第3話 嫉妬されたい気持ち
バラバラと人がたくさん小さな出口からあふれてくる。翔は「またな」と言うと、どこかに去っていった。
不安になる。
それがどんな種類の不安かはわからないけど、とにかく智に会いたいと不安になる。
「東さん」
まるで付き合う前のように、苗字で呼ばれてぴょんとなる。気持ちも体もぴょんとなる。
「ここで待ってたの? 講義は?」
「休講だったの」
「肌寒くなかった? もうここで待ってたらダメだよ。もう少し暖かい場所で待ち合わせしよう。急な休講の時は、スマホで連絡し合えばいいと思うんだ」
こくん、と頷く。智の前ではわたしは飼い犬と同じだ。褒めてもらえるまで素直に待つ。
「さみしかった」
「うん、僕もさみしかったよ。だから本当は、ここで付き合う前みたいに東さんが座ってるのを見て、うれしかったんだよ」
もういても立ってもいられないくらいうれしくなって、智の手をぎゅっと握る。これはもう誰にも渡さない、わたしの特権だ。
あ、でもわたしは今、智の前に出られる立場じゃなかった……。あのバカ男にキスされた穢れた身だ。
智の手を握っていた指先の力が抜ける。
「どうしたの?」
「ううん、なんでも……」
「それならいいけど。お腹空いたとか?」
わたしの目をのぞき込む智の目が、いつも通りやさしくて悲しくなる。心の中が、空の色とシンクロして涙がにじむ。わたしは人より涙腺が緩い。
最初から予定されていた事のように、横からスっとハンカチを渡される。智はわたしの表情の変化を見逃さない。
「何かあった?」
奥歯をぎゅっと噛む。
何をどこまで話したらいいのか。それともそもそも何も話さない方がいいのか。
「あの」
賭けに出る。賽は投げられた。
智は雑踏の中、わたしの声を聞こうと耳を傾ける。
「あの、さっき、翔に会って、ちょっと嫌な気持ちになったって言うか、早く智に会いたくなっちゃったって言うか」
「北澤に会ったの?」
智の目を見たまま、こくこくと、小さく頷く。どんな風に、思ってくれてるの?
「会ったっていうか……その、さっきのベンチで話を」
「ドーナツでも食べに行こうか?」
「?」
「つまり。北澤の話なんか聞きたくないし、僕だって嫉妬くらいするよ。もういいよ、その話は聞きたくないな」
待って、という言葉が漏れるより早く、智はわたしの返事も聞かずに歩き出した。わたしより強い力で、わたしの手をぎゅっと握りしめて。
疑いようもなく、彼はわたしを好きでいてくれている。ああ、よかった。ベッドに誘われないだけで愛情を疑うなんてどうかしてる。もしわたしに魅力がないなら、その日が来るまで自分を磨けばいい。今より、イイ女になるように。
「あのさ」
「うん」
エンゼルクリームを食べているわたしに、ペーパーを渡しながら智は話し始めた。さっきから彼は口数が少ない。今日は彼の大好きなフレンチクルーラーも皿に乗ってない。智はドーナツを頼まなかった。
「あのベンチで、もう僕を待たないでほしいんだ」
「……寒いから? さっきもそれは聞いたよ」
「そうじゃなくて。くだらないと思うかもしれないけど、僕と弓乃が親しくなったきっかけのベンチに北澤と一緒に弓乃が座ってるなんて、想像したくないよ」
「本当に、そう思ってる?」
「だって北澤はまだ弓乃をあきらめてないかもしれないじゃないか」
智が怒ってること、不謹慎だけどうれしくなる。
ふと、口元を拭っていたペーパーを見つめる。そこにはシュガーパウダーとクリームと、目に見えない何かが付いていた。
「やり直さないかって、言われたの。もちろん断ったの。なぜならわたしは智だけが好きだから。でもちょっと悩み事があって、それを少し聞いてもらったの。少しだけだけど。それで、あのね」
「やり直そうって?」
「あ、はい、そう言われて……」
蛇に睨まれたカエルのように動けない。嫌な汗が出てくるような気がする。
やっぱりこのことはバレちゃいけない気がする。どんなに相談したくても、智がいつもどんなに適切にわたしの悩みに答えてくれるとしても、このことは言えない。
指先に残っていたクリームを、無意識にぺろりと舐める。手を洗いに行っておいで、といつもと同じことを、少し苛立った顔をして言われる。
席を立って歩きながら考える。
このまま、嫉妬してもらいたい。
そしてわたしは今、そのための術を持っている。
智の頭の中を、わたしでいっぱいにしてしまいたい――。
洗面台にたどり着く前に、くるりと後ろを向く。智は少し驚いた顔をしていた。なぜならわたしはいつも、智の言いつけを守っていたから。
席について、ペーパーで今度はさっきより丹念に口元と指先を拭う。ついでにブラウスの胸元にこぼれていたシュガーをはたく。その間、彼は何も言わずにわたしを見ていた。
「あの、言いづらかったんだけど」
前にそういった時には、智はわたしに言わなくてもいい権利があると言った。今回は彼は何も言わなくて、じっと、わたしの声を待っているようだった。
「何かあったんだね?」
「どうしてわかるの?」
「わかるよ、好きな人のことだから。背筋が伸びてる時は、何か大切なことがある時だ。……北澤とやり直したいの? 本当のことを言って。本当のことだけを知りたいんだ」
ここへ来て申し訳ない気持ちでいっぱいになってきて、こんな狡いやり方で嫉妬してもらおうと思った浅はかな自分を殴ってやりたくなる。でも状況は、もう戻せそうもなかった。
「翔に、キスされたの。ごめんなさい」
情けなく、最後の方で声が震えた。ただ、もっとわたしを見てほしくて、嫉妬してほしくて言ったはずなのに、ものすごい後悔が渦巻いて、世の中には言わなくてもいいことがあることを知った。
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