マッドな科学で青春は回る

「さようなら」


 私はそう告げて、背を向けた。


 彼が春野を選ぶことは明らかだった。


 人は一人しか愛せない。


 複製された私が暴走した日以来、彼は春野に付きっきりだった。人は一人しか愛せないから。


 彼はあの時から、春野を選んでいたのだ。


「お元気で」


 そう一言添えた後、保安検査場に再度向かう。


 すると、私の右手が唐突に引っ張られた。歩みは強制的に中断される。


「はあ……」


 見なくても分かった。だからこそ、私は大きなため息をついた。


 いつまでも、うじうじと、いい加減しつこい。どうせ私のことなんて、好きでもないくせに。春野が一番、好きなくせに。


「夏木。いい加減に……」


 そう言いながら私は振り向く。


「お前がどうでも良い奴なら良かったのに。お前が可愛くない奴だったら良かったのに。お前が一途に俺のことをずっと好きでいてくれなければ良かったのに」


 すると私の言葉を遮るように、夏木は言った。彼はずっと顔を伏せたままだ。


「泣いているの……?」


 垂れた雫を偶然に見て、私は恐る恐る聞いた。すると彼は、それに答えるように顔を上げた。


 その顔に、私はドキッとした。


 やはり夏木は泣いていた。零れそうな涙を零れないように堪えながら、しかし溢れてしまっていて、それでも必死に私のことを見つめていた。


 夏木がこんな風に泣いているところを見たのは、いつぶりだろう。


「秋音。お前にはまだ、伝えていないことがある」


 そんな顔でそんなことを言われるものだから、私は黙ってしまう。


「いつか伝えるべきだと思ってたんだ」


 そして夏木は、私のもう片方の手を掴んだ。両手を握られて、私はドキドキしてしまう。


 手汗を感じた。夏木のかも知れないし、私のかも知れない。もしくは二人の手汗かも知れない。


「秋音」

「は、はい!」


 手元に注目していた私だが、夏木に呼ばれて慌てて返事をした。


 夏木と目が合う。真っ直ぐ私を見つめている。


 頬がじんわりした。ああもう。手を握られただけで、こんなにもドキドキしてしまうなんて。


 そして夏木は、ゆっくりと口を開いた。



「好きだよ」



 その言葉は、私の右耳を通り、私の身体に一切の刺激を与えないまま、左耳から出て行った。


「えっ……」


 そんな間抜けな声を出してしまう。


 好き? 好きってなんだっけ。いやいや、さっきまで何度も思い浮かべていた言葉じゃないか。声にも出した気がするぞ。ああそうか、これがゲシュタルト崩壊だ。


「秋音のことが好きだ」


 夏木の言葉が再度通り抜ける。今度は鼓膜辺りを掠めていったかも知れない。


「私のことが、好き……?」


 先ほどの言葉を口にした。すると身体の奥底から、奇妙な感覚が湧き上がってきた。その感覚は私の心を震わせて、私は思わず、腰が砕けそうになる。


「う、嘘……」

「嘘じゃない」


 夏木はすぐさま否定した。


「ずっと一途に思ってくれる奴に、惚れない訳がなかったんだっ!」


 力尽くで気持ちを伝えるかの如く、夏木は叫んだ。


「だから秋音。お前は独りじゃなかった。そしてこれからもだ」


 私の両手がより一層強く握られた。


「俺は春野と別れないぞ。お前も好きだけど、お前よりも、春野の方が好きだからな」


 夏木は上ずった声で滅茶苦茶に言いながら、そして強引に笑みを向けてきた。


 ふいに、夏木が前に押された。春野が走って夏木に抱きついたのだ。


 ぼさぼさの髪の毛。肌は荒れ、私以上に深い隈が出来ており、頬も少し痩けている。しかしそれでも、春野らしい、私を挑発するような笑みを向けてきた。



「悔しかったら、奪ってみろ。バーカっ!」



 普段ならただのムカつく煽りのはずだった。自分と別れないと知ったから調子に乗ってるだけだと。いや実際そうなのかも知れないけど。


 でもその言葉で、私は確かに救われたのだと思う。


 これからも夏木を好きでいて良い。なんなら奪ったって良い。これからも迷惑を掛けて良い。


 そう、許しを得た気がしたのだ。


 ならばまだ、耐えられる。まだ、戦える。私が思っていたよりもずっと、希望はあったのだ。


 私は春野を見つめた。生意気な笑みを浮かべて、彼女も私を見つめ返す。


「私、負けないから」


 私の声は上ずっていた。





「夏木っ!」


 凜とした声が響く。


 聞き慣れた声に呼ばれて、俺は安心して振り向いた。しかし予想外の光景に、俺はハッとしてしまう。


「おはよ。夏木」


 そこにいたのは春野だった。まだまだ冷えるこの時期。今日は朝も早いので、余計に冷え込むから、春野は制服の上からコートを羽織り、マフラーを巻き、手袋を装着して完全防備だった。


 いや、それよりもだ。


 俺は春野をまじまじと見た。


「春野。イメチェンしたんだ」

「ああ、うん。まあ、色々とね」


 ポニーテールだった。それは以前、未来から来た春野と同じ髪型である。


「どう、似合う?」


 そう俺に聞いてくる春野は、何だか妙に大人びていて、まさに俺が抱いた未来の春野に対する印象そのものだった。


「ああ。何だか大人っぽくなったな」


 俺は正直に言った。


「ふふ。ありがと」


 そう言うと春野は、俺の手を握って、引っ張るように歩き始めた。春野は手袋をしていて、俺もしている。だから感触は僅かなものだ。だが、それはそれで趣深い。


「秋音は、大丈夫かな」


 俺はポツリと呟く。


「大丈夫よ」


 春野は迷うことなく言った。


「去年の夏休みにさ、花火大会に行ったじゃない? それで、みんな離ればなれになっちゃってさ」

「ああ。そうだな」


 まさに先ほど、その頃のことを思い出していた。


「私その頃、実は未来から来た秋音に会ってさ」


 それは大体予想通りだった。秋音は未来から来た俺から素材を貰った。俺は未来から来た春野と色々話した。ならば春野は、未来から来た秋音と会っていると考えるのが妥当だろう。


 あの頃のことはお互いに話していない。だから春野があの時、未来から来た秋音と何をして、何を話したのかは、知らなかった。


「なんて話したんだ?」


 俺は気になって尋ねた。


「ううん。話してはいない」


 春野はそして、呆れたように笑った。


「私、負けないからって。そう一方的に言い放って、それで終わり」

「ああ、なるほど」


 俺も釣られて笑った。確かに、それなら大丈夫そうだ。





 やがて学校に着いた。上履きを履いて、階段を上がり、廊下を進む。この決まった動きをするのは、何度目だろう。


 理科室が見えてきたところで、鼻唄が聞こえてきた。低刺激低トーンの、落ち着いた音色だ。


「……っ!? 全くもうっ!」


 すると何故か春野が、焦ったように理科室に急いだ。なんだか前にも似たようなことがあった気がする。


 俺は理科室のドアの前に立った。ドアの向こうから、二人の話し声が聞こえてくる。


「ふふ」


 俺は嬉しくて、つい笑った。春野は俺の恋人で、秋音は大切な幼馴染み。いつもと同じ。変わらない。それがこんなにも幸せだなんて。


 俺はドアに手を掛けて、ゆっくりと開けた。理科室の窓が見えて、続いて春野の姿が目に入った。理科室のだだっ広い教卓の上には、見覚えのある球体の装置が複数個あって、さらに装置の素材らしき奇妙なものが陳列されていた。


 俺はそれらを見て確信した。ああそうか。思ったよりも近い未来だったらしい。それならば今日は、ちょっと大変そうだ。


「あ、夏木っ!」


 そして彼女の姿が目に入った。ボサボサの髪の毛。黒い縁のダサい眼鏡。深い隈。そして白衣を身に纏った幼馴染み。


「よう、秋音」


 今日も回る。


 いつも通りに、ぐるぐる回る。


「ふっふっふ。今日の発明はねぇー」


 マッドな科学で、青春は回る。

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