1‐3
レッスンは翌日の放課後から開始された。
「バイトはいいのか」と訊くと「レッスンの後にずらしてもらったから大丈夫」と言っていた。そこまでして稼ぐこともないだろう。親がいるんだから。そう思ったが、人の家の事情を豊甬いうのは野暮だろう。
てっきり社交ダンスというものは老後の時間を持て余した人々のためにあり、または上流貴族のための道楽かと思っていた。しかし、扉を開けフロアを見渡すと、年齢層はバラバラで身分こそ分からないが様々な人々が音楽に合わせた振る舞いを披露していた。
歳、経験、所属がバラバラな生徒たちに共通していることはきっと―――踊ることに対して真摯でいること、なのだろう。見ていると、各々鏡やビデオカメラに映った姿を見て、自分の身のこなしを振り返ってペアとあれこれと論議を繰り広げている。
「本当に始まるんだ……」
ダンスと誠実に向き合う人々の熱に臆してメグミは一度足を止めたが、自分を奮い立たせるために「よろしくお願いします! 」喉が張り裂けんばかりに声をあげ頭を下げた。
レッスン生全員がぎょっと目を見開き、此方を見る。
「道場じゃないんだから。恥ずかしい」
俺はその視線から目を逸らしたいがために頭を下げた。いまだに頭を下げ続けるメグミを横目で見ると茹で上がるような赤面がそこにあった。
数秒の沈黙の後、我に返ったように講師が「尾形さんから話は聞いています。私は前島祥子。お嬢さんどうか頭をあげてこちらへ」とフロアに俺たちを招いた。
「あ、お父様はどうぞあちらの観覧車席にお座りください」
訊き返したかったが、別にいいだろう。大方あの不器用な校長のことだ。「娘と、男が来る」とだけ伝えたのかもしれない。それに保護者扱いならうっかりペアを組まされることもないだろう。
「あなた、昔バレエとかやってた? 」
「いや。でも昔父親の出演していたミュージカルに子役として出たことがあって、その時センスがいいと褒められたことはありましたけど……」
「やっぱりね」
「でも、それはホールとかでやるミュージカルではなくて、大学の演技サークルの卒業生としてお父さんが劇団に行くときにちょっとやっただけで」
「そうなんだ。それはいい想い出ね」
微笑む前島先生にメグミの照れ笑いが重なる。
確かに、普段の気だるげな姿とは違い、丸まっている背中が緊張していてよく撓っている。前島先生の左手をとり、右肩に手を添え、お互いが体を引き寄せるとホールドが完成した。
リードの足の運びに合わせてメグミはフォローとして見よう見真似でリードの動きに追従していく。
少しおぼつかないきがするけど、別に見苦しくはない。周りで踊っていたレッスン生も足を止め、メグミに視線を向け始めた。
目を見張る者のもいれば感心して手を叩く者もいる。中には「まだまだだ」と言いたいばかりに視線を向けてくる者もいた。観覧車の思考は様々だが、注目されるほどのインパクトをメグミは周りに与えている。
「試しに曲に合わせて踊ってみてよ」
三十代半ばのペアがコンポ横にあるラックから一枚取り出し、再生した。
かかった曲はベニー・グッドマンの「SING,SING,SING」
トロンボーン、トランペット、サクソフォンの音で自然に体が動いた。ドラムがおずおずと踊るメグミを囃し立てる。前島先生のステップの踏み込みが強くなる。
飛び跳ねながら踊るリードにメグミはついていくのが精一杯だ。まず付いていけることが既に凄いが、先ほどよりも踊りに見苦しさが交じっていく。暴れ馬に跨ったはいいが振り落とされそうなカウボーイみたいだった。
「先生、いきなり、こんなの」
「出来るわ。あなたなら」
「そんなこと言われたって」
軽快に鳴り響くドラムに合わせて二人は応酬を続ける。メグミの意見がごもっともだ。初日にこんなこと出来るはずない。
「私はあなたを歓迎したいだけよ。だからステップのことなんて考えなくていい。楽しみなさい」
「―――はい」
少しの躊躇いの後、メグミがそう言った瞬間だった。
メグミは足元を確認する事を止めた。ただ相手に合わせ飛び跳ねて、舞うことにだけ意識を絞って、曲に入り込んでいく。
先ほどのような同調は感じられないが、踊りが力強く、堂々としてきた。脳裏には何故か教師を次々と殴り倒していくあの光景がよみがえる。あの時憶えた爽快感と今が重なっているからなのだろうか。
自然と周りから手拍子が沸き立った。
手拍子をいち早く送ったのは先程値踏みするような視線を送っていた男だ。手拍子を贈る以外にはリズムに乗って身体を動かす者もいる。数組のペアはメグミが起こした流れに身を投じるように踊りだす。俺も無意識に爪先でリズムを刻んでいた。
ひょっとしたら―――そんな予感がする日だった。
翌日もメグミはレッスンをこなしていく。
目指すは月の宮杯優勝。
期限は一カ月後の六月初旬。技量は伸びている。だけど順調ともいえなかった。だいたいスケジュールがタイトすぎる。
個人レッスンの内容は基本的なステップを始め、フォローの振る舞い方、踊るうえでの足りない筋力のトレーニングまたはしなやかさを強化するための柔軟など。いわゆる曲を踊る前の基礎練習を連日にわたってこなしていく。
月野宮杯とは、事業家であり、財閥関係者でもある月野宮義時が開催しているプロ、アマ問わず参加可能な非公式の大会である。
しかし、その大会は非公式であるが伝統は古く、今年で五十周年を迎えるらしい。その話を聞いた時、ひょっとしたらと思った自分が急に信じられなくなった。
毎年、初夏に避暑地のホールで月野宮杯は行われる。
大会に集まる審査員もオフィシャルの大会と遜色ないメンツが並ぶ。現役を引退としたとはいえダンス界の中では名を馳せた有名選手や、現在活躍するプロの選手が座り評価を下す。
もちろんそこで優勝すればプロ、アマどちらも大きく脚光を浴びることとなる。そのため若手ダンサーも登竜門ともなっている。そんな由緒ある大会を校長は告白のリベンジの舞台にしようとしているのだから、なんというか流石大物といった感じだ。
告白に失敗した校長は未練が消えず、レッスン教室を覗きに行ったそうだ。すると窓越しに見えた彼女はあのトレーニングジムの男と抱き合って踊っていた。
掴みかけていた彼女の隣を彼氏としても、そしてパートナーとしても失った校長は衝動に歯止めが聞かず乗り込んでいった。
「月野宮杯で優勝したらもう一度考え直してください」と校長は頭を下げた。すると彼女は「優勝なんてできっこないですよ」そう吐き捨てた。そして「私たちも出場するの。勝てっこないと思いますが、もしできたら考えてもいいです」と付け足した。
「そこはもっとのびやかに。あなた手足が長いんだから」
「はい」
「姿勢が崩れているわ。もっとテンポに合わせて」
「はい」
檄が飛ぶとともにメグミはその言葉に合わせて体を動かそうとする。文句ひとつ言わずに毎日取り組んでいるおかげで動きが洗練されていっている。
前島先生には無理を言って教室のレッスン開始一時間前から教えてもらっている。こうなったのもメグミが頭を下げたからだ。初めて教室に入った時と同様にありったけの思いを込めて頭を下げたメグミの姿に俺も前島先生も目を見張った。その甲斐あってか前島先生は他の生徒の何倍も熱を込めてメグミに向き合ってくれている。
「違う。ここの足の運びはつま先の裏でフロアの床を舐めるように動かすの。分かった? 」
「はい」また一つ檄が飛び、メグミはそれに呼応する。
メグミが踊りに取り組む姿は、あのだらけた姿をどこに置いてきた、と訊きたくなるくらい真剣で、でもどこか焦りすぎのようにも見えた。
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