さようなら秋音
冬休みが明けた。
水溜りが凍った道を避けながら、俺は一人学校に向かう。
空はこんなにも晴れているのに、陽光はただ眩しいだけで、全く暖かくなかった。
「寒いな……」
俺は呟く。いつもなら隣にいる春野が同調してくれるのに、今日はそれがない。
だから余計に寒く感じた。
学校に着くと、校門前にはいつものように田島が仁王立ちしていた。
「おはよう。うん? 今日は一人か」
田島とはすっかり仲良くなった。この人とも色々あったからなあ。
「ええ、まあ」
俺は誤魔化すように返事をして、その場を去った。
*
「今日は皆に悲しいお知らせがある」
朝のホームルーム。担任の教師は悲しげな表情をしながら、仰々しく宣った。
秋音が退学するという旨の内容だった。海外に移住し、誘われていた大企業に就職するらしい。
ストンと、心の中で何かが落ちた気がした。
俺は隣の席を見つめる。秋音が座るはずのそこは空席だ。
こういう日が、いつか来るとは思っていた。
結局の所、人は一人しか愛せない。ハーレム主人公だって、最後には誰か一人を選ばないといけないのだ。
――もう、お終いだね。私たち。
秋音の言葉が、心の中で木霊する。
*
ガラガラと、教室のドアが開く。一限目は日本史の授業だ。
起立、礼、着席の号令を終えて、授業が始まった。
「うん?」
渡辺先生は俺を見つめて、そう呟いた。
「何故、貴様がそこにいる」
「えっ……」
相変わらず口が悪い。だがそれよりも、俺は渡辺の言うことが理解出来なかった。
「大事な友人が、遠くに行ってしまうのだろう」
俺はようやく、渡辺の言いたいことを察した。
渡辺がそんなことを言うのは意外だった。しかし時任の時の一件を考えれば、渡辺らしいのかも知れない。
「行っても仕方がないです」
俺は力無く答えた。
「まだ俺の中で、結論を出せていませんから」
秋音を引き留めるには、それなりの答えが必要だろう。きっと秋音は今でも、俺のことを好きでいてくれている。だからこそ、秋音は俺から離れる選択をしたのだ。
ならば秋音を引き留めるには、春野と別れて、秋音を愛すると誓うしかない。
本当にそれで良いのか、俺には分からない。
答えが出せないのなら、秋音の選択に従うしか無いだろう。
「はっ。馬鹿が」
渡辺先生は俺の言葉を聞いて、吐き捨てるように言った。
「良いか貴様ら。よく聞けよ」
そう言ってギロリと、クラスメイト達を睨む。もうおじいちゃんと呼ばれるような歳のくせに、その迫力は相変わらずだ。
「貴様らは若い。だから今、この一瞬が、人生の全てと思うのかもしれない」
しかしその語り口は、しめやかなものだった。
「だが貴様らの高校生活なんて、人生におけるほんの一部分でしかない」
「高校生活なんてものは、あっという間だ。悩むことに時間を使うなんて、もったいないんだ」
「どうせ馬鹿な貴様らが必死に考えたところで、正解を導き出せるとは限らない。だったら、さっさと決めて行動しろ。そして結果を出し、その結果に一喜一憂しろ」
何故だろう。
口は悪いのに、すんなりと言葉が入ってくる。
「貴様」
俺を睨む渡辺。
「結論を出せてないと言ったな」
そして言い放つ。
「貴様が出すべきなのは結論ではない」
渡辺は続きを言わない。敢えて言わないのだろう。
結果を出せ。その結果に一喜一憂しろ。そう言いたいのだ。
「渡辺先生」
いてもたってもいられなくなった俺は、思わず立ち上がる。
「今日は早退しますっ!」
俺は叫ぶように告げると、廊下に出た。スマホを確認すると、タカ兄からチャットが来ていた。
”秋音が海外に行ってしまう件。申し訳ないけど、夏木君には敢えてギリギリに伝えることにした”
”僕は常々、君と秋音は離れるべきだと思っていた。君は春野ちゃんとずっと交際するべきだと思うし、しかしそれなら秋音の恋は永遠に叶うことも無い”
”だから秋音は君から離れ、もっと清らかで希望のある恋愛をするべきだと思っていた”
”だがそうするべきだと思うのは僕のエゴだ。君たちの主張だって考慮するべきだろう”
”だが心底落ち込んでいる秋音を見て、僕はもう本気の主張しか興味が無くなった”
”夏木君。君が秋音とどうなりたいのかは知らない。ただ秋音に対して本気で何かを成し遂げたいと思うのなら”
“今から全力でこの空港に向かうと良い。君の気持ちが本気なら、きっと間に合うはずだ”
「分からない」
俺は呟く。
「何を成し遂げれば良いのかなんて、分からないけど。でも俺の望みははっきりしている」
俺は廊下を見渡した。授業中だから、誰もいない。窓ガラスから差し込む光が、ピカピカの床に反射している。
――タンッ!
俺はその床を蹴る。すると軽快な音が廊下中に響き渡った。
「どうすれば良いか分からない。でも」
階段に差し掛かる。
――タンッ!
その一段目を思い切り踏み込んで、飛び降りた。
「どうにかしたいんだ!」
踊り場に着地して、俺は再度同じことをしようと足に力を入れる。
「おっと」
踊り場でぶつかりそうになったのは田島だ。
「すいません!」
「あっ、おい! ……ったく、仕方が無い。俺も早退するか」
そんな呟きが聞こえたが、俺は止まらずに走った。
そのまま玄関を出て、校門を抜け、長く続く歩道をひた走る。
その歩道には様々な幻影があった。春野と一緒に登校する俺。秋音に呆れながら下校する俺。秋音と春野に挟まれて、幸せそうに笑う俺。そして今朝の、しょぼくれた俺。
全力で走る俺は、それらを追い越していく。
もういっそ、何もかも追い越してしまえ。
「秋音ぇええ!」
そして不確かな未来に、追いつくのだ。
*
お昼過ぎ。某空港の出発ロビーにて。
俺は行き交う人々を掻き分けて、秋音を探していた。
「もうチェックインは済ませたのか」
自動チェックイン機周辺を隈なく探したが、秋音は見当たらない。
俺は走り回る。やがて保安検査場の大きな看板が見えた。
あそこは危険物の持ち込み検査を受ける場所だ。ほとんどの空港でお見送りはあそこまでとなる。
――ビィーーーー。
危険物を知らせるアラートが響いて、周囲が注目した。
「あ、ああ……すっ、すいま、せん。多分これでひゅ」
低刺激、低トーンの聴き慣れた声が響く。慌てて噛んでしまうところも、彼女らしい。
「何ですかこれは」
スタッフが怪訝な顔で尋ねた。
「……爆弾です」
「爆弾!?」
周囲は騒然となった。
「あ、ああ、だっ、大丈夫です。人を傷つけるようなものじゃありませんから」
「どういったものですか?」
「え、あっ、知りたいですか?」
明らかに秋音の声色が変わった。
「ふっふっふ。名付けてアンチフィアーボムっ! これを起爆するとね、半径10メートル以内に爆風が広がってね、その爆風に触れた人の恐怖心を一時的に緩和させられるんだ!」
とても愉快に、饒舌に話す秋音。あいつの人見知りって、そんな簡単に解消されるものなのか。
「因みに、それを使ってどうするおつもりで?」
「もし墜落することになったら、せめてこれを投げて客と私の恐怖心を緩和した状態で、死のうかなって」
……思いのほか後ろ向きじゃん。
「これは?」
「これも爆弾です」
「またですか!?」
「これも人を傷つけるものじゃなくて……EMPなんですけど」
「EMP!?」
「電磁パルスなんですけど」
「いや知ってますが」
「電子機器を壊しちゃうやつです」
「だから知ってますって!」
「私の発明品は暴走するとヤバいことが分かったので、これで強制シャットダウンします」
「飛行機のシステムもシャットダウンするのでやめてください」
スタッフも漫才みたいなノリになってきたな。
って、黙って見ている場合じゃ無い。
「秋音っ!!」
俺は彼女の名を呼ぶ。
そして行列を掻き分け、持ち物検査の前に立っていた秋音の手を掴んだ。
「夏木!?」
「よう。探したぞ」
驚いた後、複雑そうな表情を秋音は浮かべた。
「すいません。ちょっとこいつの荷物整理させてきます」
俺はそう言って強引に秋音を連れていった。
*
「そうだよね。やっぱりちゃんと、さようなら、しないとね」
俺に引っ張られながら、寂寥に満ちた表情で秋音は言う。
「さようならもなにも、お前あの調子じゃ飛行機乗れないだろ」
「そんなことないもん。私の学習能力を舐めないで」
「まあ確かに学習してるよ。EMPで強制シャットダウン、よく考えたな。あの時これがあれば、偽物の暴走も止められたはずだし」
ほんの少しだけ沈黙が続いた。そんなつもりは無かったのだけれど、ちょっと嫌みっぽかったかも知れない。
「そうだ。春野の容態は?」
「あいつは強いから大丈夫だよ。今日は大事を取って来なかったけど」
「そう。春野が一番精神的にきているはずなのに、すごいね」
実際、春野はかなり追い込まれていた。それこそ家族に心配される程で、俺も病院に行くべきだと何度も説得した。しかし春野は断固拒否した。事情を全て話してしまえば、警察沙汰になるかもしれない。そうなってしまったら、本当に、秋音とお別れになってしまうから、と。
「春野はあんな目に遭っても、お前を待ってるんだよ」
出発ロビーの開けた場所で立ち止まり、俺は言った。
「俺もそうだ。秋音とお別れなんて、嫌だ」
俺の言葉を受け止めた秋音は、しばらく無言で佇立していた。
「まったく。分からず屋だなあ」
穏やかな表情だったのに、一気に嫌そうな表情を向けてきた。
「お終いだって、言ったでしょ」
ゆるやかに、しかし確実にボルテージが上がっているようだった。
「夏木、もしかして分かってないの? 私はもう正気。確かに複製された私の、増幅した感情を吸収したけれど。私はもう、夏木が知っている私なの!」
「ああ、分かってるよ」
「本当に? じゃあ受入れてよ。私が、きちんと考えて出した答えなの。私のことが大切なら、受入れてくれるでしょ?」
それは違う。違うはずだ。
――男女が相手に不安になっちまうのはね。大抵、話し足りてないんだよ。
――いやいやそうじゃないよ。心の底からの、嘘偽りのない会話だよ。
ふいに、そんな会話を思い出した。誰との会話だったっけ。
――まあつまりは、お互い何を考えているのか、もっとよく話せってことだ。
――難しいですね。
――でも、いつかはしなくちゃならないよ。
ああ、そうだ。秋音とも、しなくちゃいけない。きっと今が、その時なのだろう。
嘘偽りの無い、本心からの会話を。
「じゃあ教えてくれ、秋音。お前がどうして、俺たちから離れようと思ったのか」
すると秋音は、静かに瞑目した。きっと考えをまとめているに違いない。
やがて彼女は、目を閉じたまま、そっと口を開く。
「私は、何かを発明するのが好き」
そんな切り出して、彼女の独白は始まった。
「何かを発明することが私の生きがい。発明を止めるなら死んだ方がマシ。私の好きって、それくらいなの」
「そして夏木も、春野も。二人とも大好き」
「でも分かったの。何かを発明する度に、二人を危険な目に遭わせてしまう」
「ううん。そんなことは建前。本当は……」
秋音はそして、握りしめた拳を震わせた。
「本当は……!」
秋音はゆっくり顔を上げた。相変わらず隈が酷い。しかしその眼光は力強く俺を射抜いた。
「夏木といるのが辛い!」
秋音の叫びが響く。
「夏木。あなたは私に優しくしてくれた。困った時には助けてくれた。一緒に遊んでくれて、間違ったら怒ってくれた」
「でもあなたは私にキスしてくれない。恋人のように抱きしめてくれない。私が求めても、応えてくれない」
「心が満たされないとね。独りの時がより一層寂しいんだ。凄まじい孤独感がさ、お前は独りだ、お前は独りだって主張してくるんだよ」
とても辛そうに、秋音は語る。
「独りって言うなよ。俺と春野がいただろ」
俺は諭すように言った。
「俺は楽しかったぞ。秋音は違ったのかよ」
「楽しかったよ。でも、寂しかった」
秋音は気まずそうに目を逸らした。
「三人でよく遊んで、よく笑ったよね。楽しかったなあ。でも、ふと二人を見るとね、水を差すように孤独を感じるんだよ。それを誤魔化すように、私はさらに笑ったりしてさ」
俺はショックだった。これまでの楽しかった日々。少なくとも俺は、心の底から楽しんでいた。でも秋音は違ったらしい。
もちろん、秋音がそう思うのは当然だ。好きな人が、別の人を好いている。その事実を抱いたまま、純粋に楽しめるはずがないのだ。
俺はその辺りの考えが、甘かったのかも知れない。いや、分かっていたつもりだった。ただ俺から見て秋音は、それでも楽しそうだった。
でもそうじゃない。そうじゃなかった。秋音に甘えていたのか、俺は。
「ねえ夏木。私たち、友達じゃないよ」
何気なく発せられたその言葉は、俺の心をへし折るようだった。
「友達じゃ、なかった」
秋音はひわやかに目を逸らして言う。
「じゃあ、何だっていうんだよ」
友達じゃないなら、何だというんだ。
「さあ。でもこれからは、はっきりするよ。明日から私たちは、赤の他人」
悲しみが抑えられない。今にも泣いてしまいそうだ。
「夏木。人はね、一人しか愛せないんだ」
「ああ、そうだな」
それは嫌というほど思い知らされた。
「夏木は春野を愛してあげてね」
そう言い残して、秋音は踵を返した。
まるで、それが別れの言葉だとでも言うかの様に。
「秋音!」
俺は呼び止める。
「行かないでくれ。秋音」
そして去りゆく秋音に、手を伸ばした。
嫌だ。赤の他人だなんて、認めたくない。
「じゃあ夏木。私を選んでくれる?」
秋音は立ち止まって振り返り、俺にそう言い放った。
「春野と別れて、私を愛してくれる?」
それは、秋音が俺に対する問いだ。
「そうしてくれるなら、行かないであげる」
正真正銘、最後の問いである。
「別れたくないっ!」
秋音とは別の声が響いた。
振り返ると、そこには春野がいた。そして離れた場所には田島がいる。彼が春野をここまで連れてきたのだろう。
「夏木、お願い」
春野は泣きながら、懇願した。
「私を捨てないで、夏木」
「春野……」
俺は春野を見る。やつれた顔にぼさぼさの髪の毛。肌は荒れ、目には深い隈が出来ている。秋音によって植え付けられたトラウマの所為で、春野は酷く変貌してしまった。
春野を放っておく訳にはいかない。
「ほら、夏木」
前方にいる秋音と、後方にいる春野を交互に見る。
どうすれば良い。
「はやく選んで」
人は一人しか愛せない。
「夏木が好きなの! 夏木じゃないと駄目なの!」
その一人を、選ぶ時が来た。
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