善意の鬼と副業代行
ああもう、本当に面倒だ。
ぼんやりと薄暗い中、回廊をぱたぱたと忙しく走り回りながら、なぜこんなにも仕事を溜め込んでいるのだろうと不思議に思う。
こまめに片づけていけばそうそう溜まるものではないし、一つ一つはそれほど大変なものではない。一度にまとめて行おうとするから難儀するのであって、だからといって取り掛かろうとした瞬間に根を上げて押し付けてこないでほしい。
「いや、助けちゃう俺が悪いんだよなあ」
このままではだめだ、今日こそびしっと指導してやる、と息巻いては見るものの、いざその時になると可哀想に思えて腹の底にストンと言葉が落ちてしまう。そうなってしまっては再び掬い上げるのが酷く億劫で、今度でいいか、と結局諦めてしまうのだ。甘やかしすぎるのも本人のためにならないとよく言われるが、一度認めてしまったら守りたくなってしまうのが、
他人の分の仕事でも引き受けてしまったからには、それはその時点で自分の仕事だ。
ため息を吐く間もなく、次の担当部屋へと辿り着き、玖那はにこやかな笑みを浮かべて扉を開いた。
「こんにちは。大変お待たせ致しました。本日分の香り、お届けに参りました」
差し出すのは紙で織り上げた花である。特製の紙でできた花には、これまた特別製の香水を刷り込み、
その紙花の注文を捌くのが、本日の業務である。
紙花には様々な香りがつけられているので、ほかのものと混ざってしまわないように香りごとに分類され、丁寧に瓶詰めされている。腰に下げた専用の鞄から注文票を取り出し、
いつでも
こうなってしまったのは、十数年前のある事件が発端らしいが、玖那はその事件のことはよく知らない。玖那が深幽境へ流れ着いたのはその事件後だったし、誰かに聞こうとも思わなかった。ただ、昔を知っている者は、昔はそりゃあ明るかったものだよ、と地上の太陽を懐かしむように目をすがめる。もっとも、幽鬼たちは夜目の利く者のほうが圧倒的に多いので、深幽境の明るさに関しては特に不具合もなければ、不満もないらしいが、文字を扱うときには少々不便ではある。
玖那は携行灯を元の場所に戻し、注文された品を手に取った。
初夏を代表する、果物の香り。
そういえば上ではもうじきそんな季節だ。四季のない深幽境では季節の移ろいを目で感じることはできないので、小物で取り入れるしかない。四季の懐かしさを思いながらようやく出てきた部屋の主へ紙花を差し出せば、代わりにすっかり香りの抜けた紙花が手渡された。
「ありがとうございました。またどうぞご贔屓ください」
配達の遅れを盛大に責められる前にそそくさと頭を下げながら扉を閉め、回収した使用済みの紙花を押し車の端に載せた桶に突っ込む。ほう、と息を吐き、半ば手探りで持ち歩いている水を一口飲んだ。
もうじき夏がやってくる。
深幽境に目に見える四季はないが、暑さ寒さは感じられる。
今年も、うだるように暑いのだろう。ノジーなんかは暑いのに弱いから、彼らがへたってしまえば仕事が一気にこちらへ割り振られてきそうだ。彼らの仕事はキツイから嫌なんだよな、と思いながら水筒を戻し、押し車に手をかける。
この仕事が無くならない限り、大丈夫か。
のんきにそう思うのは、仕事を押し付けてきた先輩の体たらくをよく知っているからだ。
業務をほっぽり出した
膝を抱えた先輩がこの世の地獄に落ちてもうすぐ三日。あの人があんなに落ち込んでいるなんて、よっぽどだ。
「……やっぱり、本業関係なのかな」
彼は紙花屋を副業と言って憚らない。雇用主とも何かしらの取り決めをしているらしく、急に休むことも多々あるが、それでも彼にとっては副業で、先輩ではあるが給料面でも自分のほうが頂いていると思えばやっかむ気にもならない。もっともそんなことは関係なく彼に突っかかる人もいるにはいるが、あれは犬猿の仲といったほうがいい領域ではないだろうか。
やることなすこと、気に入らない。
勇隼が息を吸うだけで嫌だと言っていたこともあった。
「玖那!」
「げ」
噂をすれば何とやら。
斜め下の階から身を乗り出すようにしている、勇隼と犬猿の仲の先輩を目にし、玖那は顔を引きつらせた。嫌な予感しかしない。聞こえなかったふりをしてやり過ごそうかと思ったが、彼は欄干の上に飛び乗ると文字通り飛び上がった。
上の回廊に、軽々と。
「うわあ、ばけもん」
思わず飛び出た素直な感想を慌てて飲み込み、どしどしと足音荒く近づいてくる先輩にへらっと笑いかける。
「奇遇ですね先輩」
先輩こと
だって、善意の鬼だから。
「お前、勇隼のやつに仕事を押し付けられたんだと! またか!」
あの悪ガキめ、と歯ぎしりをする臥朋は、それでも玖那の肩から手を離さない。怒り心頭の彼のまなじりに涙の痕を見つけ、玖那はおや、と思った。
すでに泣いたあとだったか。
気のいい先輩はひとしきり玖那の境遇に同情し、涙し、怒ってくれたようだ。ということは勇隼にも説教をした後なのだろうか。勇隼のあの落ち込みようを玖那も知っているだけに、臥朋も今回はそこそこに引き上げてくれたことを密かに願う。
感情の高ぶりが激しすぎなければ、いい先輩なのに。
そう思わずにいられないのは、善意が痛いからだ。とっても。
「あ、先輩。一つ折れてしまった紙花があるんですけど」
「何? 不測の事態だな。それは一大事だ」
彼は腰に付けた専用鞄から
「どれだ?」
「えーと、これです」
回収桶の中から件の一本を取り、手渡す。臥朋はその体躯と馬鹿力に似合わずせっせと指先を動かし、あっという間に直してしまった。
「む、補強用のが終わってしまうな。一度取りに戻らなければならないか」
玖那は自分の鞄から予備を取り出した。玖那の紙テープは新緑色で臥朋が切らした物とは若干色味が異なるが、ないよりマシだろう。
「とりあえずどうぞ。まだ持ってますから」
「いいのか?」
「どうぞ。いっぱい使いますもんね。先輩の修繕した紙花は、実は評判いいんですよ。知ってました?」
「いや、知らん。そうなのか?」
「金継ぎみたいだって」
「お、おお、そんな大それたことを」
臥朋は目を丸くし、きょろきょろと辺りを見回した。照れ隠しにしては挙動不審だ。
「敵でもいるんですか?」
「ああ、勇隼のやつに聞かれたらいかんと思ってだな。三年経ってもあいつの腕はちっとも上がりはしないから、俺ばかりが抜きんでていると言われてしまっては
流石のあいつも腹を掻っ捌くくらい凹むんじゃないかと」
するわけがない、そんなこと。
「まあ、五年ですけどね」
しかも抜きんでているとまでは言っていないし、勇隼の腕は上がらないのではなく、上げる気がないだけだ。
「お? そうだったか? 早いものだなあ……入店したのが昨日のようだ。勇隼と俺は同期でな、あいつはとにかく嫌なやつだった」
「へえ」
何度も聞いた話だ。適当に相槌を打ちつつ、押し車の輪留めを蹴って外す。ガチャンと音がして固定されていた輪留めが外れ、玖那は次の客の元へと足を向けた。臥朋が話ながらついてくる。
「何しろ、あいつの香りは長持ちすると評判だったんだ。同じ材料を使って同じように作っているはずなのになぜなのかずっと疑問だったんだが、それが、実は香りつけのときにサボっているからなどというふざけた理由だったんだぞ! 新製法なんてわけがあるか! 最初に紙を浸しちゃうなんてあり得るものか! 乾かすのも面倒だとびっちゃびちゃのまま折っていたなんて信じられん!」
「今では主流ですけどね」
「ま、まあ、折り上げてから香りをつけるよりは余程楽でしっかりとつくが、しかしなあ」
「おかげで業界優位でしたしねえ」
紙花は、その性質から機械での生産化が難しいとされ、未だに職人が手作りしている品だ。要望に応えて形も色も様々な花を提供している関係もあり、大量生産には向いていない。あまりに売れすぎて製造が追いつかず、秘法としていた香りづけの工程を他店に売ったこともあるという。玖那が入る前のことだ。今では使用済みの香りの抜けた紙花を回収し、香りをつけて再提供するという方法も取り入れているので、使う機会も減ってきた技術だが、秘法とせずにさっさと売りつけた店長はなかなかの商才である。
しばらく臥朋と共に客を訪問して回り、昼時となった。
「飯だ。戻るぞ」
「でも近くなので、もう二、三件寄ってしまいたいんですけど」
「それは午後だ。戻るぞ。至急だ」
「ええー」
「そう言うな、玖那。働かざる者食うべからずと言うが、腹は減るんだ」
玖那に言っているようでどこか遠くを見る臥朋の目に、ピンとくる。玖那はにやりと笑って、回れ右をした。
「なるほどなるほど。名言ですね」
「そ、そうだ。名言集の中の一つに載っていてだな」
「おーっと、なんだかすごくお腹が空いてきました! 仕事どころではないです。いーっぱい買って帰りましょう!」
「そうだ。その調子だ玖那! いっぱい買ってみんなで食おう! ふ、二人だが」
「はい。二人ですけどね」
そう言いつつも、どこかの誰かさんの分も含めて、三人分用意することは目に見えている。
だって彼は、善意の鬼だから。
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