1‐6



 翌日からのペア練習は初日よりましになり、その翌日は良くなり、そのまた翌日には様になっていた。

 メグミはポテンシャル自体は持ち合わせている。初日にそれを発揮できなかったのはお互いの息のズレもあるが、何より二人とも無意識に遠慮しすぎていたのが主な原因だと思う。

 互いを尊重することはペア間の円滑な関係を保つ上で必要なことではあるが、尊重を通り越して遠慮になってしまうと演技をするうえで議論を交わせなくなってしまい、障害となる。さらに一回でもその関係が構築されてしまうと、人は簡単にその壁を壊せなくなってしまう。

 メグミ達もあの夜がなければその路線を辿っていただろう。もう使われなることも少なくなったが、飲みニケーションも悪くない。アルコールの力を借りでもしなければ、大人の仮面はとれない歳になっている。俺でさえそうなのだから、校長なんて特にそうだったろう。


「はい、姿勢はキープしたまま。そこでナチュラルターン。メグミさん、リーダーのライズに合わせて。ちょっと高過ぎよ。それにお互い歩幅揃えて、微妙にずれてるわよ」

 カウントの中に熱のある言葉がメグミ達に飛んでいく。

 細かな注文を聞きながら動きが少しずつ修正されていく。洗練されていく。

「前より流れるようにはなっているわ。でも、技は単体で魅せるのではなく、動きの中に取り入れるの。それを意識してね」

 以前感じていた棘のような檄はなく、メグミ達に対してあたりが少し柔らかくなっている。きっと、それだけメグミ達が努力をして結果を出しているということだ。

 五月に入り、本格的に梅雨入りした街は静かに雨に濡れていく。


 囁くような雨脚がホールの天井に当たる。その静謐の中で床の上を駆ける彼女らの足音が、息遣いが、前島先生のカウントが、響いていた。

 踊る二人を無意識に目で追っている自分がいた。それは二人の頑張りを見ていたから前のめりになっているということもあるが、俺は彼女らにいつのまにか魅せられていた。あっという間に日々が過ぎていく。


 五月も折り返しを迎え、メグミ達が形となったダンスのその先を追い求めている頃、俺は路地を彷徨っていた。

 ほとんどのシャッターが閉まった商店街から延びる細い路地に入っていくと夜の暗闇の中でぼうっと看板が光っている。

 スナック流星という看板の前で立ち止まる。ここは清美さんがママを務めるスナックで、俺は今、敵情視察に来ている。

 店の前で立ち止まると、一世代前に流行した歌謡曲を音痴であることも気にせず熱唱する男の声が外に溢れ出ていた。

「お、今日も威勢だけはいいね」とか「そんなんじゃあ、優勝は俺のものだな」とか野次が飛ぶと、熱唱していた男は歌いながらそれらに悪態をついた。男の返しに部屋の中がどっと沸いて笑いが起きる。あの閑静で上品な隣町の夜とは大違いだ。だが、この雰囲気にはどこか温かみがあって嫌いじゃない。


「こんばんは」

 褪せた白色の灯にノスタルジックな色遣いの内装が店の温かみを演出している。

 カウンター奥の棚にはたくさん、ボトルがキープされていた。並んでいるウイスキーや焼酎の一升瓶などには名前と店で撮った写真が貼られたタグがぶら下がっている。

「いらっしゃいませ。おひとりですか? 」

 柔らかく垂れた目尻がおっとりとした声に良く似合っているホステスに招かれ、カウンターにつく。

「兄ちゃんも歌っていくか? 」

 いいねと沸き立つ酔っ払いたち。

「こら。新顔さんにいきなり絡むと嫌われちゃいますよ」

 彼女は微笑みとともにさりげなく酔っ払いをたしなめた。酔っぱらい達が此方から画面に向き直る。微かに火照る頬や小動物を連想させる瞳にはあどけなさがあるが、落ち着いた言動を聞いていると顔立ちより彼女が何倍も大人びて見えた。

「あの人達、今特訓中なんです」

「へぇー。のど自慢とかですか? 」

「いえ。普段はここにママがいて、あの人達はママのハートを取り合っているんですよ。『この街のマドンナは俺のものだ』なんて張り切っちゃってかわいいですよね」

 はにかむ彼女に目が行く。桜が一輪咲いているように笑う姿を見ていると、ここに通い詰める酔っ払いたちの気持ちもわかる。

「そうなんだ」

 振り返って見渡すと、騒ぐ男達の脇で一緒になって盛り上がるホステスもなかなかの粒ぞろいだ。疲れた時はここへ来よう。そう心に決めた。俺も酔っ払いオヤジの一人になる日は近いみたいだ。

「この店いいですね」

「是非いらしてください。でもあんまり通い詰めすぎると奥さんに怒られちゃいますよ」

「え? 」

 何のことかわからず聞き返すと、彼女の眼が俺の薬指を見ていた。

 驚き、飛び上がった。そこには何故か銀の環がはめられていた。

 犯人はきっとサユリだろう。

「ねぇ、ほんと。なにこれ……」

「どうしました? 」

「いや何も……」

「ならよかったです」と彼女は胸をなでおろした。俺はその衝撃で本題を思い出す。

「ママ、今日いないんですか? 」

「はい」咲いていた笑顔が少し萎れる。

「ママ、なんかここ最近悩んでいるらしくて……」彼女がそう溢すと、男たちの隣で盛り上がっていたホステスたちが話題に入ってきた。

「あたしたちがテーブルで接客している間、カウンターで男の人と話してるときあったよね」

 酔っぱらいたちが聞き捨てならないとカラオケで騒ぐボリュームを落として耳をそばだてた。

「あ、それあたしも見たことあるよ。なんかゴリゴリ筋肉おじさんと話してた」

「本当ですか」目を見開くと、ホステスは話しを続ける。

「なんか、詳しくは聞けなかったけど、ずっと暗い感じで、なんか『手術する』っていってた気が―――」

「手術!? 」

 俺を含めた一同が、そのホステスに向き直る。

 酔っぱらい達、そしてホステスがあれこれと推測を撒き散らしていく。そんな混沌とした渦の中心でホステスは急に泣きだした。少女のようにわんわん泣く姿に一同が慌てふためき、混沌に拍車がかかる。

「ママ、手術って……死んじゃうのかな」

「そんなことない」

 カウンターから泣いているホステスの下に彼女が駆け寄った。二人は寄る辺を求めるように強く抱き合っている。そして彼女も泣きだした。


「千絵ちゃん。優衣ちゃん。そんなとこでどうしたの? 」

 喧々囂々な中ですっと清流が流れる。凛としていて、でも柔らかな声に振り向く。校長の話を聞いて想像していた通りの美人がそこに立っていた。

「ママ」

 渦があっという間に落ち着くと、一同が清美さんを見た。

「あら新顔さんがいるじゃない」

 どうも、と頭を下げ視線をあげると、二人が清美さんに詰め寄っていた。

「ママ、手術するってホント? 」

「違うわよ。手術じゃなくて検査です。四月に健康診断受けたの。そしたらちょっと引っかかっちゃってね。それで再検査するってだけよ」

「でもあんなに暗そうにしてたじゃん」

「ああ、あれは私に好意を寄せてくれる男性のことで相談していたのよ。二人で考えてたら真面目になりすぎちゃって……少し湿っぽく見えたかもしれないわね」清美さんはおどけて笑った。

 なんだ、と店の全員が安堵を取り戻して、酔っぱらいはまたカラオケ大会を始め、ホステスたちは合いの手を入れながらお酒を作る。各々が日常に変えっていく中で清美さんだけはどこか違って見えた。繕っている―――そんな予感を胸に残しながら、グラスを傾けていると俺の前に清美さんが立った。

「いらっしゃい。ここの人? 」

「いえ。こちらにスクールカウンセラーとして赴任してきたんです」

「そうなの」

 学校と聞いて一瞬、清美さんは顔を強張らせた。

「カウンセラーって大変なんじゃないですか? いろいろな人の悩みを抱えるわけですし、気苦労が絶えなさそうですね」

 そう言いながら、空になったグラスにはすでに氷と、焼酎が注がれていた。こうやって男たちは絆され出来上がっていくのだろう。

「そんなことはないですよ。もう慣れっこですから。ママも悩み事があったら聞きますよ。積み荷が一つ増えるぐらいで音をあげる程、やわではないので」

 あくまでさりげなく、糸口をつかもうと手を伸ばしてみた。

「あら。逞しいですね。でも大丈夫」

 しかし、清美さんは糸口を掴ませてくれなかった。鼻を指先で触りながら微笑む。ならば、と俺は半ば強引だが再度攻めてみることにした。

「信用が足りないようなので、カウンセラーっぽいことを一つ。言葉でどう取り繕うとも、人の心理状態って無意識に仕草とかに現れるんです。例えばさっき、微笑みながらあなたは鼻先を搔いた。それって隠し事をしているときのサインなんですよ」

 嫌悪感を示すことなく口を開けて驚いた後、清美さんは観念したように笑った。

「あら、先生にはお見通しですか」

「すみません。なんかつけ入るみたいにずげずげと。でも気になって、美人は笑っているのが一番ですよ」

「お上手ね」そう言ってまた微笑んだ後、清美さんはぽつぽつと喋りだした。

「愛していた人がいたのよ。でもねその人と最近別れてしまって」

「どうしてです? 」

 白々しさが滲み出ないように努める。

「私、手術するんです」

 再度声をあげそうになったが、清美さんが指を口元に持っていったとこで何とかそれを寸でのところでこらえた。

「お体、どこか悪いんですか? 」

「そうね……」

 はいとも、いいえとも、つかない曖昧さに、つい悪い想像が膨らんでしまう。

 問い詰めたい気持ちは逸るばかりだが、これ以上、俺がヒートアップすると周りにも気づかれてしまう。それに糸口を掴んだとはいえ、他人に易々と自分の重大な悩みを打ち明けられるとも思えなかった。

「私は、誠実でいたいんです」

 言いきった清美さんの言葉には真っ直ぐとした力強さを感じた。しかしその強さはすぐに折れ曲がった。

「でも、愛した人の前で誠実でいようとすればするほど、臆病になってしまって……それで、私は彼に嘘をつきました」

「どんなです? 」

「通っているジムのインストラクターの友達に協力してもらって彼に『恋人ができた』と言ってしまったんです……」

 懺悔室にいる気分だった。清美さんの凛とした立ち姿が今は淀んで見える。

 誠実でいたい、と思って、生きてきた清美さんにとって愛した人に対し隠し事をしているのはきっと相当な心労なのだろう。

「打ち明けようとは思わなかったんですか」

「思いました。でも、でもね……出来ないの」俺以外の誰にも見られないように清美さんは目尻から一滴溢れた。

「仕方がなかったのよ」

 最後に呟いた諦めの言葉とは裏腹に顔にはやりきれなさがまだ残っている。

「少しもらってもいいかしら」

 奥から持ってきたグラスに今度は俺が氷を入れ焼酎を注ぐ。

 それを一気に煽ると清美さんは「湿っぽい話はこれきり」と無理矢理、はにかんだ。俺は清美さんに何かを伝えようとしていた。けど痛々しい笑顔に胸は締め付けられ、握りつぶされていった。

 そこからは俺の昔話や、最近の愚痴に耳を傾け続けてくれた。夜が更けていく。


「あら、起きたの」

 いつの間にかいい気分となり、すっかり出来上がって俺は寝ていたらしい。

 差し込む陽が目を焼く。小さく唸ってゼンマイ仕掛けの身体を起き上がらせる。

「はい。お冷」

「すみません」

 水を流しこむと、その冷たさに頭が痛んだ。血管が膨張と収縮を繰り返す度にずきずきと音になって響く。刺激によって叩き起こされた身体が次第に覚醒していく。朝ってことは―――そこで息をのむ。

「今何時ですか」

「朝の六時です」

 そう聞いて少し焦りが和らいだ。これから帰ってすぐにシャワーを浴びていけば間に合う時間だ。

 会計を済ませ、まだ多少おぼつかない足取りで店のドアを開ける。ふと物足りなくなって、振り返る。清美さんが首をかしげた。昨日の記憶が頭を過るとともに握りつぶされていたはずの言葉が浮かんだ。

「『仕方がない』って決めつけるのは自由だし、選択肢の一つだとは思います。でも信じてみるというのも選択肢の一つです。彼はまだ―――諦めていません」

 言い残したまま、顔も見ずに飛び出た。

 らしくないことをしている。

 どうしたんだろうか俺は―――

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