第11話 好きじゃない

 ひっく、ひっくとしゃくり上げながら東さんはトイレから戻ってきた。一度流れたメイクはどうしようもなくて、とりあえず涙は拭いてきたらしい。

「……お泊まり用の化粧品セットっていうのがコンビニで買えるの。別に智以外の人にどんな顔を見られたってかまわないんだけど、やっぱり智のためにいつでもキレイにしておきたいなぁって思うの。メイクがめちゃくちゃになる程、泣いたわたしがバカなんだけど。こんな時間に智のお家に行ったら、お母さん、わたしのこと嫌がるかなぁ?」

「どっちでもいいよ。僕が弓乃を送ってもいいし、家に来てもいいよ。母さんは弓乃を気に入ってるから心配することはないよ。でももしも真っ直ぐ帰るなら、送っていく時は僕にしがみついていれば電車の中でも他人に顔を見られることもないと思うけど」

「……送ってもらって智がまたここに戻ってきたとき、妙さんはここにいない?」

「……わかんないな」

 行こう、と僕から手を引いて近くのコンビニに行った。そこで彼女はいくつかの化粧品を買って、ついでに何か甘いものを買ったようだった。夏の夜はまだ蒸し暑かった。


「ただいま。母さん、弓乃来てるんだけど」

「おじゃまします。……お母さん、洗面所お借りしてもいいですか?」

 母さんは何が起こったのかとリビングから出てきた。

「弓乃ちゃん、どうしたの? 上がって、上がって。智に泣かされた?」

「そういうわけじゃ……」

 女同士で通じることもあるのか、母さんは弓乃を洗面所に連れていった。

「智、女の子を泣かせちゃダメじゃない。理由はどうあれ、泣かせたことが罪なんだからね」

 母さんの手には、弓乃が買ってきたプリンが入った袋がぶら下がっていた。


 居場所がなくて、部屋で一人、弓乃を待つ。人前で泣かせるようなことになって、何も弁解ができない気になる。

 でも多分、弁解しないことこそ不誠実なんだろう。彼女は「本当のこと」を知りたいんだろうから。

「お待たせ……」

 いつもとは違うメイクをした彼女は新鮮だった。どこが、と言われると詳しくないのでわからないけど、わかっていることはいつもより素顔に近いってことだ。

「変な顔してる」

「いや、いつもよりかわいいなと思って」

「いつもはかわいくないってこと?」

「いつもは美人てこと。だから変な男が寄ってくるんだよ」

 ぽっ、と赤くなって弓乃は下を向いた。そのまましばらく下を向いたままで、キレイにペディキュアを塗られた足先がもじもじしていたので、話したいことがあるんだなと思う。


「あのさ」

「うん」

「あの、言いづらくて黙ってたんだけど、ここ数日、毎朝、駅の改札で何故か妙が待ってるんだ。南野さんと待ち合わせしてるんだって言うから何も言えないんだけど、南野さんの姿は見たことないんだ」

「おかしくない? 毎朝、本当は約束でもしてるの? 彼女のLINE、まだ連絡先残ってるの?」

「うん。連絡先は残ってるけど、別れてから一度も連絡したことはないよ」

 沈黙。

 足先のもじもじは、ぶらぶらに変わった。

「妙さんておかしい人? なの? 待ち伏せとか、しかも何日もとか、普通じゃないじゃない? 智にはわたしがいるの知ってて、毎日とかおかしくない? 智はそれで嫌な気がしなくて毎日、彼女に会うのを楽しみに駅に向かってたわけ? どっち? 好きなのはどっち?」

「――弓乃。弓乃はまだ僕を好き?」

「えっと、そりゃ、まだ好き」

「僕もだよ。弓乃以外は考えられないから、信じてほしい。気持ちが揺れたりしないよ」


 弓乃はさも当然というようにこっちを向いて顎を上げた。僕は彼女の化粧を直したばかりの頬に触れてキスをした。彼女は僕の胸にどん、と額をつけた。

「他の女と手を繋ぐ智を見て、頭がおかしくなるかと思った。ああー、翔の言ってたことはこういうことだったんだって、初めてわかった。好きな人が自分じゃない人と手を繋いでるのがどんな気持ちなのか、よくわかった。理由なんてどうでもよくて、手を繋いでるっていう目の前の事実に打ちのめされたって感じ。わたしの知らないところで妙さんと会って、何を話したのかもわかんないなんて」

 まずい、と思ってすぐにティッシュを差し出す。彼女は器用に涙だけ拭き取って、化粧なんて本当はどうでもいいの、と泣いた。


「何を話してたの?」

「それは――妙を好きだった頃の気持ちを思い出してほしいって言われた」

「省略したでしょう?」

「……彼女がいてもいいって言ってた」

 ここへ来て弓乃の怒りはマックスになったらしく、ぴたりと動きが止んだ。

「彼女がいてもって、それ、わたしのことでしょう? 智はわたしがいないところであの子に会うんだ。見えないところで二人で会って何するの? わたしを笑いものにするの? それともわたしとはできない、あんなことやそんなことでもするの? わたしはダメで、あの子ならいいんだ? キスもしちゃってるもんね、続きだって躊躇わずにきっとできるのね?」

「そんなこと、僕は一言もいってないよ」

「だってそうじゃなきゃどうして『嫌だ』って一言ってやらないの? わたしが西くんを好きで強引に誘い続けた時みたいに、西くんがあの子に強引に誘われて『いいよ』って、わたしに言った時みたいにどうして言わないって言えるの? 信じらんない! どうして『嫌だ』って言わないの? たった一言よ? どうして!」


「言ったよ、『好きじゃない』って。まだ疑う?」


 弓乃は口をぽかんと開けて、脱力した。彼女が黙ってしまうと部屋の中の空気は冷房のせいか寒々しかった。その沈黙はしばらく続いた。彼女の静かな呼吸音まで聞こえてきそうだった。

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