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 尾形総一郎。

 彼は見た目こそヤクザに見えるが、芯は教職者でできている、と思う。そう思ったのは、メグミに対して教頭がとった理不尽な対応を責める時、校長は本気で憤慨していたからだ。

 怒鳴る声の迫力は嵐のように凄まじかったが、その声音には生徒を想う気持ちからくる熱がこもっていた。

 話し出すと、その話の中にはちゃんと感情の動きを感じられて、あたりまえだけどこの人も人間なんだなと思った。きっと校長は表現することが少し不器用なだけなんだろう。

 そんな校長がボールルームダンス、いわゆる社交ダンスをしていることが話の中で明らかになった時は驚きを隠せなかった。同時にどんな風に踊るのか少し興味がわいた。

「復讐がしたい」その言葉に行きついたのにはこういった経緯があった。


 不器用ながらも他人を思いやるという志を常に持っている校長には器が広く、そして陽だまりのように穏やかな奥さんがいた。

 一昨年のことだ。娘、息子夫婦がともに孫を社会へ送り出し、息子、孫に対して面倒を見ることもほとんどなくなった頃、さぁ残りの余生を謳歌しようじゃないかと、夫婦はその年、出来る限り旅に出かけた。

 体力作りから始めた登山。

 大河ドラマの舞台となった地を巡る旅。

 雨の予報だったが運よく快晴となって観ることができた逆さ富士。

「思い返せば色濃い一年だった」校長はその思い出を慈しみ、また少し寂しそうに語っていた。

 寂しそうにしていたのは校長の妻がその年に他界してしまったからだ。だけど口調からは悲観ではなく、慈しむような温かみを感じた。きっと最後の歳を笑って過ごして奥さんは穏やかに旅立っていったのだろう。話を聞く中でそう思った。

 しかしいくら穏やかに別れられたとしても、死別してしまったことには変わりなく、校長の心にはぽっかりと穴が開いた。

 その空洞を何で埋めようか。残った余生をどう過ごそうかと校長は考えた。

 定年を迎え退職し、このまま地元で気の合う友達と昔に戻ったように燥いでみるのもいい案だ。そんなことを考えていた時に校長はある人と出会った。

 本名こそ知らないがその人は清美と名乗った。教えてもらった名はいわゆる源氏名というやつで、二人が出会ったのは、高校近くの商店街通りにあるスナック、彼女はそこのママだった。

「一度しかない人生なのだからもう少し冒険してみたらどうです? 」

「そう思うか」

「そうよ」

 微笑む姿がどこか亡き妻と似ていて、それでいて亡き妻より笑みには気品が香っていた。

「ねえ。もしよければいらしてみませんか? 」

 艶めいた髪は後ろで結わえられ、きっちりとセットされた夜会巻きは彼女の清廉さを象徴していた。

「競技ダンス? 」

 カウンターの上に差し出されたチラシを校長は食い入るように見つめている。すると彼女のすっと取った鼻筋がひくひくと震えている。


 競技ダンスとは二人一組で行うものであり、互いに役目がある。

 まずはペアの舵をとり幾つものステップなどを組み合わせて表現していくリードというポジション。このポジションは基本的に男性が務めるもので文字通り、ペアを先導していく。花形である分、責任は重く、リードが行った表現の良し悪しでそのペアの評価が決まる。

 次にこちらは女性が務めるものでポジジョンの名はフォローという。文字通り、リードの動きをフォロー、つまり追従する立場であり、ダンスの花形がリードであるのなら、こちらは、土台といったところだろうか。フォローには表現の全体を整える、あるいはバランスを保つ役割を担っている。普段はリーダーのとる動きに可能な限り同調しているのだが、ステップ時の過剰な踏み込みや身体のバランスを一瞬崩しかけた時に支えるのもフォローの役割となる。

「どんなに形よく整えられてとしても土が良くなければ割れてしまうものなのだよ」

 陶芸に絡めて力説する校長は明らかに先ほどと違って話に熱がこもっている。そんな熱にあてられながら「彼女への好意を抜きにしたとしてもこの人は本気でダンスに入れ込んでいただろう」と思った。


 ボールルームダンスの説明が終わり、校長の感情がワントーン、落ちていき、話はまた続いていく。

「総一郎さん。そんなに見ていると、チラシに穴が開いてしまいますよ」彼女は楽しそうにまた微笑む。しかし、校長は「僕にはこういったことには向いてないよ」とゆっくりチラシを突き返した。そこで数瞬の沈黙があり―――

「向き不向きなんてやってみなければわからないわ」

 いつもは「そうですか」と退くところを彼女は退かなかったそうだ。そのことに校長はかなり驚いたらしい。

「もう歳だし、去年から腰が痛くて登山もしてない」

「いいわけばかりしていると、あっという間ですよ」

 口調は先程より強くなり、俯いていた顔をあげると射るような目つきでこちらを見る彼女の姿があった。結局、背中を蹴るような視線に感化され、翌週から校長はレッスンに通うようになった。

「その時にはもう清美に惚れていた」

 そういって校長は二人の出会いの件に一言付け足した。語る顔は照れくさそうだったが、幸せそうに見えた。

 いよいよレッスンが始まり、まずは基本的なステップから―――始めてみると目の前で踊る講師の通りに上手く体が動かない。それは分かっていた。だけどこうもできないかと、校長はその時愕然としたそうだ。

 それから校長はひとしきり赤面し終えた後「ダンスの動きと表現に耐えうる体をまずは作ろう」と決意した。

 独りこっそりと努力しようと誓ったのは清美さんを驚かせるためだったが、ある朝、飼い犬の散歩をしていた彼女と出くわしてしまった。鉢合わせだったため、逃げるのも不自然で校長はしぶしぶその場に留まった。

「一人だけで特訓するおつもりですか」

「違う」

 言い張る校長に対し彼女がぐいと顔を近づけ覗きこむ。見られているのが堪らなく、校長は目を逸らした。真一文字に結んだ口が段々とへの字に曲がっていく。校長の顔はどんどん強張っていく。

「あら、お顔が崩れていますよ」

「別に嘘をついているわけじゃ……」

「嘘なんて誰が言いました? 私はただお顔が崩れているとだけお伝えしただけですよ」

 意図して引き出された自白に対し、弁解する言葉が見つからず、校長はまた口をへの字に曲げた。

「ペアなんですから、私が付き合ってもいいじゃないですか」

 結局、校長は彼女の笑顔に負けた。俺を含め、男というものは美人の笑顔には大概弱いものだ。

 それからは毎朝のランニングを始め、トレーニングジムにまで二人で通うようになった。ペアとして過ごしていく時間が積み上がるにつれ、彼女との距離も縮まっていく。ダンスのパートナーが余生のパートナーになる日も近いと校長は予感していた。

 お互いに呼吸が同調するようになってきて、二人のダンスは見違えるほど華やかになっていく。そしてついに予感は実感へと変わっていく。

 一緒に和服の買い付けへ行ったり、酒造を見学しに行き、店に入れる日本酒の品定めに行ったりと、彼女とプライベートを共有するようになった―――そう思っていた。


「告白した」

 過去形、そして俯く頭にしな垂れた肩。

 差し込む夕焼けは部屋の奥側にあるソファにまで光が及ばず、そこに座った校長は影を纏っている。

「だけど、フラれた」

 校長の次の言葉を先にメグミが口に出した。

 さっきまでの怯えはどこに消えたんだか、それにしてもこいつは本当に人のメンタルを折るのが得意なようだ。プライドを傷つけられた男の激情を分かってない。

 怒ってやしないか、と俺は恐る恐る校長の方を覗く。

 校長は「そうだ」と苦しそうに言葉を吐きだす。とりあえず噴火は免れたようだ。心の内でほっと一息ついた。


 告白した翌日彼女は「私、この人と付き合っているの」とだけ校長に告げたらしい。彼女の腰に手を回し、「よろしく」と言い放った男は、色黒の伊達男で二人が通っているジムのインストラクターでもあった。

 姿を見た時、校長の中で思い出が甦る。

「見て。あの方逞しいお姿なのに内股歩きね」

 そう言って本人に聞こえないように静かにトレーニングルームの片隅で笑い合った記憶があった。

「しかし今思い返せば、その人を見ていたとき彼女は本当に楽しそうだった」と校長はため息交じりに語った。


「失礼を承知で聞きますが、私たちはそのトレーニングジムを襲うわけではないですよね? 」

「そうじゃない」

「では何を」

「その子を借りたい」

「え、殴り込みじゃないですよね? 」

 メグミ、校長の眼光が俺を容赦なく刺す。きっと今、俺は見えない数十本の槍を首元につきつけられている。

「ではなぜ? 」消え入りそうな声で問いかけると、校長は項を掻き毟りながら言いにくそうに、


「どうか俺と一緒に―――ダンスを踊ってくれないか」そう言った。


 突拍子もない提案だが俺にとってその一言はチャンスでもあった。

「面白そうですね」

 長い物には巻かれろというし、面倒な事を押し付ければ、メグミも愛想をつかせてボディガードなんていう仕事から解放してくれるかもしれない。

「え―――」と言ったままメグミは硬直している。

 そして俺を睨んだ。解放の前に半殺しか。しかし、覚悟は次の瞬間、あっさり砕けることとなる。

「わかった。じゃあ、あたしは校長のフォローをするということ? 」

 目を疑ったが、メグミはまっすぐ校長を見ている。既に役割を認識してすらいる順応の速さに校長も驚きを隠せないのか、数瞬の沈黙の後「ああ、頼む」と目を見開いた。

 黒ずんだ瞳の中にわずかに希望が光っているのが分かった。

 流石パートナーを名乗っただけのことはある。敬いなど上下関係に関する気遣いなど全く無視して、「よろしく」といって立ち上がったメグミは校長に向け右手を伸ばした。堂々とした姿に対し、目には目をとばかりに校長も立ち上がる。まるでお偉い方の会談みたいだ。

「頼りにしている」

「はい」

 握手を交わした後、校長が去っていった。

「私これからバイトだから」

 校長に続いて席を立つメグミ。「じゃあな」と言いながら廊下に出た。

 遠ざかっていく背中が小さくなる。メグミは手と足を同時に出してロボットみたいに歩いていた。

「大丈夫か……? 」

 こうして、リチャード・ギアにも役所広司にも似つかぬ武骨な男とそれに匹敵するほど不愛想な女子高生のペアが誕生した。

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