平成シンク~ドキドキ恋心略奪大作戦
※平成に発生した事件、事故、災害などに関する記述がありますのでご注意ください。
夏休み初日。俺は熱い日差しと蝉時雨に苛まれながら自転車を漕いだ。
恋人の春野に会う訳ではない。
春野は家族水入らずの浅草旅行だった。だから仕方がなく秋音の呼び出しに応じているのだ。
校舎に入る。上履きを履く。そして遠くから聞こえてくる運動部の掛け声をBGMに、理科室へ向かった。
理科室のドアを開けると、むわっとした空気が溢れ出してきた。その空気は妙に芳しくて、香水と汗の匂いが混じったような、そんな香りだった。思わずくらっとするくらい強烈な香りだったが、理科室に入ると不思議と慣れて、もはや普段の空気と変わらないと錯覚するほどに気にならなくなった。
「やあ夏木。とりあえずかけたまえよ」
秋音が一人。メガネで白衣のいつも通りの姿だった。俺をその辺の椅子に座らせると、秋音はドアの鍵を閉めた。今までも秋音に呼び出されることはあって、ドアの鍵を閉めるのはいつも通りのことだった。
「夏木。令和元年、おめでとう」
「何を今更」
もう夏だ。
「ドキドキ!? 恋心略奪大作戦を開始します」
秋音は相変わらず低刺激な声で、破茶滅茶なことを言い出した。また何かをするつもりだ。
「何だよ、恋心略奪大作戦って」
「決まっているじゃん。夏木が私のことを好きになってしまう作戦だよ」
予想通りの内容で、俺はため息をついた。秋音を見ると、メガネ越しでもはっきりとわかるくらいに目立つ隈が出来ていた。夜通しでこれを考えていたかと思うと、秋音もなかなか残念な奴だなと思う。
「見たまえ、これを」
理科室特有のだだっ広い教卓に、何やら歪な機械が設置されていた。何故かすぐ横にテレビも置いてあって、放送中のバラエティ番組が映っていた。画面の左上には日時が表示されてあった。それによると、今は午前11時らしい。
「またでかいもん作ったなあ。何これ」
「名付けて、平成シンク。平成に起きた出来事を再度発生させることができるマシンだよ」
予想以上にとんでもない発明だった。だがこいつは天才である。一昨日の媚薬フェロモンだって、本当なら世紀の大発明だ。
「本当かどうかは置いておいて。それで?」
俺が問うと、秋音は目を瞑って深呼吸をした。何かを覚悟しているかのような、深い深呼吸だった。
「私はこのマシンに、平成の大事件の数々を登録しました。このボタンを押すと、一つ目の事件が発生します」
マシンについてあるボタンに、秋音は手を伸ばした。
え、今なんて言った? 平成の大事件を登録してあるって? じゃあ何故そのボタンを押そうとしているの?
「わっ! ちょっと待て!」
俺が思わず止めると、秋音は寸前でボタンを押すのをやめた。
「それを押したらどうなる?」
「実際に事件が発生するね」
「事件が発生したら、どうなる?」
「被害者が出るね」
何考えてるんだ、こいつは。被害者が出るねって、あほか。
「夏木。あなたが私と付き合ってくれるなら、やめるわ」
なんだ、と俺は一瞬だけ安心した後、ふつふつと怒りが込み上がってきた。これは多分嘘だ。秋音は俺と付き合いたいが為に、強行手段に出たのだろう。
「付き合わないよ」
俺は冷たく言い放つ。平成に起きた事件を再度発生させるなんて、どうせはったりだ。そんなの、神の所業じゃないか。
俺の返答を聞いた秋音。一瞬目を見開くと、すぐにいつも通りの表情に戻った。
「そう」
そして何のためらいもなく、そのボタンを押したのだ。
『番組の途中ですが、臨時ニュースです』
テレビから緊迫感のある声が響いてきた。俺は嫌な予感がして、全身が強張った。まさか、そんな訳がない。そんな思いで、俺はテレビを見つめた。
『東京都千代田区外神田にて、無差別殺傷事件が発生。7人が死亡、10人が負傷しました。犯人はトラックで通行人数名を跳ねた後、さらにトラックから降りて通行人や警察ら数名を立て続けに殺傷した模様です』
ニュースキャスターから伝えられた内容に、俺はたしかに覚えがあった。
「ムフッ」
妙な声がして俺はその方を向いた。そこには秋音がいた。
「ムハハハハハハハハハ!」
秋音は盛大に笑った。目をこれ以上ない程に開いて、口を思い切り歪ませて、気が狂った様に。
「死んだ! 人が死んだよ夏木! ボタン一つで人が死んだ! 何人だっけ。10人? じゃなくて7人かあ!」
それは、初めて見る秋音だった。俺は絶句する。いつも厄介な事件を引き起こすけど、人が死ぬなんてことはなかった。
「平成20年6月8日に起きた秋葉原通り魔事件。まずはジャブだよ」
何とか笑いを堪えながら、秋音は言った。
「人が……死んだのか……」
俺はすぐにスマホでネットの反応を確認した。過去の事件に類似した事件が再発して、SNSは大盛り上がりだ。
「ムフッ! 死んだね。テレビでそう言ってる。間違いないよ」
秋音は楽しそうに言う。
「何がそんなに可笑しいんだよ!」
俺は怒鳴った。わからないよ秋音。人の死に、どうしてそんなに笑えるんだ。
「だって人が死んだのだよ。それもボタン一つで。まるで神にでもなった気分さ」
俺は秋音が益々わからなくなる。
「まあ人が死んだのは夏木、あなたの所為だけどね」
秋音の言葉は俺の心を強く揺るがす。俺の所為。そうなのだろうか。ボタンを押したのは秋音。でもそうさせたのは……。
「では、次に行こうか」
秋音はボタンに手を伸ばした。その手は押す寸前で止まる。
「どう? 気は変わった?」
「……」
秋音の言葉に、俺は答えることが出来ない。媚薬フェロモン事件の時とは訳が違う。だって拒否してしまえば、また人が死ぬのだ。それはとても恐ろしい。
俺はボタンと秋音の手を交互に見た。秋音の手は綺麗で、小さい。手だけじゃない。秋音は胸は大きいものの、小柄だ。取り押さえようと思えば出来るはずだ。多分ボタンは押されるだろうが、それで最後だ。成功すればその後ボタンを押されることはない。
俺は席を立ち上がると、教卓にいる秋音に向かって走る。
「動くな」
しかし、いとも簡単に俺は止められてしまった。秋音は何と拳銃らしきものを取り出して、それを俺に向けたのだ。
「私お手製の銃だよ。夏木がそういった行動に出るかと思って、予め準備しておいたんだ」
秋音は頭が良い。こんなマシンを開発出来てしまうのだから、当然だ。そして俺の行動だって全てお見通しなのだろう。
「まあ。そういう行動を取ったってことは、そういうことなんだろうね」
秋音は自嘲気味に言うと、まるで部屋の電気でも付けるかのように、平成シンクのボタンを押した。
『東京メトロ各路線にて、神経ガスのサリンが散布されました。乗客や駅員ら13名が死亡。負傷者は6300名に及んでいます。警察は現場にいた不審人物数名を確保。いずれもオウム真理教の信者と思われます』
無情にも平成シンクは安定稼働のようで、やはり事件が発生してしまった。
「平成7年3月20日に起きた地下鉄サリン事件。高校生の私たちは知らないはずだから解説するとね。オウム真理教というやばい宗教団体が、国家転覆を図って地下鉄にサリンという神経ガスを散布したんだ。その後オウム真理教の幹部たちが次々と指名手配されたり、捕まったりしてね」
ウキウキと語る秋音の声が遠のいていく。
また人が死んだ。今度は13人。テレビの放送は、ニュースキャスターが騒々しく現状を報告している。立て続けに大事件が発生したから当然だろう。
「こんな秋音、知らない。秋音は優しかったじゃないか。地味で、不器用で、人見知りだったけど。秋音は一線を超えるような奴じゃなかっただろ!」
俺の悲痛な叫びに、秋音は語るのをやめた。キッと俺を睨みつけて、そして絞り出すかのように言う。
「こんな私にしたのは、夏木じゃない」
そして秋音は、ほろりと涙を流した。
「叶うことの無い片思いって、辛いんだよ。苦しいんだよ。心がね、張り裂けそうなくらいに痛いんだ」
秋音は白衣の袖で涙を拭った。
「でもね。いくら泣いたところで、その苦しみからは逃れられないんだ。だって私が泣いたところで、夏木は私の恋人になってくれないから。だから無理だったよ。私は耐えられなかった。もう、この世界で生きていく自身がなくなっちゃった。そう考えたらね、急に何もかもが憎たらしくなっちゃってさ」
そして秋音は俺を見つめた。先程の下品な笑い方をした時と同様の、狂った表情だった。
「夏木の手に入らない世界なんて滅んじゃえ。なんて思ったりしてさ」
俺は秋音に何を言えば良いのかわからなかった。きっと秋音は、謝って欲しい訳でも、慰めて欲しい訳でもない。ただ、俺が欲しいだけなのだろう。
「私は夏木以外どうでも良い」
一昨日の言葉を、秋音は再度口にした。
「さあ、夏木。続きをしようよ。次の事件は災害だよ。平成23年3月11日。東日本大震災。通称3.11」
先程までとは段違いの規模の事件だった。
「秋音!」
俺は怒鳴った。
「うん、わかってる。死者・行方不明者1万8千人。津波の2次被害、原発事故の3次被害。洒落にならないよね。でもね」
秋音は狂った表情のまま言うのだ。
「洒落じゃないんだ」
狂った表情だったが、秋音らしい落ち着いた声色だった。そこにいるのは俺の知らなかった秋音だが、それでも俺の知っている秋音でもあるのだ。だからこそ俺は、こんなにも悲しいのだ。
「どうしようもなく夏木が好きなの。欲しくて欲しくて堪らないの。ねえお願い。春野と別れて私と付き合ってよ。何でもするから。どんなエッチなことでも、悪いことでもするから。じゃないと私、本当にどうにかなってしまいそう。気が狂いそうなくらいに、もどかしくて、切ないの」
秋音の懇願する姿は、痛々しくて見ていられなかった。
「秋音」
俺は諭すように言う。
「いくら人が死のうと、春野と別れるなんて出来ないよ」
俺の言葉によって、秋音の肩が震えた。恋人への誠意を示す度に、秋音が傷ついているのがわかる。どうにかなってしまったのか、気でも狂ってしまったのかと、俺も不安で心が折れそうだった。
「うん。そうかもね。だから私も相応の考えがある。震源地を浅草に変更したんだ」
「浅草? 何故」
「夏木の恋人ってさ。今どこにいるんだっけ」
「どこってそりゃあ」
あれ、春野が今いるのって、浅草じゃなかったか。
「気付いたかな。このボタンを押せば、夏木の恋人が死ぬかも知れない」
俺は一瞬、頭が真っ白になる。
「まあ、私にとっては邪魔な奴だったよ。泥棒猫が死んだら、さぞかし清々するだろうね」
春野が死ぬかも知れない。途端に俺は身体中に鳥肌が立って、冷や汗がだらだらと流れた。
「恋人が死んだら、夏木は私を選んでくれるよね。もういっそボタン押してしまおうか。ああ、押しちゃう押しちゃう。押しちゃうよー」
秋音がふざけだして、俺の同情心は怒りへと変わった。
「秋音ぇ!」
俺は叫び、駆け出した。
パーンと軽快な破裂音が響いて、俺は走るのをやめてしまう。次に後ろにあった実験道具を仕舞ってある棚のガラスがパリンと割れた。
「次動いたら、足に当てて無理矢理止めるからね」
拳銃は本物だった。
「秋音、頼むよ。春野には何もしないでくれよ」
俺はなす術が無くて、ついに秋音に懇願した。膝立ちして、両手を床についた。項垂れながら、ぽろぽろと涙を流す。
「じゃあどうすれば良いのか、わかるよね」
秋音と付き合えば良い。俺がそう言えば、全て丸く収まるのだ。そうだ。秋音には悪いけど、付き合うということにして、とりあえずこの場を凌いでしまえ。
「わかったよ、秋音。春野と別れて、秋音と付き合う」
「本当? 嬉しいよ。わかってくれたんだね、夏木」
目をキラキラとさせて、嬉しそうに笑う秋音。これで良いんだ。もう人が死なずに済む。春野が死なずに済むのだ。
「ありがとう、夏木。大好き」
秋音はそう言うと、平成シンクのボタンを押した。
「おい!」
秋音の思わぬ行動に、俺は声を荒げた。
「大丈夫だよ、夏木」
秋音の言う通り、平成シンクの挙動が先程と違う。テレビでは大型地震の放送はされていない。その代わり平成シンクのマシンから小型のモニターが現れて、カウントダウンが表示された。
「今から3時間後に、大型地震が発生する。夏木はその間に私を抱くの。私を絶頂させたら、解除コードを教えてあげる」
「抱くって、秋音」
「わからない? セックスだよセックス。ただ付き合うってだけじゃ、夏木がその場凌ぎで言っているだけかも知れないでしょう。だから証明して欲しいの。セックスで」
俺は迷ってしまった。だってセックスなんて出来るはずがない。俺には恋人がいるんだ。秋音を抱いてしまったら、もうただじゃ済まない。でもだからといって秋音の要求を拒否してしまえば、大型地震が発生してしまう。きっと春野が巻き込まれる。もしかしたら死んでしまうかも知れない。
春野が死ぬくらいなら、俺は……。
「わかったよ、秋音」
俺はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺は、秋音と、セッ……」
「ちょっと待ったぁ!」
そんな軽快な叫びが響いたかと思えば、鍵が閉まっていた理科室のドアが吹き飛んだ。
「浮気は駄目だよ、夏木!」
キリッとした表情で俺に言う彼女は、まさしく俺の恋人である春野だった。
「は、春野? 浅草にいるんじゃ」
「なんか秋音に強要されている気分だったから、やめておいたの」
俺は秋音を見た。秋音はバツが悪いような表情をして、目を逸らした。
「なんで邪魔するのよ、春野」
「それはこっちのセリフ。まったく、こんなことをしているなんて」
春野はそう言うと、その長い黒髪をはらりと靡かせた。俺はそんな凛々しい姿に、つい見惚れてしまう。そうだ。俺はそんな春野に、いちころだった。
「夏木!」
怒声が響いて、俺は思わず秋音を見た。物凄い形相だった。身体中の嫉妬心を全て顔面に集中させたような、そんな顔だった。そして俺は思い出す。今の秋音は狂っている。今の秋音には二択しかないのだ。すなわち、俺を手に入れるか、全て破壊するか。
俺は咄嗟に駆け出した。秋音は俺が欲しいのだ。それには春野が邪魔だ。秋音には銃がある。今この場にいる春野が危険なのは明白だった。
「死んじゃえっ! 春野!」
秋音は春野に銃を向ける。しかし俺が春野を庇おうとしていることも、秋音は気がついた。恐らく俺が飛び込めば、春野を守ることが出来るだろう。
「春野!」
俺は春野に向かって飛び込んだ。
ぱあん、と軽快な破裂音が響く。しかし銃弾は飛んでこなかった。
俺は倒れながら秋音の方を見た。秋音はあろうことか、自分のこめかみに拳銃を押し当て、発砲していたのだ。
血を吹き出しながら、倒れゆく秋音。春野に向けて発泡していたら、俺の命が危なかった。俺が死んでしまっては、秋音にとって本末転倒である。かといってこのままでは秋音は俺を手に入れることが出来ない。だから秋音はもう一つの選択肢を選んだのだ。世界の破壊。それを簡単に成し遂げる方法がある。
秋音はその方法を実行したのだった。
*
テレビの音声が喧しくて、俺は目を覚ました。テレビはバラエティ番組を放送していて、画面の左上には時間が表示されていた。それによると、今は午前11時らしい。
「おはよう、夏木」
低刺激で低トーンな声が響いた。振り返ると、側に秋音がいた。メガネで白衣の、いつも通りの姿だった。
むわっとした空気はなくなっていた。香水と汗の匂いが混じったような香りはしていない。見ると理科室の窓が全て開いていて、換気されていた。
「今のが、お前が開発したマシンの効果か」
俺は朧気に言う。目覚めの気分は悪かった。
「そうだよ。対象者に作られた夢を見させるマシン」
「……」
俺は黙って秋音を見た。小顔で、綺麗な肌。ぶっきらぼうな表情。いつもの秋音だった。狂ったような笑いも表情もしないし、こめかみから血を吹き出しながら、この世ものとは思えないような死相も浮かべていない。
地味で、不器用で、人見知りで。いつも厄介な事件を引き起こす。それでも一線は超えない秋音が、目の前にいた。
「ねえ。夏木の見た夢はただの夢だけどね。私が辛いのは、本当なんだ」
いつも以上にしおらしく、秋音は言う。
「叶うことの無い片思いって、辛いんだよ。苦しいんだよ。心がね、張り裂けそうなくらいに痛いんだ」
夢と同じことを秋音は言うものだから、俺は少しドキッとした。
「だからね。今日見せたのは今までの腹いせなんだ。私だけ辛くて、あなた達は幸せってムカつくもん」
などと言って、秋音はお茶目に笑った。俺はその笑顔に、くらっとしてしまう。久しぶりに見る秋音の笑顔だった。運動部の掛け声よりも喧しく心臓が脈打っていた。もしかして一昨日の媚薬フェロモンより、効いているかもしれない。
「いつか絶対に、夏木の心を奪ってみせるから」
ドキドキ、恋心略奪大作戦が始動した瞬間である。
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