激昂ミラージュ~ミルグラム実験

 目を覚ますと、そこは閉塞感のある部屋だった。アスファルトに囲まれた12畳ほどの部屋。その部屋は半分に仕切るように、透明のガラスの壁が設置されていた。


 俺は椅子に拘束されていた。目の前には小さなテーブルがあって、そこに無造作にスイッチが置いてある。透明ガラスの向こう側にも、俺と同じように椅子に拘束されている人がいた。ただし俺と違ってこの人は、不透明な袋に穴を開けたもので顔を覆われていて、全身もぶかぶかな布きれで覆われていた。だから体格も、どんな顔なのかも分からない。


「これから行うのは、実験だよ」


 後ろにあるドアが開いて現れたのは、やはり秋音だった。おそらく俺に発砲してここまで連れてきた秋音だろう。


「実験だと」

「そう。ミルグラム実験というものでね。こういった閉鎖空間において格上と二人きりの時に、格下はどこまで格上の相手の言うことに従うのか、というものだよ」

「お前が、格上だと言うのか」

「ああそうだとも。夏木の身体の自由は私が握っている。1時間置きに複製された春野が殺されてしまうんだよ。なら、分かるよね?」


 ここから早く出たいなら、私の言うことを聞け。そう言いたいのだろう。


「まず夏木には、45ボルトの電気ショックを受けてもらう。さあしっかり覚えてね。45ボルトの辛さを」


 秋音は躊躇いなくスイッチを押した。


「……!!」


 ビリビリという音が響いて、強烈な衝撃が全身を駆け巡る。これが45ボルトの痛み。辛いが我慢出来ない程でもない。


「こんなものかな。さてこの痛みを、これからガラスの向こう側にいる人間に受けてもらうんだ」

「どういうことだ……?」

「これから行う実験の手順を説明するよ」


 秋音が説明した内容はこうだ。これから俺は、秋音が用意した問題を読み上げる。その問題をガラスの向こう側にいる人が解く。もし答えを間違えたら、先程の電気ショックを回答者に与える。電圧は間違える度に増やしていく。


「じゃあ実験スタート。ほら、夏木。読み上げて」

「えっと。俺が好きにならないといけない人物は誰。なんだこれ」


 妙な問題だった。とにかく俺は回答者を見つめる。


「わ……た……し……」


 か細く響いたその声に、俺は鳥肌が立った。


「あーあ。残念ハズレ。じゃあ夏木、スイッチを押して」

「……押せる訳ないだろ!」


 俺は怒鳴る。だって回答者は、明らかに春野だった。俺がその声を聞き間違える訳がないのだ。


「でも押すまで夏木のことは解放しないよ。良いの? 本物の春野の精神が壊れちゃうよ」

「そ、それでも……」

「それにさ。夏木の勘違いかも知れないよ。だって顔も身体も袋と布で分からないんだもん」


 勘違い……。確かにその可能性はある。それに複製よりも、本物の春野の方が大切なのは間違いない。


「それにこれを見てよ。これから回答者が受けるのは15ボルト。この表にも書いてあるように、死ぬ訳じゃない。夏木も受けたから分かるでしょ。チクッとする程度だよ」


 秋音は、スイッチの隣に置いてある紙を指さした。そこには各電圧毎の危険度が書かれている。15ボルトは軽い衝撃程度。俺の受けた45ボルトよりも高い75Vでは中度の衝撃と書かれている。


 375ボルトでは危険で苛烈な衝撃と書かれていて、それ以降は何も書かれていなかった。これほど高い電圧になってしまうことは、どうにか避けたいところだが。


「ごめん」


 俺は謝罪をしてスイッチを押す。すると僅かに回答者の身体が震えた。15ボルトならこんなものだろう。


「はい。次間違えたら75ボルトだよ。じゃあ夏木、同じ問題を」


 秋音が俺に促す。75ボルト。先ほど俺にしたものよりも高い。


「何度やったって同じよ」


 か細い声が響く。やはり春野の声だ。声が弱々しいのは、既にストレスか何かで体力が減っているからだろうか。


「私が好きなのは夏木。夏木が好きなのは私。それだけは譲れないんだから……!」


 それは実に春野らしい態度だった。頭脳明晰、スポーツ万能。それでいて心が強く、真っ直ぐで、誰もが憧れる彼女。その彼女の意思は、複製だったとしても変わらない。


 だからこそ、俺は辛くなってしまう。彼女もまた春野だと、実感してしまうから。俺は彼女を、見捨てないといけないのに。


「たかが15ボルトを耐えたぐらいで強気だね。そういうところが……」


 秋音は俺が握っていたスイッチを取り上げて、そして押した。


「ほんとムカつく」

「ぐぅ……くっ……」


 呻く春野。45ボルトでも結構辛かったのだ。75ボルトはかなり辛いだろう。


「はい次135ボルトね」


 間髪入れずに秋音はスイッチを押す。


「がぁ……ぁあっ! ああっ!」


 堪えられずに春野は叫んだ。


「秋音!」

「良いでしょ。何度やっても同じって本人が言ったんだから。でもそうだね。これで気が変わったかも知れないし、ちゃんとやってみようか。夏木、同じ問いを」


 電圧の針は195ボルトに設定されていた。紙によると、かなり強い衝撃と書かれている。この電圧で電気ショックを喰らったら、彼女はどうなってしまうのだろう。


「同じって、言ってるでしょう!」

「だってさ。夏木」


 秋音は取り上げたスイッチを、再び俺に渡した。


「俺に押せって言うのか」

「最初からそういう実験だし」


 スイッチを受け取る。俺はガラス越しに春野を見つめた。あれは違う。複製された春野だ。言わば偽物。俺が救うべきなのは、本物の春野だ。


「あっ。30分経ったよ。本物の目の前で偽物が一人殺されるまで、残り30分」


 無情に告げる秋音。俺はスイッチに掛けた指に力を入れる。ガタガタと震えて、スイッチの輪郭がブレた。おかしい。いくら力を入れても、スイッチが押されない。


「夏木。迷っているんだったら、さっさと押しちゃいなさい。どうせ私は、偽物なんだから」


 そしてその偽物は、顔面を覆った袋越しに笑ったかの様だった。


 無茶言うなよ。お前はどう見たって、本物じゃないか。いかにも本物らしいことを言いやがって。


「お前が偽物だというのなら。なら正解を言えってんだ。なんで偽物のお前まで拘ってんだよ!」


 俺は綯い交ぜになった怒りや悲しみのままに、スイッチを押した。


「がっぁああああああああああっ!」


 これまでに無い程に悲痛な叫びが部屋中に響き渡る。耳を塞ぎたくなるほどに悲痛だった。


「ムフッ。まったく、夏木は人の心が分かってないなあ」


 秋音が言った。これ程むごいことをさせている奴にだけは言われたくなかった。


「夏木はさあ。今こうしている自分が、偽物だと言われたらどうする? 自分の他に本物がいて、だから自分の命は蔑ろにされる。そんな事実、耐えられる?」


 それは……分からない。そんなことを想像できる奴なんているのだろうか。


「じゃあ、お前もそうなのか」


 偽物の秋音もそんな気持ちで、自暴自棄になってこんなことをしているのだろうか。


 俺が問うと、秋音は若干目を見開いた。


「無駄話をしている場合かな」


 そして誤魔化すのだった。しかし秋音の言う通りだ。彼女を説得するより、この実験をさっさと終わらせた方が良い。


 電圧の針は255ボルトに設定されていた。一覧によると激しい衝撃となっている。表現が抽象的だから、この電圧がどれほど危険なものなのかは分からない。ただ先ほどの春野の反応は尋常ではなかった。今も肩で息をしていて、辛そうにしている。


「第一問は解けそうになさそうだし、第二問にしようか。ほら、夏木」

「……春野は夏木のことをどう思っているでしょうか」


 またしても、胸糞な問題だった。恐らく本人の口から、認めさせたいのだろう。


 春野はひゅうひゅうと息を切らして、それでも何とか顔を上げる。


「だ……いす……き」

「……っ!」


 その回答に、俺は心が揺れてしまう。


「ほら、夏木」


 気に食わなさそうな声色で、秋音は俺に指示した。


 押したくない。この偽物だって、俺のことを愛してくれている。なのに俺は、俺を愛する人を苦しめるしかないのか。


 しかし俺は本物を救わなくてはならない。この春野は偽物だ。本物を助ける為に俺は、押すしかないのだ。


 救うべき相手を間違えるな。救うべき相手を、相手を……。


「……っぁああああああああああっ!」


 腹の奥底から声を上げているような、力み過ぎて内臓が口から出てしまいそうな、えげつない悲鳴が響く。異常な苦しみ方に、俺は押したことを後悔しそうになる。動揺で心臓がバクバク脈打っていた。


 電気ショックが終わっても、春野はビクビクと身体を痙攣させていた。


「ぁ……ぁ……」


 そしてか細く呻き、失禁してしまう。余りにも痛々しくて俺は目を背けた。


 そしていよいよ、電圧の針は375ボルトに設定される。一覧によれば、危険で苛烈な衝撃となっている。


「気が狂いそうだ」


 俺はどうにか自身を落ち着かせるために呟いた。気が狂いそうと言ったが、もう既に狂っているのは明らかだった。


「まあまあ夏木。何度も言うけど、この子が春野である確証はないんだから」


 秋音のその言葉は、とても甘美な響きに聞こえた。


 そうだ。俺はまだこの人の容姿を見ていない。声も、思考もそっくりな別人の可能性があるじゃないか。


 ああそうだとも。それなら、ためらいなくスイッチを押せそうだ。


「さあ夏木。次の問題だよ」

「……秋音の恋人となるべき人は誰か」


 俺は読み上げると、春野を見つめる。春野はもはや顔を上げる気力も無いようで、身体をビクビクとさせるばかりだ。


「……わ、わた……し……は……」


 それでも何かを言おうとしているようで、ちょっとずつ言葉を発した。


「もし……秋音が……夏木の恋人だったとしても、夏木はきっと……幸せになれたと思う」


 それは予想外の回答だった。秋音も俺と同じだったのか、明らかに動揺していた。


「……で、も……」


 力を振り絞って、春野は何とか顔を上げた。身体をビクビクと振るわせて、それだけでも辛そうだ。


「夏木の恋人は私。だから私が夏木を幸せにするんだ……!」


 その言葉に俺はハッとした。


 俺は何を考えていたのだろう。何が別人だ。


 こんなことが言えるのなんて、春野しかいないじゃないか。


「……あぁ、もう! ほんとっ! 本当にムカつく! 夏木ぃ!」


 秋音は俺にスイッチを押すよう促す。


「俺は押さないぞ」

「何ですって」


 秋音は俺を睨んだ。


「ばっかみたい! 偽物の為に頑張っちゃって! さっさと済ませて、本物の方に行けば良いのに。偽物の私たちなんて、放って置けば」

「偽物であっても、春野は春野だ」


 この春野は偽物らしい。でも俺には本物にしか見えない。それ程にこの偽物は、春野の人格を模していた。


 だからこそ。この偽物を蔑ろにするということは、春野本人を蔑ろにするのと同じだと俺は思う。俺は春野の容姿が好きで、春野の性格が好きで、俺のことを好きでいてくれる春野が、大好きなのだ。それはこの偽物も同じだ。


 だから俺は、この偽物だって、好きで好きで堪らないのだ。


「そしてそれは、お前もだよ。秋音」


 俺は秋音を見つめる。


「秋音は真っ直ぐで、一途な子だ。こんなに傷付いてまで、俺のことを好きでいてくれる」


 だからこそ俺は、この秋音のことさえも。


「お前は俺の知る秋音だよ。幼馴染みで、はた迷惑で、でも憎めない。俺にとって、大切な、大切な人だ。だから放って行くなんて、出来るわけが無い」


 秋音は俯き、そしてしばらくの間、沈黙した。様々なことを考えているに違いない。


「もう、遅いよ」


 そう言うと、秋音はおもむろに春野がいる部屋に入った。そして春野に被されていた袋を取る。


 中身はやはり春野だった。


「私はもう、取り返しの付かないことをしちゃったんだ」


 秋音は懐から銃を取りだし、そして春野に向けた。


「お、おい!」


 俺は咄嗟に叫ぶ。しかし秋音は躊躇いなく撃った。


「偽物は偽物だよ」


 秋音はただ、言った。


 テレビで見た時のように、床に倒れて血を流し、ビクともしなくなる春野。しかしやがて、身体も、飛び散った血液も、まるで霧のように霧散していった。


「でも、少し嬉しかった」


 そして銃口を俺に向けて、微笑む。


 あの気の狂ったような表情ではなくて、今まで見てきたような、幸せそうな微笑みだった。


 銃声が響く。

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