第4話 背中フェチ
智は、思った以上に怒っていた。その様子は静かで、それがかえって怖かった。黙っていても怖いなんて、相当だ。
つまりわたしがトリガーを引いてしまったんだ。引かなくてもいいものを、わざわざ。
「それは合意の上?」
静かな声だった。わたしは裁判所で判決を待つ囚人のような気持ちだった。指先がもじもじしてしまう。
「ううん。もちろんしていいなんて一言もいってないから」
「じゃあ無理やり?」
「……気づいたら?」
執行猶予はありそうもなかった。智の中では、わたしと翔は共犯なんだろう。そう思われても仕方がないことをした。
だって、あんな場所に二人でいたことが間違いだった。わたしと智の思い出の場所に、よりによって。
「弓乃、口紅とれちゃったよ。直してくれば?」
「ごめんなさい……」
今度はハンカチは出てこなかった。わたしはいつもいろんなものを突っ込んであるカバンの中をかき混ぜて、ティッシュの残りを見つけた。
トイレの鏡の前で、そのティッシュで足りる分だけ、思い切り泣いた。涙腺が、人より緩い。
いつもは楽しいはずの駅までの道のりを、激しく後悔しながら歩く。いつもならべったり腕を組んで歩くところだけど、今日は軽く手を繋いで、半歩下がって歩いた。智は口もきかないし、わたしの方を見ようともしなかった。これが悪いことを考えた報いだ。
「うちに来る?」
瞳の奥をのぞき込む。許してもらえたのか確かめるため。確かに智は後悔しているようで、少し安心する。
縦に首を振った。
電車はいつもと同じくガタゴト揺れて、いつも通り窓からは赤く染った空が見えた。心細くなって、少し寄り添う。智がわたしの髪を撫でる。髪がパサついてないか、こんな時でも心配になる。
「イヤだって、もし今度あったら、ちゃんと言って。もしも僕を選んでくれるならだけど」
まだ電車は音を立てて揺れていた。ぐいっと肩を引かれて、ドキッとする。いつもはそんな風に強引な人じゃないから。
電車は智の家のある駅に着いて、わたしたちは吐き出された。夕方のラッシュの人混みの中をまた、手を引かれて歩いていく。
駅から智の家まではそう遠くない。わたしは智に言って、いつものコンビニに寄ってもらった。
「あら、弓乃ちゃん、いらっしゃい」
「お母さん、これ、約束の」
「あら、わざわざいいのよ。それより智、弓乃ちゃん連れて来るなら早く連絡くれれば美味しいもの用意しておくのに」
「お母さん、お気遣いなく」
ゆっくりしていってね、と言われて智の部屋に行く。二人きりになるのが、なぜか怖い。
バタン、と智はドアを閉めた。
「弓乃」
と呼ばれて抱き寄せられてしたキスは、すごくソフトだった。こんな時にも激しく求められたいと思っていた自分に気がつく。自意識過剰もいいとこだ……。
「僕はいつも怖いんだ。君はふわふわしてるから、どこかに行っちゃうんじゃないかと思って」
「どこにも行かないから。智のいる場所が、わたしの帰る場所だから」
「本当にそう思ってるの?」
「思ってる。その、キスされる隙を作っちゃってごめんなさい。あの、その時たまたま智のことで頭がいっぱいで、まさかそんなことになるなんて思わなくて」
「僕のことを考えていて、北澤にキスされたって言うの?」
仕方がない。わたしは言葉よりボディランゲージを選んだ。自分から智の唇を奪って、しつこく奪って、自分で言うのもなんだけど小さい胸に智の手を持って行った。
いつも途中でここまでってことになるので、今日はそうならないように、慎重に、ひとつずつ事を運ぶ。
キスが重なっていく度にわたしの胸を触る智の手がぎこちなく動いて、わたしの気持ちが高まってくる。翔が言ったのは、好きな女は抱きたくなるってこと。女だって好きな男に抱かれたい。それはわたしにとってはごく自然なことだ。
ブラウスの背中に手は回されて、不器用にホックが外された。その時が今日、来るのかもしれない。期待で胸が張り裂けそうだ。ゾクゾクする。
要は悩むことがなくなるくらい、既成事実を作っちゃえばいいんだ。智だってきっと本当はしたいはずだし、そこのところを滞りなくスムーズな流れに持って行ってあげればいいってことでしょう?……いつも失敗に終わるけど。
「こうやって、北澤のことも誘った?」
急に顔を上げた彼が言葉を漏らす。彼の手はまだわたしの素肌の上にある。体温をお互い、直接、感じる。
心臓の鼓動が強く脈打っていることがバレてしまう。そんな風に思ってるんだ、わたしのこと。
何も言わずに智の肩のところによりかかる。そうなのかなぁ、わたしはビッチなのかなぁ。確かにすぐ、抱かれたくなっちゃうし、抱かれていると安心なんだけど。
だってほら、どんな形であれ求められてるって生きていく上で大切なことだし? 体を求められることでも、それは十分に感じられる。何より、智に求められたい。他のどんな女の子よりわたしを求めているんだって、感じたい。
あ……。
「智はわたしが翔と付き合ってた時と同じ気持ちで、智を愛してると思ってるのね?」
「『愛してる』なんて大袈裟な気がするけど、僕は確かに北澤にひどく嫉妬してるし、君を渡したくないと思ってるよ」
「そうなのね……うん、わかった。無理に体で智を縛り付けるようなことはやめる。わたしはただ本当に抱かれたいだけなんだけど、智はもっと純粋にわたしを求めてくれてるんだって、そう思おうと思ってもなかなか難しくて。でも、うん、がんばってみる。プラトニックな恋ってやつ? 心が通じてればきっと、体が繋がってなくても大丈夫だってことよね? うん、理解してる」
「そういうわけでもないんだけどね。北澤と付き合ってる時、『体だけの女になりたくない』って悩んでたでしょう? だから、正直なところ、ある一定のところでストッパーがかかっちゃうのかもしれない。……もう少し、触れててもいいかな? 背中を撫でていたいんだ」
背中フェチなの?
わたしの背中、意識したこと無かったけど、魅力的かしら?
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