代わりにぐすっと鼻を啜る音が返ってきた。
「じゃあ、やめるか? 」
メグミは首を横に振った。
「じゃあ、なんで立たない。蹲っているということは行きたくない意志の表れだろ」
喋り掛け初めて、やっとメグミが俺を見た。
「だったら辞めればいい。別にお前が競技に出なくても校長が困るだけだろ。校長も『無理なお願いをしてすまなかった』って許してくれるさ。今やめたってお前は誰にも責められない。それに責められたとしても、死ぬわけじゃない。 確かに校長は奥さんを亡くして、新しい恋人にもフラれて可哀想ではあるよ」
捲し立てる俺に驚き、メグミの瞳は俺に固定された。きっと普段の楽観的な印象と違っていることにメグミは戸惑っているのだろう。正直、俺は落ち込む人の手を優しく取れるほど人間ができていない。
「でもな、そんな理不尽―――世の中にいくらでも溢れている」
メグミの瞳にはっきりと苛立ちがこもった。メグミは立ち上がり、俺の胸座を掴み顔を近づけた。
「お前、今なんて言った? 」
猛獣の眼光が体を強張らせる。やはり、メグミはこの言葉が嫌いみたいだ。これでもうメグミは逃げないだろう。
「だから、理不尽なんて必ずあるものだし仕方がない―――」
身体が後方へ吹っ飛んだ。
何事だ、と振り返る野次馬たちを構うことなく、巨人のように足音を鳴らしてメグミが会場へと去っていった。
「十二番。尾形、岩田組」
背筋を伸ばし、悠然と足を運ぶさまを見ていると、ワルツの特徴である優雅さを感じられた。燕尾服に特徴のドレスがきっと印象操作に役立っているのだろう。馬子にも衣裳という奴だ。表情を見ると、開会式前に見えていた焦りや戸惑いというものがない。ほっと胸をなでおろす。
メグミ達がフロアの真ん中に立ち止まり姿勢を整える。お互いの気持ちに触れ合うようにホールドを組んだ時、曲が始まった。
滑るように動きだした校長の足に身体を乗せてメグミがついていく。鏡写しのように二人の動きは同調していた。
前進と後進、そしてターン。踊りなんて細かく解体してみればそんな単純な動きの連鎖だ。でもその動きが連なりとなってさらに音と一体化した時、何故華やかに見えるのだろう。
前島先生の付けた踊りには広がりを持たせるような難しい振り付けはなかった。
単純さで言えばヴェニーズワルツといい勝負だ。だからメグミ達が踊るのは悪く言えば基本的なステップの詰め合わせみたいなものだ。
言い換えれば、背伸びしないで基本的なもので勝負するというのは潔く、誠実でもある。
―――あなたの心は正しく美しい。
清廉さを纏ったメグミ達の踊りを見ていた時、クレマチスの花言葉がふと頭をよぎった。ああ、この花言葉は恵みに対してのエールだったのか。
二人の視線はまっすぐ前を向いている。表情は無駄な硬さが取り払われ、引き締まっている。
―――何があろうとも、この歩みを、想いを、止めることはない。
メグミ達の踊りは、停滞と保身を訴えた清美さん達の踊りに対する返答のように見えた。踊りを見ると優雅に見えるが、きっとメグミ達の心は燃えている。情熱の虜となって踊りにも優雅さと違った熱が現れる。そして短いひと時の幕が下りた。
踊り終わると自然と拍手していた。周りを見ると観客たちが手を叩き、歓喜していた。「いい踊りには自然と拍手が起きるものなの」
前島先生の言葉が頭の中で浮かび上がる。拍手が上がったということは、いい踊りだったんだ。良かった。
メグミ達は贈られる賛辞に戸惑いを見せた後、その拍手に圧倒されてしまった二人はしばらく立ち尽くした後、思い出したかのように頭を下げた。観客がその反応にくすっと笑い、また拍手が送られる。
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