及川
茉里が及川の部屋をノックすると、及川はすぐに出てきて扉を開けた。進められるままに中に入ると、昼間湖畔で見た及川の青白い顔は、ただ色が白いだけなのだとわかった。
及川は、茉里を部屋のソファーに座らせると、少し表情を緩めた。
「浅丘茉里さん、君に伝えたいことがあるんだ」
そう、茉里に告げる及川の表情は、少し悲しげだった。茉里は、この男性には何かあるのだと思いながら、及川が出してきた、部屋備え付けのインスタント・コーヒーを口にした。この部屋は朝、茉里が掃除してセッティングしたから、少し愛着があった。
及川は、どこから切り出したらいいものか、迷っている様子だった。茉里は、コーヒーを飲み込むと、自分のコーヒーを飲まずにいる及川にこう言った。
「及川さんは、何が心配なんですか?」
すると、及川は、すまなそうに少し笑った。
「君が、と、言いたいところだが、僕も君とはあそこで初めて会ったんだ。君の持つ石が、君のことを全て教えてくれたから、ここに来られた。いま、石は持っているかい?」
茉里は、ひとつ、頷いて、履いているズボンのポケットから石を出した。すると、茉里の目の前から、及川が消えた。
そして、その代わりにそこにいたのは、まだ小学生の高学年ほどの少年だった。
「あなたは? 及川さんはどこに?」
少年は、寂しそうに笑って、茉里を見た。
「僕が及川だ。僕の時間はこの年齢のまま止まってしまったんだよ」
少年はそう言って、茉里の持つ石を見た。
「湖岸で君がその石を持っていても、偽りの姿を保てたのは、あの場所に、僕の力が多く働いていたから」
その話に、茉里はハッとして、石を拾った時に翠が話していたことを思い出した。
「じゃあ、及川さんは、湖岸の事故の?」
少年は、頷いた。
「君から見れば、僕は幽霊だね。でも、それで君をどうこうできるわけじゃない。だから三つだけ、僕の話を聞いてほしい」
「三つ?」
まだ自分の見ているものが信じられない。話を飲み込むのに時間がかかっている茉里をよそに、少年は続けた。
「一つは、この先どんなことがあっても、脅しには屈しないでほしい。二つめは、壮太くんを救ってあげてほしい。三つめは、このペンションのことなんだ」
及川少年の話が終わらないうちに、ポツポツと雨が降り出してきた。大粒の雨なのだろう。窓ガラスに強く当たる音がする。少年はそれを見て、急いで茉里の手を握った。
「茉里、気をつけて。このペンションは、もうここには、ないんだ」
及川少年がそう言ったその時。
窓に当たる雨粒だったそれは、ベタベタという音を立てながら、人間の手のひらに変わっていった。部屋の窓ガラス全てに手は張り付き、その冷たい冷気を部屋の中に染み込ませる。茉里は、言葉を失った。口に手を当ててなんとか踏ん張る。恐怖で足が震え、立っていられなくなった。及川少年の手は冷たかったが、茉里の手を優しく握りしめていた。茉里の頼りはそれだけだった。
そして、部屋の電気が全て一気に消えた。
茉里は、握られている手の感覚を確かめながら、恐怖で出てきた涙を拭った。
「茉里、すまない。僕が君にしてやれることは、ここまでみたいだ」
及川は、そう言うと、茉里の手を、今までより強く握りしめた。
「その石は真実を知るための石。どうか、壮太を頼むよ」
及川は、そういって笑った。暗闇の中、おそらく笑っていただろう。茉里の手を握っていた及川の手の感覚が次第に薄れていく。それが完全に消えてしまうと、部屋の電気が一気に点いた。
「及川さん!」
茉里は、今度は違う涙を流していた。及川は消えた。これは夢ではない。部屋の窓ガラスには何の異常もなかったし、及川がいないこと以外には、何一つ変わっていなかった。だが、この感情は夢ではない。
茉里は、涙を拭いた。
及川は、壮太を救えと言っていた。何から救うのかはわからないが、それは茉里に与えられた使命のようなものなのだろう。
茉里は、自室に戻ると、湖岸の石を確かめた。
「及川さん、私、どこまでできるかわかりません。でも、やってみます」
茉里は、そう言って、悲しみと恐怖の淵の眠りについていった。
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