幻
及川が消えた次の朝、真っ先に起きて仕事場に着いた茉里は、朝食の仕込みをしている翠の肩を叩いた。
「翠さん、夜、壮太さんと一緒に、すこしいいでしょうか?」
すると、翠は、何かを思いつめたような茉里の顔を見て、どうしたの? と、聞いた。
「昨夜伺った及川さんのことで」
茉里は、勇気を出してその名を出した。及川は壮太のことを知っていた。ならば、壮太自身やその母である翠なら、及川のセリフの意味がわかるはずだ。
茉里の言葉を受けて、翠は、たくさんの味噌汁が入った鍋をかき回す手を止めた。
「及川さん?」
茉里は頷いた。しかし、翠は空を見つめて困った顔をして茉里を見た。
「お客様?」
翠が不思議そうに聞いてくるので、茉里はすこし、自分の言っていることがどういうことか、分からなくなってしまった。はい、と、力なく答える茉里に、翠はこう言った。
「昨夜は、及川様という方は、お泊めしていないわよ。いったいどうしたの? 何か思いつめているようだし」
その言葉に、茉里は言葉を失った。では、あれは全て夢か幻だったのか?
いや、それにしてはリアルすぎる。あの時感じた及川の手の感触も、彼の声も、どれもきっちりと茉里の中に残っていた。
「私にも何が何だかわかりません。もしかしたら全部私が見た幻かも。でも、お話を聞いていただけますか?」
自分でもわかるくらい、必死の形相をしていた。及川の話は、茉里にそうさせるだけの力を持っていた。
翠は、茉里の要請を受けた。
「分かったわ、茉里さん。今日仕事が終わったら、相太を連れてあなたの部屋に行きましょう」
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