あか、あか、あか

 辺り構わず炎を吐いたので、ユハの周囲はあちこちが燻り、煙を上げ、炭や灰となっていた。

 樽を運んできていたリリュシューの部下たちは、三人とも消し炭となり、点々と転がっている。リリュシューはこの三人に比べたら軽傷もいいところだが、右半身に重度の火傷を負い、倒れていた。その場所がユハに近いほうから数えて三番目の部下のすぐ後ろなので、リリュシューが吹き付ける炎の中でどういった行動をしたのかは、想像に難くない。

 ユハはローラムを守るように腹の下に入れ、唯一動く右の翼で庇うように覆った。中からため息をと共にぽんぽんと撫でるように軽く叩かれ、翼の隙間に頭を突っ込んで中を確認する。

「これじゃあ何もできないじゃないか」

 不満に口を尖らせるローラムに注意され、ユハは渋々隙間を作った。しかしローラムがそんな隙間じゃ蟻しか通れないというものだから、ユハは苦虫を噛み潰したような思いをしながら、隙間を広げる。

 蟻以外にもネズミだって通れる隙間だったのに。ネズミが通れれば麻酔銃だって弾丸だって通ってしまう。剣の先だって入り込むかもしれないのに。

 ユハの思いなどまるで気付かず、ローラムはひょいと翼の下から抜け出してしまった。


 ――しまった! ネズミではなく、像の隙間だったのか。


 人と巨鳥の二つの姿を持つユハは、ときどきその感覚が混ざりあってしまうことがある。人の姿でいるのに巨鳥のときであるような、巨鳥なのに人として感覚が細かく小さくなっているような。今はまさにその狂った感覚で、ローラムを逃がしてしまった。

 慌てて引き留めようと翼を伸ばすが、くるりと振り向いたローラムが酷く困った顔をしたので、ユハも困ってしまった。伸ばした翼を力なく下ろせば、よしよし、とローラムが頷いてくれる。

 そこにいる。目の届くところで生きている。それだけで今はいいやと思えるには、いささか危なすぎる現場であるが、今までに比べればずっと近く、姿が見えないことからくる不安というものはない。

 ユハはローラムがまたいつ強襲されてもいいように目だけは隙なく周囲を窺った。

 ローラムが玖那くなに上に乗られた格好で倒れているアララギに近付いていく。

 不安に鼓動が跳ねるが、本来の姿である玖那はその材質ゆえに相当に重く、アララギは苦しそうに顔を歪めて息をするだけで手いっぱいだ。押し返そうにも玖那は胸の上に乗っているので、上手く力が込められない。

 臥朋がほうに付き添われ傍らに立つローラムに、アララギが渋面を作る。決して目を合わせようとせず、つんと顔を背けるアララギに、玖那がその体の上で重心を移動させる。

「ぐ……っ」

 潰れた肺から息が漏れる。ユハは極力ローラムだけを視界に入れるようにして、成り行きを見守った。アララギを見てしまえば、彼に対する情に絆され、またローラムを窮地に追いやってしまいそうだ。

勇隼いさはや! ぼくを助けろ」

「……」

 ふるふる、とユハは首を振った。耳の奥に入り込んだアララギの声が脳内を駆け巡り、胸の奥へと沈んでいく。ユハの中にある朱璽鬼しゅじきの本能が、アララギの声に従おうと目を覚ます。

 ユハは衝動を堪えて蹲った。――蹲ろうとして、顎にがつんと衝撃が走る。

 樽だ。

 ユハのちょうど顎の下に樽がある。ローラムが落ちたので、彼を抱え込んだときに一緒に抱え込んでいたもの。アララギによって、ローラムの血を用いて色付けされたものだ。

「ユハ?」

「先輩?」

 その中にある赤い早夏を、ユハはくちばしの先で摘まみ、アララギに見せつけた。

「気でも狂ったか。朱璽鬼が二つも赤い早夏を食べれば、死ぬぞ」

 アララギの言葉に、ローラムが驚いてユハを見る。

 ユハは構わずころころとくちばしの間を転がし、赤い早夏を食べた。

 死ぬぞと脅すように忠告したアララギですら、目を丸くしてユハを見つめている。

 朱璽鬼は基本的に、一人を自身の主と定める生き物だ。選ばれた王は同時に二人もいらない。

 二人以上選ばないのは、朱璽鬼と契りを交わした者通しがそれぞれ全く別の指示を朱璽鬼に出した際、どちらにも従おうとした朱璽鬼は体が真っ二つに千切れてしまったという話があるからだ。

 あながちただの伝説ではない、とユハは思う。

 命令的に言われた言葉には、抗い違いものがある。従ってやりたくなるその気持ちに蓋をし顔を背けることはひどく背徳的で、罪悪感がひしひしと募る。その苦しみに、二つに引き裂かれてしまった朱璽鬼は耐えられなかったのだろう。

 そんな教訓もあって、以来、朱璽鬼は一人だけを選び、その者に王の役目を押し付けるようになったのだ。

 ごくりと喉を鳴らし、ユハは二つ目のローラムの赤い早夏を飲み込んだ。

 先人の教訓は確かに尊いものだが、ユハは違う。アララギは違う。あくまでもアララギは代打で、繋ぎで、一時しのぎだ。どんなに情が湧いても、アララギに対する根本的なユハの認識は変わらない。

 残念なことに、アララギは紛い物なのだ。なるべくして深王しんおうの血を継いで生まれたローラムとは違い、アララギは生まれてから深王の血を宿され、その価値を付加されたにすぎない。濃度で言えばローラムよりもはるかに薄く、味気ない。

 三つ目の早夏を飲み込んで、ユハは胸の底からこんこんと湧き出る泉のような喜びを感じた。間欠泉のように途切れることなく、次々に湧き上がってくる。ローラムの実は今まで食べたものの中で一番瑞々しく、甘美だ。

 ユハの中のアララギを、ローラムがとろりと蕩けるような濃度で、上書きしていく。

 以前の朱璽鬼は生粋の血筋から二人を選んでしまったことが、悲劇の要因だったのだ。

 別種の赤い早夏を食べてもぴんぴんしているユハに、アララギが怪訝な顔をする。

「死なない……?」

 死んでやるところを見てやりたかった、と言っているわけではない。アララギにとっても本当に不思議なのだろう。

 ユハは口を開けて見せた。確かに飲み込んだのだと見せつける。

 自分が死なないことはわかっていた。アララギは知らないだろうが、先ほど無理やりアララギの実を食べさせられた時点で、二つ目の早夏を摂取していたのだから。

 ローラムの実を食べたのは、かつてアララギが深幽境しんゆうきょうを手中に収めようと凄惨な計略を実行したときよりもさらに前だ。小さな手に赤い実を持って、ふらふらと危なげな足取りで自分のほうへと寄って来たローラムの姿は、今でもはっきりと覚えている。忘れたことなど一度もない。その光景が、その事実が、今までローラムと離れ離れになっていても自我を保ち、水面下で抗い続ける原動力となっていたのだから。

 ユハは巨鳥から人の姿になると、その場から一歩も動かずアララギに言う。距離を詰めないのは、確固たる意思表示だ。

の実を食べたのは、もうずっと昔のことだ。アララギと会う前、が行方不明になる前に」

 敬称を強調するように言う。アララギには決してつけなかったものだ。アララギが強く望み、けれど何があろうとそれだけは、とユハが断固拒否していたもの。

 それによって、アララギの中から何かが抜け落ちたようだった。

 すっと表情もなくなり、瞼を閉じる。体からも力が抜けたので、玖那がおや、と首を傾げた。

 抵抗する気力が失せ、アララギの口からため息が漏れる。

 諦め、気落ちして出るため息。

 何度か大袈裟に繰り返し、アララギは目を開けた。

「全て計画以前の問題であったということか。とんだ間抜けだ」

 アララギの目的は、達せられていたように思えていた。ユハが真にアララギの言いなりになっていなかったことで脆く崩れてしまったのは、アララギが欲を出したからか。

 どこからが欲で、どこまでが願いなのか。

「好きにするがいい。お前にはどうあっても敵わないらしい」

 アララギがローラムへ顔を向ける。その表情は睨み付けるでもなく、疲れ果て今にも眠りたいように見えた。



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