春野シュレディンガー〜箱の中の50%プレゼント

――私たちの未来ってさ、シュレディンガーの猫みたいだよね。


 秋音がかつて俺に言った言葉だ。


 シュレディンガーの猫とは要するに、不透明な箱に50%で死ぬ環境を用意し、そこに猫を入れる。はてさて猫が死んでいるかどうかは、箱を開けて見ないと分からない、というものだ。


「私たちの未来だってそうでしょ。未来がどうなっているかどうか、生き続けないと分からない」


 そう言って秋音が笑ったのを覚えている。秋音の真意は計り知れないが、もしかしたらあれは宣戦布告だったのかも知れない。


 あなたは今、春野と付き合っている。しかし未来はそうとは限らない。


 そう言われたのかも知れなかった。


 スマホがバイブした。秋音と春野からのラインだった。


 今日は三人で花火大会を見に行く日だ。





 花火大会の会場付近の川に掛かる橋に、俺たちは待ち合わせをしていた。もうすっかり辺りは暗い。会場付近ということで、人通りも多くなってきた。


「お待たせ。夏木」


 春野と秋音が二人揃ってやってきた。二人とも浴衣だった。


 まず春野を見た。赤と白が艶やかな浴衣を着ていた。髪型も浴衣に合わせて、後ろ髪を下の方で纏めている。さすが読モの仕事をしているだけあって、かなり着こなしていた。


「さすが春野。よく似合っている」


 俺はそんな彼女が誇らしかった。


「う、うぅ……」


 次に、そんなうめき声をあげる秋音を見た。


 青と緑の浴衣を着ていた。いつもの黒い縁のメガネはつけていない。春野と同様の髪型にしている。巨乳に浴衣は似合わないと良く聞く。しかし俺から見ると普通に見える。何か並々ならぬ工夫をしているのだろうか。


 綺麗なのだから、もっと堂々としていれば良いものを、しかし秋音は恥ずかしそうに顔を背けていた。


「どう? 秋音、綺麗でしょ」

「ああ。驚いた。すげえ似合ってる」


 何故か春野が自慢げに言う。どうやら春野が色々と面倒を見ていたようだ。髪型が一緒なのはその為か。春野は俺が秋音にも気があることを知っているが、特に他意はないだろう。おそらく春野の美的センスやその情熱が燃え上がってしまったに違いない。


「秋音。似合っているから。すげえ綺麗だから、オドオドするなって」

「う、うん」


 自分を着飾ることに慣れていない秋音。ただでさえ人見知りだから、こういう時にはこうなってしまうのだろう。


「行こっか」


 春野が言う。


「おう」


 俺は返事をして、歩き出そうとしたその時。橋の向こう側に、俺たちをジッと見つめる人物が目に入る。探偵が被っているような、鹿撃ち帽子を深々と被り、しかし薄っすらと見えているその目は確かに俺たちを捉えていた。


 ゾワリと、悪寒が走る。


 そして想起させられる、“冬人”という名前。


「おーい、夏木! 早くー!」


 春野と秋音が少し先まで歩いていた。春野が俺に手を振って呼んでいる。


「今行くー!」


 そう返事をした後、もう一度怪しい人物を見た。しかし、そこには誰もいなかった。





「はあ、たこ焼きうめぇー」

「夏木夏木。この焼きそばも美味しいよ。はい、あーん」

「お、サンキュー秋音。あーん」


 なんてやり取りをしていると、ガツンと後頭部に衝撃が走った。


「恋人の前で、良い度胸しているじゃない」

「いたた……ほら春野、たこ焼き。あーん」

「あーん……っているか馬鹿っ!」


 磨き上がったノリツッコミをかますと、春野はため息をついた。


「全く。妙な関係になっちゃったものね」


 春野が言う。たしかに、それには俺も同意だ。普通、三角関係ってもっとギクシャクしているものだろう。実際、春野と秋音は今までも仲は良かったものの、夏休み前までは敵同士のような感じだった。今もそのような感じのはずだが、妙にほんわかしている。


 それは俺の態度も起因しているのだろう。以前の俺は秋音に対して突っぱねるような態度ばかり取っていた。しかし春野に気持ちを打ち明けてから、なんだか開き直ってしまっている。それはちょっと申し訳ないのだけれど、それはそれでお互い話し合った結果なので、仕方が無い。


 俺たちの関係に、俺たちがどう結論づけたのかに関する詳細は、いずれ話す時がくるだろう。



 会場まで行く道中。周囲は屋台で賑わっていた。当然人通りも多い。


「春野。はぐれないように」


 俺は春野の手を繋ぐ。


「うん。ありがとう。あ、あれ? 秋音は?」


 異変が起きた。秋音がいつの間にか、いなくなっていた。春野が秋音と手を繋ごうとして、秋音がいないことに気がついたらしい。


「あれ、本当だ。おーい、秋音ぇー!」


 俺は立ち止まって、大声で呼ぶ。しかし反応がない。会場付近かつ開始時間の間際ということもあり、周囲はかなり混雑していた。


「どうしよう、夏木」

「まあスマホで連絡取れるから、大丈夫だろう」


 俺はいったん春野から手を離し、スマホを取り出して秋音に電話を掛けた。しかし繋がってはいるものの、一向に出る気配がない。


 先程見た不審人物のこともあり、俺は少し不安になる。


「電話に出ないぞ。何やってんだアイツは」


 徐々に焦ってきて、つい悪態をついてしまう。いけない。こういう時こそ、冷静にならないと。


「春野。とりあえず俺たちは分かりやすい場所に向かおう。それで、もう一度秋音と連絡を取る」


 と俺が言ったが、しかし春野の返事はなかった。


「春野?」


 俺は振り返る。しかし、そこにいるはずの春野はいなかった。途端に冷や汗が溢れ出る。


「おい、春野!?」


 もしかして先に歩いて行ってしまったのかと、俺は探し回った。しかし春野は見当たらない。秋音同様、連絡も付かない。


「ま、マジか……」


 完全に孤立してしまった。それだけならただの迷子で済むのだが、しかし。


「あの不審人物が気になる」


 俺と春野と秋音にはトラウマがあった。あの不審人物は、それを想起させる。そうでなくたって、こうも立て続けに人を見失うのは不自然だろう。


「春野と秋音に、もう会えなくなるなんて」


 それは絶対に、嫌だ。


「春野ぉー! 秋音ぇー!」


 俺は二人を探しに走った。





 走り回っているうちに、小さな神社に着いた。森の中にあって、周囲はしんしんと静まり返っている。会場からかなり離れてしまい、さすがにここにはいないだろうと踵を返そうとした。しかし。


「夏木」


 聞き慣れた声が響く。途端に心が落ち着いて、同時に嬉しさも込み上がってきた。


「春野っ!」


 俺は振り向く。


 神社の拝殿付近に、その人はいた。


 鹿撃ち帽子を深々と被ったその人は、先程見かけた不審人物だった。よく見ると髪が長いようで、後ろで結わえていた。妙なことに、春野に良く似た声を発していた。それどころか春野と同じ背丈だった。胸辺りが膨らんでいて、女性だということが判断出来る。胸の大きささえ、春野と同じくらいかも知れない。


「あ、あなたは……」


 俺は戸惑いながらも尋ねた。確かに春野に似ているけれど、春野ではない。何故なら春野は今、浴衣を着ているはずだ。


「ふふ。帽子を取ったら、驚くかな」


 春野の声で、そんなことを言った。そして、おもむろに帽子の唾に手をかけ、ゆっくりとその顔の全貌を見せつけてきた。


「嘘だろ……そんな……」


 現れたその顔は、若干の違和感があったものの、間違いなく春野だった。


「何が、起こっているんだ。お前は春野なのか」


 あまりの事態に、俺は混乱する。


「落ち着いて、夏木」


 春野らしきその人物が言った。言葉を発するたびに、その人が春野であると、そう実感させられる。


「じゃあ、先程いた春野は一体……もしかして偽物だったのか!? そうか、秋音の仕業かっ!」

「落ち着いてってば」


 混乱している俺に、春野はそう言った後にギュッと抱きしめてきた。


 訳が分からない。


「ああ、この時代の夏木を抱きしめられるなんて」


 そんなことを言う。


「ねえ夏木。この瞬間のあなたを抱きしめられるのはね。この瞬間にいる私だけの特権なんだ」


 その声はとても儚げで、妙に大人びていたと思う。


「そんなの、当たり前だろ」

「そうだね。でも当たり前のことって沢山あるんだよ。あまりにも膨大にあるものだから、生きていく内に忘れていっちゃうんだ」


 まるで、色々なことを経験してきた、大人のような物言いだった。


 俺はようやく、察した。


「未来から来た、春野なのか」

「うん。そうだよ」


 あっさりと認めた春野。俺は春野から離れて、マジマジと見た。


 高校生の春野は、ただでさえ可愛い。それに加えてこの春野には、大人の、エロい魅力があった。これが、未来の春野の姿なんだ。


「春野。俺とお前は、未来でも幸せなのか……?」


 聞かずにはいられなかった。


「夏木。未来ってね。そう容易くは変えられないんだって。でもね、人の気持ちは結構簡単に変わっちゃうんだ」


 そして春野は、唇に人差し指を添えて、ニッコリと言うのだ。


「人生の楽しみは、ちゃんと取っておかなくっちゃね」


 なんだその仕草、エロいな。


「あ、でも夏木のアソコは小さいままだよ」

「……」


 過去に戻ってまでそんな絶望を突きつけてくれなくても良いじゃん。


「でもお前の姿を見たら、大体は想像出来ちゃったな」


 少なくともこの春野を見る限り、幸せそうではある。


「果たして、本当にそうかしら」

「えっ」

「不満がないのに、この時代に戻ってきたとでも?」


 俺は春野を見つめる。たしかにその通りだ。この時代に来たということは、何かしらの目的があるということ。タイムスリップ、タイムリープものの作品で目的なんてたかが知れている。歴史を変えて、未来を変える。不満がなければ、そんなことをする必要なんてないのだ。


「不満が、あるのか……」

「ふふ。内緒」


 またも同じ仕草で言うのだった。





「そうだ。仲良く話している場合じゃないんだ」


 秋音と春野とはぐれていることを、俺は思い出す。


「うん。わかってる。大丈夫だよ」

「大丈夫……?」

「うん、大丈夫。だって私、未来から来たから」

「な、なるほど」


 何だかそのワードは、あまりに無敵に聞こえる。


「ほら、こっち」


 春野は森のさらに奥を進んでいく。その先は山道だ。


「ねえ夏木」


 静かな森の中。虫たちの鳴き声に混じって、春野の声が響いた。


「秋音のことも、大切にしてあげてね」

「何を今更」


 俺の気持ちは、この春野だって知っているはずだ。


「頑張ったねって、言ってあげて」

「うん? どういうことだ……?」


 くそう。未来人という属性はなんて卑怯なんだ。一言一言がいちいち意味深に聞こえてくる。


「近いうちに、言う時が来るから。ね?」

「ああ、まあ分かったよ」


 そんな感じの会話をしていると、やがて開けた場所が見えてきた。


「この先に、二人がいるよ」


 そう言いながら、春野は振り返った。


 どうしてだ。


 どうして、そんな寂しそうな顔をしているんだよ。


「夏木っ!」


 春野がそう叫んで抱きついてきた。俺は驚きつつも、そっと抱きしめ返す。


 ああ、この春野が何年後の春野かは知らないけれど、この感触や匂いはいつまで経っても春野のままなのだ。


「私はもう、この瞬間の夏木を抱きしめることは出来ないんだ」


 ああ、その通りだね。


 そう思うと何だか、今生の別れのような気がしてくる。


「夏木、大好き。愛してる」


 そして春野は、そっと離れた。


「ばいばい」


 短くそう言って、春野は立ち去ろうとする。


 その瞬間、何故か秋音との会話を思い出す。


――でもね、シュレディンガーの猫と私たちの未来は、やっぱり違うんだ。

――箱の中の猫はね、どうしたって死ぬ運命が50%の確率でやってくる。

――でも私たちは違う。だって未来は私たちで決められるんだから。


 俺は春野の手を掴んだ。


「夏木……?」


 立ち去ろうとした春野が振り返った。


「言うだけ言って逃げるなんて、ずるいぞ」


 俺はそのまま春野の手を引っ張る。


「俺の気持ちも、ちゃんと受け取って行けっ!」


 引っ張った拍子に春野の顔が急接近した。俺はその勢いに任せて、春野に唇を重ねる。


「んっ……」


 急にキスしたものだから、そんな声が春野から漏れた。


 俺だって春野を愛している。昔も今も、そして明日も明後日も。


 この先何度も何度も抱きしめて、何度も何度もキスしてやる。もう忘れられないくらいに、何度も何度も。


 言葉なんていらない。分かるよな、俺の気持ち。


 そして俺と春野は離れた。その瞬間、木々の隙間から見える夜空に、か細い火の玉が上昇していく。


 やがてそれは、重たい破裂音を辺り一帯に響かせ、そして閃光が迸る。


 花火が咲いた。


 艶やかな花の光。その美しい光は、春野の顔を明るく照らす。


 キラリと頰に一筋。それは涙が流れた痕だ。瞼をヒクヒクと震わせて、そこからポロポロと涙を流していた。口をムッと噤んで、声を上げるのを堪えている。


 その涙の訳を、俺が聞いちゃいけないのだろう。


「ありがとう」


 上擦った声で、春野は言う。


「夏木の気持ち、確かに受け取った」


 そして無理矢理、俺に向けて笑いかけた。


 未来は変わったんじゃないだろうか。その顔を見ると、そんな気がしてならないんだ。


「ほら行って!」


 春野が俺の背中を押す。


「これは私たちのプレゼントなんだから」





 山道をさらに歩いていくと、すぐに頂上に着いた。


「うわぁ、すげえ」


 俺は思わず感嘆した。広々と開けた夜空。その一面にこれでもかと咲き誇る、花火。


 崖際に高い柵とベンチがあって、そこに春野と秋音がいた。俺はそっと横に並ぶ。


「やっと来たんだ、夏木」


 と春野。


「でも良かった。三人で見られて」


 と秋音。


「お前らなあ。急にいなくなるから心配したんだぞ」


 とは言うものの、この花火の美しさに、もはやどうでも良くなってしまった。


「ごめんごめん。ちょっと大事な人と会っていて」


 春野は花火を見たまま言う。


「私も」


 秋音も同じように言った。


 俺は確信した。秋音がいなくなったのも、春野がいなくなったのも。春野の言う通り、大丈夫だったのだ。


「ああ、俺もだよ」


 花火を見上げたまま、俺は言う。


 あ、そうだ。


「春野」

「うん? んっ……!?」


 キスをした。


 何度もしてやるって、決めたからな。


「ぷ、ぷははははは!」


 何故か吹き出した春野に、俺はきょとんとした。


「夏木の口、たこ焼きクサぁー!」


 けらけらと笑う春野。一方で俺は、それどころではない。


「な、な、なぁああああ! お、お前。嘘だろ! 普通、思っても言わないだろうが! ああもう、信じられねえっ!」


 ああ、もう、ガチギレだ。


「ぷははは! だって、その、本当に臭くって……ぷははは!」


 腹を押さえて悶えるように笑う春野。畜生。さっきの春野は笑わなかったのに。というか、そうか。さっきの春野も、俺の口臭を……。


 俺はもう堪らなく恥ずかしくなった。どうにかなってしまいそうだ。


「夏木夏木。私ともチューしよ。私ならたこ焼き風味のキスでも問題なし!」

「秋音。お前は引っ込んでろ!」

「でもでも、私もさっき焼きそば食べたじゃん? ほら、今キスすれば関西風味のキスが出来るよ」

「なーに言ってんだこの喪女は」

「喪女言うなっ!」


 ははは、と俺たちは笑う。


「来年の夏もこうやって笑えたら良いな」


 俺は言った。そうね、と二人が頷く。


 来年の夏も笑っていられるかどうかは、来年にならないと分からない。


「笑ってような。ずっと」


 それでも、確率は50%じゃないんだ。

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