生配信プライベート〜秋音の取り扱い説明書

 土曜日。私は物音を立てずに、顔を洗い歯を磨いて、とある部屋のドアをゆっくりと開けた。


 雨戸をしっかり締めていて、照明も切っているので部屋は真っ暗だ。静まり返ったその部屋には、くう、くうと可愛らしい寝息が聞こえてくる。


 私は部屋の中に入ると、ベッドの前まで移動した。そしてベッドの中で熟睡している弟を見下ろす。


 例えば私の恋人である夏木は、私にとって不安定な存在だ。彼は常に秋音の誘惑にさらされている。私が努力を怠ってしまえば、やっぱり秋音が良いなんて言われて、私が捨てられてしまう可能性がある。


 だから彼が私の恋人で当たり前なんて、とても思えない。だからこそ私は夏木が特別に思える。


 それとは逆に、行方不明になる前の冬人は、いて当たり前な存在だった。まあほとんどの人々は自分の家族に対しそう思っているかも知れない。


 でも冬人が行方不明になったことで、それは違うと気付かされた。冬人が秋音に連れて来られた時に、ふと思ったのだ。


 この子は今、私と同じように人生を生きている。いずれは独り立ちして、恋人を作って、そして結婚するのだ。おそらくその時、私にとって冬人は、近いようで遠い存在となっているのかも知れない。


 そう思った途端、この子が急に可愛く見えた。


「冬人、起きて」


 私は冬人の身体を揺らす。しかし一向に起きる気配はない。


「ふふ。起きないんだ」


 じゃあ、何されても仕方がないよね。


「ふふ。ふーゆとっ」


 私は手始めに、冬人の頰を突っついてみた。ぷにぷにした感触が指先から伝わってくる。可愛い。昔と同じ感触だ。


「うーん」


 そんな唸り声を上げて、冬人は寝返りを打った。動いた冬人の身体を私は見つめる。


 どんな匂いがするのかしら。


 そんな興味が湧いた。私は姉だから、それを確かめる義務がある。


「そう。私はお姉ちゃん。冬人のお姉ちゃんなの」


 私は冬人の身体にそっと、顔を近づける。


「クンクン。すぅ、すぅ」


 そして寝間着のお腹辺りに顔を埋めた。


「はぁあ。冬人の匂いだ」


 馥郁ふくいくたる芳醇ほうじゅんな香りに、私はうっとりしてしまう。昨晩から時間を掛けて熟成された汗の匂い。その匂いが私の鼻孔をくすぐって、脳がじんわりと痺れた。


「冬人可愛い。可愛いよ、冬人ぉ」


 私はベッドに寝ている冬人を仰向けにさせて、その上に跨がった。


「う、うーん……うん?」


 さすがに目を覚ましたようだ。冬人は薄らと目を開いて、気だるげに私を見つめる。


「お姉ちゃん? 何してるの?」

「うん? 冬人に跨がってるんだよぉ?」

「え、うん。それは見れば分かるんだけどね」


 そして冬人は目を逸らして、顔を紅くした。


「お姉ちゃん。どいてくれる? 重いんだけど」

「ええ。嫌だぁ~」


 私はそう言うと、倒れるように冬人に抱きついた。


「うわっ!? ちょっ、お姉ちゃん!」


 私に抱きつかれてもがく冬人。


「お姉ちゃん! 当たってる! 当たってるから!」

「当たってるって、何が?」


 耳まで真っ赤にさせる冬人。


「おっぱい! おっぱい当たっちゃってるから」

「なーんだ。良いじゃん姉弟なんだから。ノーカンノーカン」


 そう、姉弟なんだからノーカンだ。両親にされたチューをファーストキスにカウントする奴なんていない。それと同じ。


「なんだったら、揉んでも良いよ」

「揉まないよ!」

「でも冬人。女の子のおっぱい、揉んだこと無いでしょ?」

「無いけど……」

「秋音のおっぱい揉む前に、練習しておいた方が良いと思うな」


 冬人もお年頃だ。恐らく秋音のおっぱいを揉みたいと思っているはずだ。だからいざその時が来たときの為に、指南してあげないといけない。


「あまり強く揉んじゃ駄目なんだよ? 優しく、優しくね」

「揉まないってばっ!」


 冬人は私を振り払って、部屋を出て行った。





「冬人ぉ~何見てるの?」


 休日。特に予定のなかった私は、同じく予定のない冬人の部屋で共に過ごしていた。


 最近、夏木とデートすることも少ない。というのも、夏木は受験勉強に明け暮れている。警察関連のお仕事は学歴がものを言うので、彼も必死なのだ。


 秋音は意外にも、休日で都合がつく日が少ない。彼女自身、普段は研究や発明に勤しんでいる。最近では企業に持ちかけられた案件の打ち合わせ等により、外出する機会も多いらしい。だから夏木より休日に会える機会は少なかった。


 そして私だって読モの仕事がある。今日はたまたま休みだけれど。なんだか三人とも、中学の頃のように遊ぶことが少なくなってきた。大人に近づいた、ということなのだろうか。


 大人に近づいたかどうかはともかく、休日の今日は、冬人の部屋でゴロゴロと過ごすことにした。私は漫画を、冬人はノートパソコンで何かを視ていた。


「秋姉の生配信」

「えっ」


 冬人のベッドに仰向けになって漫画を読んでいた私は、おもわずその漫画を落とした。


「いでっ!」


 落とした漫画が眉間に直撃した。


「えっ!? 何々、秋音の生配信って、どういうこと!?」


 私はベッドから起き上がって、冬人に近寄った。そしてノートパソコンを覗く。


 Akaneというアカウントが、まさに生配信を行っていた。あかね。あきねの一文字違いだ。安直だが、ネーミングセンスのない秋音らしいといえる。


 私は生放送の内容を確認する。癖の強いボサボサの黒髪。低い身長。意外と大きい胸。それを隠すように着た、真っ白な白衣。そして眼鏡の代わりに、サングラスを掛けていた。間違いなく秋音だ。


 こいつ。隠す気あるのか?


『あ、スパチャどもでーす。えーと何々。Akaneさんの専門は何ですか。私は基本何でもイケるんだけどね。得意な分野は心理学、脳科学とか、かなぁ』


 ……。


「はっ!? 初耳なんだけど。冬人知ってた?」

「いや僕も知らないよ。質問してみる?」


 冬人は私の返事を待たずに、スパチャで数百円ほど支払って、そして質問を投げる。


『あ、スパチャどもでーす。あきねさん。じゃなかった。あかねさん。どうして心理学や脳科学が得意なんですか』


 質問文を読み上げた秋音の、表情が強ばった。


『え、あきね? あ、ああ。打ち間違いかぁ。びっくりしたぁ』


 文章を作って投稿ボタンを押しているのだから、打ち間違いも何も無いのだが。


「ちょっと冬人。何余計なことしてんの」

「うん? だってこうやって茶々入れると、可愛い反応が見られて楽しいんだもん」


 愛する弟は、誰よりも秋音の扱いに慣れているらしい。


『素晴らしい発明を認知し、評価するのも人間。その発明の恩恵を受けるのも人間。だから私は、人間の仕組みの理解を深めることが、素晴らしい発明を開発することへの近道だと思うんだよ』


 気を取り直した秋音は、得意げに語り出した。


『脳の錯覚とかを利用すれば、それこそSF映画であるような奇跡だって起こせるんだ。例えば、そうだなあ。カロリー摂取だけの食べ物がある。その食べ物には全く味付けが施されていない。でもそれ食べたら、まるで高級料理を食べたかのような、そんな素晴らしい味がする』


 ああ。あるある。未来では食べ物が最適化されて、それを食べれば栄養バランスは全てまかなえて、それでいて味が抜群に良いから飽きることがない、みたいな。


『メタクッキーという実験があってね。味付けされていないクッキーでも、例えば見た目がチョコ風味のクッキーで、さらにチョコの匂いを嗅ぎながらクッキーを食べると、被験者はそのクッキーがチョコの味だったと誤解する。これは脳の錯覚によるものなんだけど……』


 力説する秋音を見て、改めてこの女は凄い子なのだと実感した。


『つまり惚れ薬とかもさ。そういう脳の錯覚を応用すれば、イケちゃうんだよ。吊り橋効果とかあるじゃん? あとは、そう、催眠術とか。催眠術ねえ、私得意なんだぁ~』


 確かに私も、秋音の催眠術に掛かっている。思い出したらまた吐き気がしてきた。


「でも秋音。タイムリープできる装置とか作ってたよなあ」


 何だったら、肉体を変えちゃう薬とかも作っていた。女の子になった夏木の姿が脳裏を過る。いやまてよ。あれは本当に現実だったのか。秋音の得意な催眠とやらでそう見えていただけではないのか。


――素晴らしい発明を認知し、評価するのも人間。


 なるほど。身をもってその言葉を実感したわ。


「あくまでも得意な分野ってだけで、他にも色々と凄いんだよ。秋姉は」


 と冬人が自慢げに言った。この秋音信者め。


『あ、スパチャどもでーす。えーと何々。催眠とか出来るなら、あかねさんは意中の相手も当然ゲットしているんですよね』


 冬人がまた身銭を切って質問した。秋音はその質問を読み上げた途端、表情が陰る。


「あんたねえ」

「だってだって。見ててよ。可愛いから」


 画面に映る秋音は、大げさに肩を手で撫でて、顔をカメラから背け、やがて口を開く。


『ま、またその質問? 前にも言ったでしょ。当然、ゲットしてます』


 ……。


 はあっ!?


『なつ……N君とはもう付き合って、えーと、四年くらいかな。はる……Hってお邪魔虫が鬱陶しくてねー』


 N君とは夏木のことだし、Hって私のことだろう。こいつ。


「冬人! どいて!」


 私は冬人をどかして、ノートパソコンの前に座る。


『スパチャどもでーす。えーと何々。催眠とか出来るなら、恋人以外にも沢山友達がいるんですよね』


 すると画面に映る秋音は、あからさまに身体を震わせた。


「はは。いないだろう。いないよなあ! 秋音の友達なんて、お邪魔虫のHさんくらいだもんなぁ!」

「お姉ちゃん。そのスパチャ、僕のお小遣いから引かれるんだけど」

「あとで払うから!」


 そして秋音は、またもソッポを向きながら、ボソッと呟くように答えた。

 

『い、いるよ! た、たじ……Tさんとか』

「ぶっ」


 思わぬ人物が挙がったので、私は思わず吹き出してしまう。

 

「Tさん? 誰だろ。お姉ちゃん知ってる?」

「ああ、うん。多分、うちの学校の生徒指導の教師……ぷっ」


 しかも、そもそもは秋音の人見知りを克服するために、田島が協力するという名目があったはず。まさか田島も、生放送のダシに使われているとは思いもしていないだろう。


「もうお姉ちゃん。気が済んだでしょ」

「ああ、うん。ごめんね」


 私は席を明け渡す。冬人はスマホを取り出してから、スパチャを投げた。


『あ、スパチャどもでーす。えーと。あ、今回も頂きました! じゃあ、歌いますね!』


 冬人がスパチャで歌をリクエストしたらしい。歌のリクエストは定番のことらしくて、秋音もノリノリだ。


「あ、もしもし。タカ兄? うん。秋姉お願い」


 スパチャを投げてすぐに、冬人は秋音の兄であるタカ兄に連絡する。なんでわざわざタカ兄に取り次いでもらっているのだろう。


『じゃあ、歌います』


 秋音は胸に手を添えて、そっと息を吸う。秋音の歌かあ。そういえば、鼻歌とか好きだったよなあ。文化祭でバンドした時にボーカル任せたっけ。上手かったよなあ。


 そうか。また秋音の歌を、聴けるんだね。なんだか、嬉しいなあ。



『筋肉ムーキムッキ 夏木虫ぃ♪』



 ……は?


『お前のアソコはどこにあっるぅー♪』


 でんでん虫のリズムで、秋音は勢い良く歌う。夏木虫とか言ってんじゃん。それ絶対N君じゃん。秋音の歌が聴けると聞いてちょっとだけ嬉しくなっちゃったのが馬鹿馬鹿しいじゃん。


『おーい、秋音ぇ』


 秋音が歌い出したと同時に、カメラに映っていたドアが開いた。タカ兄だ。親フラならぬ兄フラが起きてしまったらしい。チャット欄は途端に騒々しくなる。後ろ後ろ、とチャットが送られまくっているが、しかし秋音が気付くことはない。


『尻だせケツだせお尻だせー♪』


 どんだけ尻出して欲しいんだよ。


『みんなー、どうだったー?』


 兄に気付かずに配信を続ける秋音。それを呆然と見つめる兄。見ているこっちの胃が痛くなる。


『えーと何々。うん? 後ろ? 後ろがどうしたの?』


 そう言いながら秋音は後ろを向いた。生配信なのに一時停止でもしたかのように、映像が動かない。おそらく実際には動いているのだろうけど、目と目があったタカ兄と秋音が凍りついたかのように動かないものだから、そう見えているのだ。


「冬人。あんた電話掛けたのって」

「うん。これを狙ったんだ。面白いでしょ?」


 冬人。あんた秋音のことが好きじゃなかったの?


 画面に映るタカ兄が、早歩きでカメラに近く。そしてブチっと映像は途切れた。


「さてと」


 冬人は立ち上がる。


「どこか行くの?」

「うん。秋姉のこと慰めてくるね。きっと凹んでいるから」

「あんた、ちょっと策士過ぎない?」


 そりゃ凹んでいるだろう。あんたがそうさせたんだから。


 幾重にも辛酸を舐めさせられた秋音を、いとも簡単に手玉に取る冬人。


 弟が恐ろしいと、ちょっぴり思う姉だった。

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