第5話 純粋じゃない

「ねぇ。わたしの背中、おかしくない?」

「どんな風に?」

「わ、わかんないけど。背中って特に意識したこと無かったから、美脚とかみたいにトレーニングしたことないしっ」

「滑らかでやわらかいけど、それ以上に何か必要?」

「……ないと思う」

 ボッと顔から火が噴きそうになる。これならヤッた方がよっぽど簡単で、背中だけさすられてるのって、相当いやらしい。

 わたしの手とは全然違う、智の男の手が背中を行ったり来たりする。智の唇がわたしを塞ぐ。

 智は平気なのかしら? 入れちゃった方が早くない? 焦らされることがそんなに好きなのかしら?

 ……いけない、人によって性癖は違うもの。それを受け入れてこその彼女、のはず。だけど。

「あの、よかったらなんだけど、背中じゃない部分もどうですか?」

 いつもみたいに、「敬語はいらないですよ」は返ってこなくて、智は少し思案しているようで背中をなぞる手が止まる。

「我慢できなくなるから」

 ……!!!

 だから、だから、だから! 我慢なんていらないから! わたしがいいって言ってるんだもん、我慢はいらないじゃない?

「……もっと、触ってくれるとうれしいんだけど。ダメ?」

 ふう、と明らかなため息が彼の口から漏れる。髪の毛をかきあげられて、額に長いキスをくれる。

 ……だから、だから、だから、お願い、わたしを不安にさせないで……。

「ごめん、上手くホックはめてあげられないから自分でしてもらえる?」

 ああ。

 うなだれる。

 でもガッカリしてることを知られたくない。下を向いて、ブラのホックをしているという顔をする。ガッカリなんて、しない。


 相変わらず智が講義を終えるのを待っている。空は今日も爽やかな秋空で、見上げているとなぜか物悲しい。

 結局、わたしはこのベンチが好きなのかもしれない。翔を待っていたのもこのベンチだったし、智と親しくなるきっかけになったのもこのベンチだ。

「浮かない顔だな」

 当たり前のように現れて、隣に座る。なんて傲慢。この間、あんなことをしておいて、よくもぬけぬけと隣に座れるものだ。

「近寄らないでよっ!」

「嫌われた?」

 翔は自分を指さした。そうよ、嫌いよ。わたしと智の間に、水を差さないで欲しい。

「何を考えてたの? 冴えない顔してた」

「……智のことばっかり。あんたの入る余地はないわよ」

「……まだヤッてないの? 呆れるな」

「呆れることないわよ。智は純粋なの。あんたみたいに穢れてないのよ」

「そう? 童貞だから踏み切れないんじゃなくて?」

 そう来るか。

 その線はわたしも十分、疑っている。そんなの気にしなくていいのに。わたしが上手くどうにかしてあげるのに。

 なのに、経験豊富とか思われるのは心外っていうか……難しい。

「西だと思っていいよ、抱いてやるよ」

「!? 何言ってんの? 散々、人のことヤッといて、今さら智だと思えるわけないじゃない?」

「まだ俺との事、覚えてるんだ?」

「……そんなに簡単に忘れられるわけないじゃない」

 ああ、形勢不利。流されちゃったら楽になる? 翔と別れる前みたいに、智のこと、好きなのになーと思いつつ、抱かれてしまうこともできなくはない。……できなくはない、のかもしれないし、激しく後悔することは免れられない。

「……よしとく」

「よしとくってことは、少しは考えたってことだ」

 え、ちょっと、と声に出す間もなく、学部棟の裏の人気のないところに手を引かれて連れて行かれる。ほんとにもう、どうなってんのよ。内緒話でも……。

「う、ん……」

 前に好きだった男とするキスは、不思議とあまり違和感を感じなかった。舌を絡め取られて声が漏れる。背中から腰に手は回されて、ああ、そう、こんな感じ、というのを思い出す。いやらしい、手つき……。

 じゃなーい!!!

「痛ッ」

「なんでディープキスなんてするのよ! 最低! 言えないことが増えちゃったら、顔向けできなくなっちゃうじゃない!」

「戻ってくればいいじゃん。俺、お前以外にこんなに執着したことないよ。俺が付き合った中で、弓乃が一番の女だよ」

「だって仕方ないじゃない。わたしにとっては智大が一番なんだもん。せっかく手に入れたのに、自分から手を離すわけにはいかないわよ。智のことが好きなの! 抱いてくれなくたって、智は特別なの! あんたはいつも体のことしか考えてないからわかんないかもしれないけど、少なくとも心は繋がってるんだから! 離してよッ!」

 唇を塞がれて、わたしと翔の舌は一枚になってしまったみたいで、噛み切ってやることもできない。頭の中が真っ白になってきて、気がつけばスカートの中に手が滑り込んで。滑り込んで……。

「弓乃だってその気じゃん」

 苦しかった息を継いで、一思いに力いっぱい翔を突き飛ばした。

「バカッ! もう近寄らないで、絶対よ!」

 わたしは夢中で走って、途中でみっともなく滑って転んだ。壁を隔てた向こう側からはガヤガヤと声がたくさん聞こえて、智のところに早く行かなくちゃと思うんだけど、膝が震えて上手く立てない。やだ、やだ、やだ。こんなところで、負けたくない。

 確かに翔と付き合ってた時は、こんな人気のない場所でキスしたりもしちゃってたけど、智はそんな品の悪いことはしない。なのにわたしはこのままではどんどん、智の顔が見られないくらい薄汚れてしまう。

 後ろから、翔が立ち上がる気配がする。

「弓乃、大丈夫……」

「触んないでよ! 触んないで! 嫌なの、やめてほしいの。お願いだから触んないで! 嫌!!!」

「弓乃!」

 地面に座り込んだままのわたしの前に、望んだように現れて、そして一番見られたくないところを見られてしまった。

「智ぉ……」

 わたしの泥だらけの手を気にせず、引き起こしてくれる。抱き寄せられた腕の中は温かい。

「北澤、どういうつもり? 東さんに振られたんじゃないの?」

「お前こそ友だち面して、人の女、盗ったんじゃないのかよ」

「東さんはもう北澤のものじゃないよ」

「わかんないよ。さっきだってキスしただけで感じてたし」

 ……沈黙。

 弁解をしたいけど、体は正直で、そう、智がそんな風にしてくれたらいいのにって思ってたことをされちゃって、わたしはいやらしく感じてしまった。もう、智と一緒にいてはいけない気がする。わたしは智みたいに純粋じゃない。

「行こう」

 智は何も言わなかった。わたしは横顔を見てるしかなかった。わたしの手を引く彼の手は、強引だった。




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