さようなら秋音

 冬休みが明けた。


 水溜りが凍った道を避けながら、俺は一人学校に向かう。


 空はこんなにも晴れているのに、陽光はただ眩しいだけで、全く暖かくなかった。


「寒いな……」


 俺は呟く。いつもなら隣にいる春野が同調してくれるのに、今日はそれがない。


 だから余計に寒く感じた。


 学校に着くと、校門前にはいつものように田島が仁王立ちしていた。


「おはよう。うん? 今日は一人か」


 田島とはすっかり仲良くなった。この人とも色々あったからなあ。


「ええ、まあ」


 俺は誤魔化すように返事をして、その場を去った。





「今日は皆に悲しいお知らせがある」


 朝のホームルーム。担任の教師は悲しげな表情をしながら、仰々しく宣った。


 秋音が退学するという旨の内容だった。海外に移住し、誘われていた大企業に就職するらしい。


 ストンと、心の中で何かが落ちた気がした。


 俺は隣の席を見つめる。秋音が座るはずのそこは空席だ。


 こういう日が、いつか来るとは思っていた。


 結局の所、人は一人しか愛せない。ハーレム主人公だって、最後には誰か一人を選ばないといけないのだ。


――もう、お終いだね。私たち。


 秋音の言葉が、心の中で木霊する。





 ガラガラと、教室のドアが開く。一限目は日本史の授業だ。


 起立、礼、着席の号令を終えて、授業が始まった。


「うん?」


 渡辺先生は俺を見つめて、そう呟いた。


「何故、貴様がそこにいる」

「えっ……」


 相変わらず口が悪い。だがそれよりも、俺は渡辺の言うことが理解出来なかった。


「大事な友人が、遠くに行ってしまうのだろう」


 俺はようやく、渡辺の言いたいことを察した。


 渡辺がそんなことを言うのは意外だった。しかし時任の時の一件を考えれば、渡辺らしいのかも知れない。


「行っても仕方がないです」


 俺は力無く答えた。


「まだ俺の中で、結論を出せていませんから」


 秋音を引き留めるには、それなりの答えが必要だろう。きっと秋音は今でも、俺のことを好きでいてくれている。だからこそ、秋音は俺から離れる選択をしたのだ。


 ならば秋音を引き留めるには、春野と別れて、秋音を愛すると誓うしかない。


 本当にそれで良いのか、俺には分からない。


 答えが出せないのなら、秋音の選択に従うしか無いだろう。


「はっ。馬鹿が」


 渡辺先生は俺の言葉を聞いて、吐き捨てるように言った。


「良いか貴様ら。よく聞けよ」


 そう言ってギロリと、クラスメイト達を睨む。もうおじいちゃんと呼ばれるような歳のくせに、その迫力は相変わらずだ。


「貴様らは若い。だから今、この一瞬が、人生の全てと思うのかもしれない」


 しかしその語り口は、しめやかなものだった。


「だが貴様らの高校生活なんて、人生におけるほんの一部分でしかない」

「高校生活なんてものは、あっという間だ。悩むことに時間を使うなんて、もったいないんだ」

「どうせ馬鹿な貴様らが必死に考えたところで、正解を導き出せるとは限らない。だったら、さっさと決めて行動しろ。そして結果を出し、その結果に一喜一憂しろ」


 何故だろう。


 口は悪いのに、すんなりと言葉が入ってくる。


「貴様」


 俺を睨む渡辺。


「結論を出せてないと言ったな」


 そして言い放つ。


「貴様が出すべきなのは結論ではない」


 渡辺は続きを言わない。敢えて言わないのだろう。


 結果を出せ。その結果に一喜一憂しろ。そう言いたいのだ。


「渡辺先生」


 いてもたってもいられなくなった俺は、思わず立ち上がる。


「今日は早退しますっ!」


 俺は叫ぶように告げると、廊下に出た。スマホを確認すると、タカ兄からチャットが来ていた。


”秋音が海外に行ってしまう件。申し訳ないけど、夏木君には敢えてギリギリに伝えることにした”

”僕は常々、君と秋音は離れるべきだと思っていた。君は春野ちゃんとずっと交際するべきだと思うし、しかしそれなら秋音の恋は永遠に叶うことも無い”

”だから秋音は君から離れ、もっと清らかで希望のある恋愛をするべきだと思っていた”

”だがそうするべきだと思うのは僕のエゴだ。君たちの主張だって考慮するべきだろう”

”だが心底落ち込んでいる秋音を見て、僕はもう本気の主張しか興味が無くなった”

”夏木君。君が秋音とどうなりたいのかは知らない。ただ秋音に対して本気で何かを成し遂げたいと思うのなら”

“今から全力でこの空港に向かうと良い。君の気持ちが本気なら、きっと間に合うはずだ”


「分からない」


 俺は呟く。


「何を成し遂げれば良いのかなんて、分からないけど。でも俺の望みははっきりしている」


 俺は廊下を見渡した。授業中だから、誰もいない。窓ガラスから差し込む光が、ピカピカの床に反射している。


――タンッ!


 俺はその床を蹴る。すると軽快な音が廊下中に響き渡った。


「どうすれば良いか分からない。でも」


 階段に差し掛かる。


――タンッ!


 その一段目を思い切り踏み込んで、飛び降りた。


「どうにかしたいんだ!」


 踊り場に着地して、俺は再度同じことをしようと足に力を入れる。


「おっと」


 踊り場でぶつかりそうになったのは田島だ。


「すいません!」

「あっ、おい! ……ったく、仕方が無い。俺も早退するか」


 そんな呟きが聞こえたが、俺は止まらずに走った。


 そのまま玄関を出て、校門を抜け、長く続く歩道をひた走る。


 その歩道には様々な幻影があった。春野と一緒に登校する俺。秋音に呆れながら下校する俺。秋音と春野に挟まれて、幸せそうに笑う俺。そして今朝の、しょぼくれた俺。


 全力で走る俺は、それらを追い越していく。


 もういっそ、何もかも追い越してしまえ。

 


「秋音ぇええ!」



 そして不確かな未来に、追いつくのだ。





 お昼過ぎ。某空港の出発ロビーにて。


 俺は行き交う人々を掻き分けて、秋音を探していた。


「もうチェックインは済ませたのか」


 自動チェックイン機周辺を隈なく探したが、秋音は見当たらない。


 俺は走り回る。やがて保安検査場の大きな看板が見えた。


 あそこは危険物の持ち込み検査を受ける場所だ。ほとんどの空港でお見送りはあそこまでとなる。


――ビィーーーー。


 危険物を知らせるアラートが響いて、周囲が注目した。


「あ、ああ……すっ、すいま、せん。多分これでひゅ」


 低刺激、低トーンの聴き慣れた声が響く。慌てて噛んでしまうところも、彼女らしい。


「何ですかこれは」


 スタッフが怪訝な顔で尋ねた。


「……爆弾です」

「爆弾!?」


 周囲は騒然となった。


「あ、ああ、だっ、大丈夫です。人を傷つけるようなものじゃありませんから」

「どういったものですか?」

「え、あっ、知りたいですか?」


 明らかに秋音の声色が変わった。


「ふっふっふ。名付けてアンチフィアーボムっ! これを起爆するとね、半径10メートル以内に爆風が広がってね、その爆風に触れた人の恐怖心を一時的に緩和させられるんだ!」


 とても愉快に、饒舌に話す秋音。あいつの人見知りって、そんな簡単に解消されるものなのか。


「因みに、それを使ってどうするおつもりで?」

「もし墜落することになったら、せめてこれを投げて客と私の恐怖心を緩和した状態で、死のうかなって」


 ……思いのほか後ろ向きじゃん。


「これは?」

「これも爆弾です」

「またですか!?」

「これも人を傷つけるものじゃなくて……EMPなんですけど」

「EMP!?」

「電磁パルスなんですけど」

「いや知ってますが」

「電子機器を壊しちゃうやつです」

「だから知ってますって!」

「私の発明品は暴走するとヤバいことが分かったので、これで強制シャットダウンします」

「飛行機のシステムもシャットダウンするのでやめてください」


 スタッフも漫才みたいなノリになってきたな。


 って、黙って見ている場合じゃ無い。


「秋音っ!!」


 俺は彼女の名を呼ぶ。


 そして行列を掻き分け、持ち物検査の前に立っていた秋音の手を掴んだ。


「夏木!?」

「よう。探したぞ」


 驚いた後、複雑そうな表情を秋音は浮かべた。


「すいません。ちょっとこいつの荷物整理させてきます」


 俺はそう言って強引に秋音を連れていった。





「そうだよね。やっぱりちゃんと、さようなら、しないとね」


 俺に引っ張られながら、寂寥に満ちた表情で秋音は言う。


「さようならもなにも、お前あの調子じゃ飛行機乗れないだろ」

「そんなことないもん。私の学習能力を舐めないで」

「まあ確かに学習してるよ。EMPで強制シャットダウン、よく考えたな。あの時これがあれば、偽物の暴走も止められたはずだし」


 ほんの少しだけ沈黙が続いた。そんなつもりは無かったのだけれど、ちょっと嫌みっぽかったかも知れない。


「そうだ。春野の容態は?」

「あいつは強いから大丈夫だよ。今日は大事を取って来なかったけど」

「そう。春野が一番精神的にきているはずなのに、すごいね」


 実際、春野はかなり追い込まれていた。それこそ家族に心配される程で、俺も病院に行くべきだと何度も説得した。しかし春野は断固拒否した。事情を全て話してしまえば、警察沙汰になるかもしれない。そうなってしまったら、本当に、秋音とお別れになってしまうから、と。


「春野はあんな目に遭っても、お前を待ってるんだよ」


 出発ロビーの開けた場所で立ち止まり、俺は言った。


「俺もそうだ。秋音とお別れなんて、嫌だ」


 俺の言葉を受け止めた秋音は、しばらく無言で佇立していた。


「まったく。分からず屋だなあ」


 穏やかな表情だったのに、一気に嫌そうな表情を向けてきた。


「お終いだって、言ったでしょ」


 ゆるやかに、しかし確実にボルテージが上がっているようだった。


「夏木、もしかして分かってないの? 私はもう正気。確かに複製された私の、増幅した感情を吸収したけれど。私はもう、夏木が知っている私なの!」

「ああ、分かってるよ」

「本当に? じゃあ受入れてよ。私が、きちんと考えて出した答えなの。私のことが大切なら、受入れてくれるでしょ?」


 それは違う。違うはずだ。


――男女が相手に不安になっちまうのはね。大抵、話し足りてないんだよ。

――いやいやそうじゃないよ。心の底からの、嘘偽りのない会話だよ。


 ふいに、そんな会話を思い出した。誰との会話だったっけ。


――まあつまりは、お互い何を考えているのか、もっとよく話せってことだ。

――難しいですね。

――でも、いつかはしなくちゃならないよ。


 ああ、そうだ。秋音とも、しなくちゃいけない。きっと今が、その時なのだろう。


 嘘偽りの無い、本心からの会話を。


「じゃあ教えてくれ、秋音。お前がどうして、俺たちから離れようと思ったのか」


 すると秋音は、静かに瞑目した。きっと考えをまとめているに違いない。


 やがて彼女は、目を閉じたまま、そっと口を開く。


「私は、何かを発明するのが好き」


 そんな切り出して、彼女の独白は始まった。


「何かを発明することが私の生きがい。発明を止めるなら死んだ方がマシ。私の好きって、それくらいなの」

「そして夏木も、春野も。二人とも大好き」

「でも分かったの。何かを発明する度に、二人を危険な目に遭わせてしまう」

「ううん。そんなことは建前。本当は……」


 秋音はそして、握りしめた拳を震わせた。


「本当は……!」


 秋音はゆっくり顔を上げた。相変わらず隈が酷い。しかしその眼光は力強く俺を射抜いた。


「夏木といるのが辛い!」


 秋音の叫びが響く。


「夏木。あなたは私に優しくしてくれた。困った時には助けてくれた。一緒に遊んでくれて、間違ったら怒ってくれた」

「でもあなたは私にキスしてくれない。恋人のように抱きしめてくれない。私が求めても、応えてくれない」

「心が満たされないとね。独りの時がより一層寂しいんだ。凄まじい孤独感がさ、お前は独りだ、お前は独りだって主張してくるんだよ」


 とても辛そうに、秋音は語る。


「独りって言うなよ。俺と春野がいただろ」


 俺は諭すように言った。


「俺は楽しかったぞ。秋音は違ったのかよ」

「楽しかったよ。でも、寂しかった」


 秋音は気まずそうに目を逸らした。


「三人でよく遊んで、よく笑ったよね。楽しかったなあ。でも、ふと二人を見るとね、水を差すように孤独を感じるんだよ。それを誤魔化すように、私はさらに笑ったりしてさ」


 俺はショックだった。これまでの楽しかった日々。少なくとも俺は、心の底から楽しんでいた。でも秋音は違ったらしい。


 もちろん、秋音がそう思うのは当然だ。好きな人が、別の人を好いている。その事実を抱いたまま、純粋に楽しめるはずがないのだ。


 俺はその辺りの考えが、甘かったのかも知れない。いや、分かっていたつもりだった。ただ俺から見て秋音は、それでも楽しそうだった。


 でもそうじゃない。そうじゃなかった。秋音に甘えていたのか、俺は。


「ねえ夏木。私たち、友達じゃないよ」


 何気なく発せられたその言葉は、俺の心をへし折るようだった。


「友達じゃ、なかった」


 秋音はひわやかに目を逸らして言う。


「じゃあ、何だっていうんだよ」


 友達じゃないなら、何だというんだ。


「さあ。でもこれからは、はっきりするよ。明日から私たちは、赤の他人」


 悲しみが抑えられない。今にも泣いてしまいそうだ。


「夏木。人はね、一人しか愛せないんだ」

「ああ、そうだな」


 それは嫌というほど思い知らされた。


「夏木は春野を愛してあげてね」


 そう言い残して、秋音は踵を返した。


 まるで、それが別れの言葉だとでも言うかの様に。


「秋音!」


 俺は呼び止める。


「行かないでくれ。秋音」


 そして去りゆく秋音に、手を伸ばした。


 嫌だ。赤の他人だなんて、認めたくない。


「じゃあ夏木。私を選んでくれる?」


 秋音は立ち止まって振り返り、俺にそう言い放った。


「春野と別れて、私を愛してくれる?」


 それは、秋音が俺に対する問いだ。


「そうしてくれるなら、行かないであげる」


 正真正銘、最後の問いである。


「別れたくないっ!」


 秋音とは別の声が響いた。


 振り返ると、そこには春野がいた。そして離れた場所には田島がいる。彼が春野をここまで連れてきたのだろう。


「夏木、お願い」


 春野は泣きながら、懇願した。


「私を捨てないで、夏木」

「春野……」


 俺は春野を見る。やつれた顔にぼさぼさの髪の毛。肌は荒れ、目には深い隈が出来ている。秋音によって植え付けられたトラウマの所為で、春野は酷く変貌してしまった。


 春野を放っておく訳にはいかない。


「ほら、夏木」


 前方にいる秋音と、後方にいる春野を交互に見る。


 どうすれば良い。


「はやく選んで」


 人は一人しか愛せない。


「夏木が好きなの! 夏木じゃないと駄目なの!」


 その一人を、選ぶ時が来た。

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