秋音デッド〜時任亜美乃との再会

 この世に生まれてから、17年が過ぎた。


 高校二年生の私。今は科学に明け暮れ、夏木に恋をして、春野と争っている。


 でもそれは、人生においてほんの一部分でしかない。女性の平均寿命は87歳。まだ2割しか人生を謳歌していないのだ。


「秋音。今日も学校か?」


 玄関で靴を履いていると、兄が声を掛けてきた。今日は土曜日。季節は冬。もうすぐクリスマスと騒がれる時期で、外はすっかり冷え込んでいる。好き好んで学校に行きたがるのは、私ぐらいだ。


「う、うん」


 私は手短に返事をした。私の人見知りは血の繋がった兄にさえ、吃ってしまう程重症だった。今も苦手意識はあるけれど、最近は意識して改善に努めており、その成果が徐々に表れ始めている。


 靴を履き終えた。鞄を持って、玄関を開けて外に出る。


「じゃあ、行ってくるね。お兄ちゃん」


 振り返って、私は不器用に微笑んだ。


「……!? 秋音、あぶないっ!」

「えっ」


 自宅の玄関を出て、軒先に出た瞬間。トラックが猛スピードで突っ込んできた。


 私は振り返って、その迫り来るトラックを見た。その瞬間、全てがスローとなる。既に眼前にいるトラック。運転席にいる運転手の表情がはっきりと見えた。驚愕の表情で私を見つめている。


 ああ、駄目だ。間に合わない。


 まさか。あと8割もあった人生が。


 唐突に終わるなんて。





 なんだろう。


 誰かが私を呼ぶ声がする。


 喧しい。でも、ソプラノリコーダーのような綺麗な声。どこか、聞き覚えのある声が。


「うるっさいなぁ……」

「起きたと思ったら急に悪口言われたっす!?」


 私は目を開けた。そこには清々しい程に綺麗な冬の空をバックに、美女が素っ頓狂な表情をしていた。


 私はこの美女を知っていた。


「時任、さん……?」

「ええ、そうっすよ。時任っす。亜美乃っす」


 時任の言葉を聞きながら、私は周囲を見渡した。


「えっ。嘘、飛んでる?」


 というより、浮いているような感じだった。私は地上からかなり離れた上空に、仰向けで浮いていた。下を見てみれば、私が17年間住んできた街並みが一望出来る。


「どうっすか? 良い眺めっすよね」

「うん、すごい……」


 私は初めて見るその景色に見惚れて、月並みな感想しか言えなかった。


「ねえ時任さん。成仏したんじゃなかったの?」

「はい。その予定っすけど、なんか順番待ちみたいで」


 そんなシステムなのか。


「というか秋音っちこそ……」


 時任は少し気まずそうに言った。


「なんで幽霊になってるっすか」


 その時、私は全てを思い出した。眼前に迫り来るトラック。それに跳ねられた。視界がぐにゃりと曲がって、最後は強烈な痛みが全身を駆け抜けた。


「ごめんね」


 私は意味もなく謝った。


「私、死んじゃったかも」





「ほら、スイスイ泳ぐように移動できるっすよ。気持ち良いっすよぉ~」

「うほぉー! すげぇっ! 私飛んでるっ! 幽霊すげぇ! 最高っ!」


 空を泳ぐ時任について行く私。空を泳ぐというのは案外簡単だった。最初は戸惑いもしたけど。


「私の住む町。こんな上空から見たのは初めてだなあ」


 建物と木々と道路がずっと続いていた。少し高度を落としてみれば、行き交う人々や自動車が見えた。


「あっ、私たちの学校」

「行ってみるっすか? 今なら誰にも見られないっすよ」


 すごく興味が湧いたので、私たちは学校の屋上に降りた。屋上は鍵が閉まっていたが、幽霊だからすり抜けられた。


「うちの学校の運動部も、結構気合が入ってるっすよね」


 時任がそう言ったのは、学校の中にまで掛け声が聞こえてくるからだろう。


「運動部だけじゃないよ。ほら」


 廊下を歩いて行くと、金管楽器の音が聞こえてきた。吹奏楽部だ。ちょうど合わせているらしい。


「中々立派なものっすね」

「ふふん。そうでしょそうでしょ」

「ふふ。なんで秋音っちが自慢気なんすかぁ~」


 はは、と私たちは笑い合った。


 悪くない。悪くないな。うん。


 私は時任に学校を案内しているような感覚で、各部室を巡る。


「ふぅおお! 上手いっすねえ!」

「味があるね。うん」

「秋音っち、通ぶってるっすねえ」

「うおっ、めっちゃスラスラ綺麗な線描くじゃん」

「流石っすねえ」


 美術部で描いている絵を後ろから眺めたり。


「いけっ! そこでパス! あぁ、何やってるっすかぁ!」

「よっしゃカウンター! ほらサイドから上げて、ヘディングっ! あぁ、かすりもして無い! 下手くそっ!」


 サッカー部の模擬試合を応援したり。


「ほえー、茶道ってこんな感じなんすね」

「いや私も初めて見たよ」


 茶道部を眺めたりした。


「さて、次はどこに行こうか」


 誰にも気づかれないというのが新鮮で、私はすっかり楽しくなってきた。


「あ、田島先生」


 廊下を歩いていると、その姿を見かけて私は呟いた。


「教師で唯一私の友達だよ」

「教師が生徒と友達っすか? それはまた……」

「うん?」

「いや、何でもないっす」


 時任は目を逸らしながら言う。絶対に言いたいことがある感じだ。


「田島先生っ!」


 廊下中に響き渡ったのは、吉田先生の声だった。


「あ、わたちゃん。ふふん。今日も格好良いっすねえ」


 顔を紅くしながら、少し得意げに時任は言った。


「全く。時任さんも熱いなあ」

「へへっす」


 田島と吉田が向かい合う。そして吉田は、深刻そうな表情で何かを伝えていた。


「何ですって!? 場所はどこです?」


 そして田島は顔色を変えると、すぐに学校を出た。





 田島が車を運転して辿り着いたのは、病院だった。車から降りると走って病院内に入り、受付を済ませて、そしてエレベータで上階に上がる。


 エレベータから降りてしばらく進んでいくと、人だかりがあった。


 私の父、母、そして兄。その三人が、医者に説明を受けていた。そこに田島も加わる。


「それじゃあ、秋音はずっとこのままなんですかぁ!」


 母の声が、病院内をつんざいた。母のそんな声を久しぶりに聞いて、心臓がキュッとなる。


「ええ、残念ながら」


 対称的に、医者の声がひっそりと響いた。


「くそっ!」


 兄がどこかへ走って行く。お兄ちゃんを追いかけようとしたが、奥から三人、さらにやってきた。


「秋音は!? 秋音は無事なんですか!?」


 夏木の声が響く。やってきたのは、夏木と、春野と、冬人だった。


「お前たち。ここは病院だ。少し静かに」


 田島先生が三人を止めた。





「そんな、秋音が……」


 待合室にて詳細を聞かされた夏木と春野と冬人。夏木はそう呟いて、顔を伏せた。


「信じられない」


 春野も同様に顔を伏せた。


「はは。何かの間違いだよ」


 一方で、冬人の様子は変だった。


「だって秋姉だよ? この前だって一緒にいて、沢山おしゃべりしたんだ。これからだってそうだよ。秋姉はずっと僕とおしゃべりするんだ。これからも」


 冬人はそう言いながら、涙を流した。


「秋音は私たちの邪魔をする、憎い奴だったけれど。でもそれ以上に、私は秋音が大好きだった。夏木に一途な秋音が、大好きだったのぉ!」


 春野は泣き叫ぶ。


「はは。秋音。お前は俺のこと好きじゃなかったのかよ。このまま春野と添い遂げちまうぞ。ほら、邪魔してみろって。前みたいに、よぉ……!」


 夏木はそう言うと、ドンっとテーブルを叩く。


「もう、会えないのかな。秋姉に、会えないのかな」


 冬人の言葉に、誰も返事をしない。


 三人を見守っていた田島は、静かに立ち上がった。そしてトイレの方へ歩いて行き、三人が見えなくなると廊下の壁にもたれ掛かった。


「俺もそうだぞ、秋音」


 田島は、ひっそりと呟く。


「独り、ひたむきに科学に打ち込むお前の姿が、教師として好きだった。人見知りを克服しようと頑張るお前も、応援していた」


 そして田島は、片手で隠すように顔を押さえた。泣いているのだ。あの強面で、誰もが恐れる生徒指導の教師が、泣いている。


「もう少し。もう少し、応援したかったよ」





 私たちは病室に入った。そこには点滴やらマスクやら大層な医療器具をふんだんに施された、私の姿があった。


 ベッドに横たわって、目を閉じている自分の姿。こんな姿をまじまじと見る機会は無いから、何だか複雑な気持ちだった。


「何だか、色んな人を悲しませちゃったな」

「そうっすね。多分、私もそうだったっす」


 私は自分の容態を確認した。身体は大丈夫そう。脳が機能していなくて意識がないらしい。完全に植物状態だ。


「はは。こんなの、私だったらすぐ治せるのに……」


 私は自分の身体に手を伸ばした。その手はすり抜けて行く。


「肝心の私が死んじゃったんじゃ、仕方がないなあ」


 すると何だろう。死を実感したのだろうか。唐突に悲しみが押し寄せてきた。


「もう夏木に言い寄れないんだ。もう春野にちょっかい出せないんだ。もう冬人を可愛がれないんだ」


 やだなあ。それは、本当にやだなあ。


 言葉にすればする程、実感が湧いてくる。もう、皆とは関われない。関われないんだ。






 私たちは兄の動向を見ることにした。空を飛んでいたら、自宅に走っている兄を見かけた。そのまま自宅に入ると、兄は私の部屋にダッシュする。


 ガタンと、乱暴にドアを開けて私の部屋に入った。そして私の部屋を乱暴に漁る。


「畜生っ! 秋音っ! 何かないのか、何か」


 そう言いながら、私の部屋を物色する。


「お前はいつも変テコな発明をして、夏木君たちに迷惑を掛けていただろう! 少しは役に立つもの、作っているんじゃないのか!?」


 兄はボロボロと涙を零して、必死に探す。


「お兄ちゃん。もう、無理だよ」


 届かないと知りながらも、しかし言わずにはいられなかった。


「もう、皆とはお別れなんだよ」


 私はそう言って、兄に触れようとした。しかしやはり、すり抜けてしまう。私はもう誰とも関われない。


「俺は諦められない」


 兄は言った。


「お前にはちゃんと、恋をして、愛を知って欲しいんだ!」


 兄は泣きながら言う。


「片思いの辛さ以外にも、知って欲しいんだよ! 恋愛の良さをっ!」


 ガンっと棚を殴った。すると兄の足元に、ケースが落ちてきた。兄はそれを拾って開ける。中には錠剤と、私が残したメモがあった。


「あれは……」


 私は時任を見つめる。すると時任は、複雑そうな表情で私を見つめ返した。


「あれは、なんすか?」

「あれは時任さんを見るために私が開発した、霊感を強める薬だよ」


 そうか。もしかしたら、まだ……。


「霊感を、強める薬……?」


 メモを読んだ兄が呟く。


 まだ、希望はあるかも知れない。


「時任さん。ポルターガイストとか起こせない?」

「私は成仏待ちっすから無理っす。でも、秋音っちなら」

「どうすれば出来るの?」

「強く念じれば良いはずっす!」


 私はすぐに行動に移した。錠剤のケースを浮かせるのだ。


「強く、念じる……」


 浮いて、浮いて。


 しかしケースは動きそうもない。


「多分、イメージが出来てないっす! もっと明確に!」

「明確に……」


 と言われても、私は明確にイメージしているつもりだった。何か強烈な印象があれば。


“よっ! Oh・パンティ!”


 モンロー橋にて盛大にパンツを見せてしまったことを、不意に思い出した。


 そ、そうだ。あの時の。ふわりとスカートが捲れる、あの感覚を……。


「何だ? ケースが勝手に」


 兄がふわりと浮かぶケースを見て言った。そうだ。そうだよ。浮いているんだよ、兄。ケースが勝手に浮くなんて、有り得ないでしょう。どう考えても、幽霊の仕業じゃん。なら確認しなきゃ。その幽霊は、私かも知れないんだから。


 兄が私の思惑通りに思考したかは分からない。しかし兄はその錠剤を手に取って、ゴクリと飲み込んだ。


「あ、秋音……」

「お兄ちゃんっ!」


 それは奇跡的な再会だった。時任と吉田のような、数年越しでは無かったけれど。しかし私たちには、希望があるのだ。


「お兄ちゃん。ごめんね。心配掛けてごめん」

「全くだよ。どれだけ悲しんだと思ってるんだ」


 私たちは一通り抱きしめ合った。


「お兄ちゃん、聞いて」


 そして私が復活するための方法を、話した。





 私はゆっくりと目を開けた。ぼんやりとピントのズレた景色が見える。白い天井と、薄緑色のカーテン。大層な医療器具。


「お兄ちゃん」


 そして兄がいた。


「秋音! 良かった。本当に」


 兄が私に抱きついてくる。霊体より、温かくて気持ち良い。


 兄とこんな風に抱きしめ合ったのは、いつぶりかな。


「今度こそ、本当のお別れっすね」


 時任の声が響いた。霊感が強まっているはずの兄は聞こえていないらしい。私が聞こえているのは、霊体だったからだろうか。


「このまま秋音っちが死んじゃったら、私と同じ境遇になっちゃうっすから」


 時任は恋を叶えることが出来ずに、死んでしまった。私がこのまま死んでしまっていたら、時任と同じく最愛の人を悲しませるところだった。


「だからもう、来ちゃダメっすよ」


 うん。もう来ないよ。


 後8割の人生、きちんと生きて見せる。


 その頃にはもう。


 片思い以外の恋愛の良さだって、分かっているはずだ。

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