第12話 まだ覚えてたの

「帰る」と、脱力したまま彼女は立ち上がった。僕は「送るよ」と言った。彼女は「いいの、頭を冷やしながら帰るから」と答えた。

 弓乃が階段を下りると母さんが、

「弓乃ちゃん、泊まっていっても大丈夫よ。うち、部屋が無駄に余ってるから。智と違う部屋にお布団敷いてあげるわよ」

と本気なのか嘘なのかわからないことを言った。

 そうした方がいいのかもしれない、と彼女を見ると、彼女の目も一瞬迷っていた。

「弓乃の家に問題がなければ、泊まっていったら? 今日はもう遅いし」

「……ううん、お母さん、ありがとうございます。また今度泊まる時にお願いします」

 ぺこり、とお辞儀をして玄関を出た。慌てた僕に母さんは、

「こういう時は送っていくもんでしょ?」

と言って、背中を叩いた。言われなくてもそのつもりだった。


「送らなくていい」

「弓乃のマンションまで送るよ」

「いいの、今日は本当に頭を冷やしたい気分なの。わたしにもそういう真面目な日があるの。反省だってたまにはするんだよ。わたしのこと、嫌な女だと思った?」

 振り向いた彼女の顔は薄暗い夜道のせいでよくわからなかったけど、しゅんとしているに違いないと思った。

 三歩走ってその背中に追いつく。彼女の振り向きざまにその頭をそっと抱える。


「智、わたしにやさしくしなくていいよ。だってわたし、最低だもん。智のこと、信じなかったじゃない。最低! ……わたしなんかにやさしくしなくていいよ」

「東さん。僕はいつも笑顔で、他の人が思いつかないような突拍子のないことを言い出す君が大好きなんだ。その東さんを泣かせてばかりいたら、僕は彼氏失格になっちゃうよ。それとももう失格? もっと笑ってよ。せっかく両想いになれたんでしょう? 僕たちの間に障害はないって、東さんは言ってたじゃないか」

「……バカ。わたしだって、他の誰にもわかんない、わたしの下手くそな日本語をわかってくれる西くんが大好きだよ。西くんを失格にしちゃったら、その次も次の西くんにお願いしなくちゃいけなくなっちゃう。だから、今の西くんでお願いします。ごめんね、感情的になっちゃって。自分でも悪いところだと思ってるの。でもその場になるとがーってなって、あーってなっちゃうの。治るかな?」

「僕の修行不足。東さんをがーっ、とか、あーっ、とかさせないために僕がいるんだけど、東さんをすごく傷つけちゃったよね」

「西くんのせいじゃないよ。……ねえ、自分でもおかしいことなんじゃないかとは思うんだけど、明日、西くんが妙さんに会わなくて済むように、西くんが妙さんに捕まらないようにわたしが直接西くんの家に行ってもいい?」

「いいよ。それからどこかに行ってもいいしね」

「なんか気分が上がってきちゃった。デートかぁ。いいよね、デート。わたしたち、デートらしいデート、してないもんね。行きたいところ、探さなくっちゃ。探してもいい?」

「ご期待に添えるといいんだけどね」

 彼女は久しぶりににこっと、笑った。彼女が笑わない日なんて天変地異が起こっても仕方がないように思えた。天の岩戸の話と一緒だ。つまり、僕にとって東さんは「天照大神」だということだ。すべてを照らす、恵の光だ。


 落ち着かない。

 人を待つというのは、やってみると考えているよりずっと難しい。部屋で待っているのが好ましいんだろうけど、玄関で待ちたい気持ちになったり、本末転倒で僕が駅に迎えに行きたい気持ちになる。あの、コツコツいうサンダルの踵の音を心待ちにしている。


 呼び鈴が鳴って、相手も確認しないで急いでドアを開ける。今日は母さんはいない。ドアを開けるのは僕だ。

「こんにちは」

 そこにいたのは肩までのストレートの髪を一つに結った妙だった。

 僕は玄関から後ろ手にドアを閉めて外に出た。

「どういうつもり?」

「駅で待ってても来ないから。昨日のこともあって心配になって」

「何を?」

「昨日のことがあったから、彼女に言うこと聞くように約束させられちゃって電車の時間、ずらしたとか」


 この子は本当に僕の知っている妙だろうか? 彼女の中で、彼女だけの話ができあがっていく。僕がどんなに抗っても、きっと すべてを彼女の理論の中に丸め込んでしまうつもりだ。

「西くんの家、まだ覚えてたの。足が覚えてたよ。遊びに来たよね、学校帰りに」

「そうだね。だけど悪いけどもう、来て欲しくないんだ」

「どうして?」

「僕には彼女がいるから。君が僕の周りにいたら、彼女はいい思いをしないだろう? 彼女を傷つけたくないんだ。いま一番大切なのは、東さんなんだ。君の入る余地はないんだよ。高校生の時、僕たちが別れてそれでもう全部終わったんだ」

「……」

 妙は唇を噛んで、下を向いた。僕の言葉をよく咀嚼しているようだった。これでわかってくれるだろうと、僕は安堵した。妙は何かを発見したかのように、パッと顔を上げた。

「確かにあの時、わたしたちは別れたけど、もう終わりなのかな? わたしはあの時の情けないわたしとは変わったんだよ? 西くんの気に入らないところは直したの。それで良くない? やり直せない? 四月からは同じ学校に通えるよ、きっと。今度は絶対、合格する自信があるの。西くんが目標だから」

「そういうこととは、違うんだよ。つまり……」

 コツ、コツ、コツ……と規則的な足音が聞こえてそっちに目を向ける。ああ、また東さんを傷つけてしまう。

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