激昂ミラージュ~窒息する程のキスを

 俺は目を覚ました。身体を起き上がらせて、呆然と部屋の壁を見つめた。


 額には汗が流れていた。俺はそれを拭って、周囲を見渡す。


 一戸建ての寝室。そこに設置されたダブルベッドに俺は寝ていた。


「おはよう、あなた」


 低刺激で低トーンで、しかしどこか明るい雰囲気の声がして、俺は振り向く。そこには秋音が寝ていた。


「ああ。おはよう、秋音」


 俺は妻の名を呼ぶ。結婚して数ヶ月。秋音から「あなた」と呼ばれることにもすっかり慣れた。


「なんか、嫌な夢を見たよ」


 そう言いながら、ベッドに横たわる秋音を愛おしく見つめた。寝起きの彼女の髪の毛は、相変わらずモジャモジャだ。しかしすっぴんの顔でも可愛らしくて、ネグリジェの姿はどこか大人っぽい色気があった。


「そう。でも大丈夫。人間の身体は必要なことしかしない。悪夢を見る理由だって、脳がネガティブな情報を適切に処理するために見ると言われているの」


 科学者の彼女らしい、慰め方だった。


 俺たちは起き上がって身支度を済ませる。


「パンで良いよね」

「ああ」


 テーブルには皿に乗ったトーストと、マーガリン、ジャムの瓶が置かれた。


「はい、これ」

「ありがとう」


 そして遅れて、ホットコーヒーが置かれた。コーヒーを飲むのは俺一人だ。秋音は訳あって飲めない。


「本当は朝ご飯って食べない方が良いのよ。むしろ一日三食が身体に良いっていう、科学的根拠は無いんだから」

「聞いた聞いた。でもお腹空いちゃうしなあ」

「だから、その空腹の時間が大事なんだって」

「そうかも知れないけど、お腹が空くと集中力がさあ」

「今日はお休みなんだから、集中力なんて必要ないじゃない」


 秋音は結構、健康に気を遣うタイプだった。俺が太らずにいられるのも、彼女が栄養バランスをとことん追求した料理を作ってくれるからに他ならない。


 かくいう秋音は、今日も朝ご飯は抜きらしい。俺は先ほど集中力とかほざいたけど、本当に集中力を高めたいなら朝ご飯はやはり抜くべきだそうだ。


 俺はコーヒーを啜る。


「ああ~良いなあ。私も飲みたい」


 恨めしそうに秋音は言う。彼女は極度のカフェイン愛好家だった。結婚する前は朝に一杯、昼に一杯コーヒーを飲む。そしてその間にエナジードリンクを飲んだりもしていた。


 そんな秋音は完全なるカフェイン断ちを決意した。現在遂行中である。


「何時頃だっけ」

「11時よ。休みだからって起きるの遅かったから、そろそろ行かなくっちゃね」


 俺はトーストを食べ終えて、流し台で皿を軽く洗った。その間に秋音は家の鍵を持って、戸締まりなどの出発の準備をする。


「じゃあ、行こうか」

「ええ」


 俺と秋音は手を繋ぐ。もうすっかり慣れた彼女の感触は、恥ずかしいとか、ドキドキするとかよりも、ホッとするような気持ちになった。





 着いたのは駅前。人通りの多い券売機前の近くに、見知った人物が二人いた。


「春野、冬人。お待たせ」


 二人は俺の声に振り向く。


「秋音、夏木。久しぶりね」


 とても嬉しそうに春野は言う。すっかり人気モデルになった春野は、変装の為にサングラスを掛けていた。しかしそれでも長い肢体に膨よかな胸は隠し切れていない。サングラスがあまりに様になっているものだから、彼女のカリスマ性を余計に引き出していた。


 一方で冬人は、昔のような子供っぽさはすっかり無くなっていた。むしろ中性的な顔立ちが、まるでアイドル歌手のような雰囲気を醸し出している。


「夏木お兄ちゃん。大丈夫? 秋姉のこと、泣かしてない?」

「むしろ虐めて泣かせてたのは冬人の方だろうが」


 そういえば学生の頃からこいつは腹黒かった。最近成人式を迎えた現在、その腹黒さはどういった方向に向かったのだろう。恐ろしくて、追求することは出来ない。


「じゃあ、行こっか」


 春野が言う。


 なんてことはない。今日は懐かしの四人でランチをしよう、ということになったのだ。





 駅から少し歩くと、テラス席を広く取ったカフェに辿り着いた。ここはホテルの一階入り口にあって、昼はランチ、夜はディナーを楽しめるところだ。


 緑豊かな木々や植物、そしてそこに溶け込むような深緑色のテラスを進んでいき、全面ガラス張りの入り口を通る。


 すると、着物のような凝ったデザインの制服を、身に纏った店員が出迎えてくれた。ちょうど窓際の四人がけの席が空いていて、そこに案内される。


「うっわぁ、高いわね」


 めちゃくちゃ凝ったデザインのメニューを開いて、春野は言った。


「よく言うよ。めっちゃ稼いでいるくせに」


 俺は皮肉った。春野はテレビ出演するほど人気のモデルだし、秋音はノーベル賞を受賞した、今世界で最も注目されている科学者だ。大学生の冬人は何だか不気味なことをしているようだが、やはり稼いでいるらしい。今この場で最も稼げていないのは、刑事になった俺だろう。


「まあまあ。私が奢ってあげるから」


 秋音がニヤニヤしながら言った。


「くっそ……俺だって夢を叶えたのに」


 俺は愚痴りながら、メニューを開く。なるほど……。ここは野菜、というかヘルシー志向の料理が自慢らしい。入り口のテラス席もそうだが、テーマカラーが緑なのはそれが所以なのだろう。そして大体ヘルシー志向のお店は高い。


「それでどうなのよ。新婚生活は」


 ニヤニヤしながら春野は言う。俺と春野は元恋人同士だ。さらに言えば、冬人は秋音のことが好きだった。しかしそこに妙な遠慮はない。そもそも春野だって今交際している人がいるし、冬人もそうだ。学生の頃の複雑な事情なんて、大人になった俺たちはもうとっくに割り切っていた。


「それがさあ。夏木ってば、カップ麺ばかり食べようとしてさあ。それに私に隠れて夜にポテチ食べようとするんだよ」

「いやいやだってさ。カップ麺はともかくポテチは嗜好品だろ? たまには食べたいじゃん」

「あのねえ。ポテチって最も太りやすくなる食べ物と言われているのよ。油はね、食欲を暴走させる効果があるの。ポテチってぺらっぺらな割に油の量がやばいじゃない。だから食べても満足感は得られないし、もっと食べたくなっちゃう、最悪な食品なの」

「食欲を暴走させる……なら秋音の料理を沢山食べられるってことだろ? 良いことじゃないか」

「呆れた。何言ってるのよ」

「あんたたち、相変わらずね」


 俺と秋音の言い合いに、春野は呆れて笑う。


「お前も、恋人の方はどうなんだよ」


 春野が恋人を作ったのは、これで三回目だ。高校の頃に俺と付き合って一回目、大学の頃にクラスメイトと付き合って二回。大学を卒業し、本格的にモデルの仕事に注力した頃に仕事仲間と付き合って三回目。この仕事仲間が現在も交際中の春野の恋人のはずである。


「ええ、順調よ」


 キリッと、ドヤ顔を浮かべる春野。


「そっか。良かった」


 秋音は心の底から笑った。


「ほんと良かったよ。夏木お兄ちゃんに振られた頃のお姉ちゃん、本当に大変だったんだから」

「ちょっと冬人!」


 これは冬人のブラックジョークである。冬人の冗談に、俺と秋音は苦笑いを浮かべるしかない。


「でも今では、夏木と別れて良かった気がする」


 春野はそう言って、俺に向かって切なげに笑った。


「だってあの頃の秋音じゃあ、きっと耐えきれなかったもの」

「まあそうだよね。あの頃の秋姉、凄かったし」

「ええ、そうかなぁ~」


 三人は笑い合うが、俺には若干の違和感を感じたのだった。





 辺りはすっかり夜になった。冬人は用事があるからと別れて、今は三人だ。


 俺たちは近くの山の頂上に向かった。ここはずっと前、俺と春野と秋音で見つけた、花火大会の隠れスポットだ。


「懐かしい。ここでよく花火見たわね」


 春野が言った。


 花火が上がらずとも、山頂から広がる夜景は素晴らしいものだった。


「ここって夜景も綺麗だったんだな。花火に見とれて全然気がつかなかった」


 俺たちがここに来るのは決まって花火大会の時だけだったから、それも仕方の無いことだった。


「やば……懐かしくて、涙出てきちゃった」


 春野はそう言いながら、零れた涙を拭う。


「感傷に浸るのは、まだ早いよ」


 秋音はそう言うと、鞄から小さな球体の装置を取り出す。


「名付けて、バーチャル花火! この球体の装置のスイッチを押すと、夜空に花火が投影されます」


 秋音が得意げに語る。


「つまり、花火が見られるってこと?」


 春野がそう尋ねると、秋音は肯定した。


「なお、この光は寿命が短いので、私たちにしか見えません」


 都合が良い。さすが俺の嫁だ。


「じゃあ打ち上げるよー」


 秋音は地面にその装置を設置して、ボタンを押した。


――ヒューン。


 いかにもな音と共に、火の玉が上昇していく。


――ドォーン。


 そしてそれっぽい重低音を響かせて夜空に咲いた花火は、まるであの時のように綺麗なものだった。


「すごいな。夜空に投影って言ってたけど、本物にしか見えない」

「えへへ。すごいでしょ」


 俺の隣に戻った秋音が、得意げに言った。


「すごいわ……」


 春野はその花火に見とれて、呟いた。


 何度も打ち上がる花火。その度に閃光が周囲を照らして、その度に春野の顔が照らされる。


 キスがしたい。


 花火を見上げる春野を見ていたら、急にそんな考えが脳裏を過った。


 春野とキスをしたい。


 何度も何度も、主張してくる。さすがに駄目だと、俺は頭を振って拒否した。


「夏木」


 秋音の声がして、俺は振り向いた。とても嬉しそうに、彼女は笑っていた。


 秋音のお腹には小さな命が宿っている。だから彼女は大好きなカフェインを断った。


 俺はどうして、春野を振って、秋音と付き合い始めたのだろう。


 不思議なことに、その答えは全く浮かんでこない。


――私はもう、この瞬間の夏木を抱きしめることは出来ないんだ。


 ふと、そんなセリフを思い出した。たしかこの辺りで、そんなことを話した覚えがある。


 あの切なげな表情の女性は、そう、あれは未来から来た春野だ。


――ありがとう。

――夏木の気持ち、確かに受け取った。


 ああそうか。


 キスをしたくなるのは当然だ。


 だって決めたんだ。


 何度もキスしてやるって。





「なんだ。目が覚めちゃったんだ」


 朧気な脳は、しかし強烈な息苦しさによって急激に覚醒した。


「あーあー、暴れないでよ」


 低刺激で低トーンの聴き慣れた声。ボヤけた視界がクリアになると、目の前には秋音がいた。


「ちゃんと首、絞められないじゃん」


 秋音の手は真っ直ぐ、俺の喉元に伸びていた。


「がっ……ぐっ……」


 俺は何とか振り解こうともがくが、完全にマウントポジションを取られていて、どうすることも出来ない。


「前に、自由に夢を見させる装置を作ったじゃない。あれをまた使ったんだ」


 そう言いながら、秋音は首を締める力をより強めた。呼吸が満足に出来ず、俺は返事をすることが出来ない。


「私が考えて作った夢はどうだった? とても幸せそうだったよね。私と付き合えば、ああなれたかも知れない。春野とでは、あれ程幸せになれないかも知れない」


 秋音はさらに力を入れる。


「辛い? 辛いよねぇ。だったら夢のまま、死ねば良かったのに」


 秋音はそして、顔を近づけた。だらりと垂れた、もじゃもじゃの髪が肩に触れる。


 そのまま秋音の顔は接近してきて、やがてお互いの唇が触れた。


 唇を塞がれると全く息が出来ず、苦しさが増した。


「ぷはぁー! あはは、夏木とようやくキス出来た」


 秋音がキスをやめた瞬間に力が緩んで、ほんの少しだけ息を吸えた。


「このまま殺すつもりだったけれど、犯してからにしようかな。知ってる? 首を締めながらするのって、死ぬほど気持ち良いらしいよ」


 そして秋音は、いやらしい笑みを向けてきた。


「夏木が死ぬまで犯して、私も死ぬんだ。だってもう嫌だもん。くだらない片思いで、無意味に傷つくなんてバカみたい」


 とても正気とは思えない表情だった。しかしその顔から吐露された思いは、切実に感じられた。


「さっきの夢、幸せだったでしょ。でも夏木はどうせ、春野を選ぶんだよね。知ってるよ。もう学んだよ。だからさ」


 狂った表情のまま、秋音は涙を流した。彼女の頬を伝った涙は、やがてポタリと俺の頬を濡らす。


「せめて偽者の私は、偽者のあなたを殺して、この恋を終わらせるんだ」

「にせ……もの……?」

「そうだよ。自転車を横転させた夏木を気絶させて、その間に複製したのがあなた。だからあなたは偽物なの」


 そうか。偽物なんだ。


「本物はもう起きて、学校に向かっている頃かな」


 それなら。


「本物じゃない俺なら」


 俺はそっと秋音の頬に触れる。それは秋音にとって予想外だったのか、驚いた様子で俺を見つめた。


「偽物のお前を、愛しても良いのかな」


 本物の俺が、愛すべき人をきちんと愛してくれるのなら。


 せめて俺は、目の前にいる彼女の心を。


 少しくらい癒やせたらと思うのだ。


「愛してくれるの?」


 秋音は不安げに、声を震わせて言った。


「こんなに狂っちゃった私を、愛してくれる?」

「ああ」

「そう、嬉しい」


 秋音はとても自然に笑う。


「すぐに私も追いかけるから」


 秋音は思い切り首を絞めた。途端に息苦しくなる。しかし今は、その苦しみさえ愛おしい。


「愛してる」


 秋音はそう呟いた後、俺に口づけをした。押し寄せる苦しみと、幸福感。


 やがて意識は途絶えた。

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