第10話 まだ諦めない

 ワンピースの前開きのボタンは外された。

 初めて目にする彼女の胸は真っ白に透き通って、そのやわらかさは生クリームなんかと比べ物にならなかった。彼女が何故いつもクリームを食べたがるのか、なんとなくわかった気がした。それは、彼女の全身が甘いものでできているからだ。

 僕はいつもクリームたっぷりになってしまう、彼女のマネキュアの塗られた指先を口に含んだ。彼女が吐息を漏らすと、それさえもバニラビーンズを思わせた。

 スカートを指先で少しずつ捲れば、この前と同じ、彼女のしっとりした太ももに触れた。磁石でくっついてしまったかのように、肌と指先は離れない。もう、彼女の深い吐息しか聞こえない。

聞こえない……。


 突然、ガタンという音がして、僕たちの間に流れていた何かが途切れる。大きく聞こえたその音は、彼女のお兄さんが部屋を出た音だった。

「ごめん、なんか……」

「何も言わないで。まだ抱きしめていて、このまま。何も言わなくても言いたいことはわかるから、でももうちょっと余韻に浸らせてほしいの」

「ごめん……」

「ううん、わたしこそ、みっともなく感じちゃった。……あー、もう! こんな時にこんなこと言うのって真実味が足りないかもしれないけど! やっぱりわたしに必要なのは西くんだけだよ。愛してるの、すごく、取り返しがつかないくらい」

 彼女は落ち着いていてやさしかった。

 何かのイベントのフラグ立てくらいまでは進んだようでホッとする。そのフラグを回収する時、僕はどうするんだろう? きちんとできるのか、怖気づかないのか、心配になる。

 だけどそれより大切なのは、「二人きり」になることだ。


「ここで『さよなら』?」

「弓乃が送ってくれるのはうれしいけど、そうしたら僕がまた君を送りたくなるから」

 置いていかれた子犬のような目で彼女はじっと僕を見た。僕は彼女の髪を撫でた。

「明日も、会う?」

「会ってくれる?」

「会う、絶対、智がダメだって言っても……。さよならのキス、して?」

「ダメだよ、誰かが見てるよ」

彼女は踵を上げた。

「誰も見てなかったみたいよ?」


 電車に揺られながら、自分のバカなところばかり目につく。反省ばかりだ。まったく思い通りにいかない。東さんといると毎日が特別になっていく……そんな気がした。


「西くん」

 嘘だろう、と思って振り返る。

「どうしてここに?」

「ほら、改札横のカフェで夕方からずっと本を読んでたの。そうだなぁ、二時間くらい熱中しちゃって。カフェって便利だよね、コーヒー一杯で何時間でもいられるから。読み終わったところで顔を上げたら、西くんが見えたの」

 にこっと罪のない笑顔で妙は笑った。その笑顔には当たり前のように、高校時代と同じ無邪気さが含まれていた。

「西くん、せっかくだからそこの新しいカフェに寄っていかない? マフィンの種類多くて美味しいんだって。少し、おしゃべりしない?」

 妙は僕の手を引いた。

 繋がれた僕の手にはまだ東さんの感触が残っていて、そのことに戸惑う。彼女の体に触れた指の感触を忘れたくない。彼女の甘い体を思い出す。

「妙、悪いんだけど放してくれない? 僕は君とはもう手を繋がないんだ」

「どうして? 彼女がいるから? 気にすることないんじゃないかな、見てるわけじゃないし。わたしはそういうのでも平気だよ。二番目でもいいの。西くんと少しでも一緒にいたいの」

「妙は変わったね。どうしちゃったの? 『二番目』なんて不穏当な言葉だと思うよ。僕は君があの頃、本当に好きだったけど、今の君は好きになれない」

「西くんのことを好きだってところは変わってないよ?」

「僕はそういう意味では好きじゃない。とにかくもう帰るし、僕には彼女がいるんだってことをわかって」

「西くんのために勉強がんばってる。勉強した先に西くんがいると思うからがんばれるの。お願いします。わたしをいらないって言わないで」

 妙は小さな手で僕の指を強く握った。妙と付き合っていた日々を思い出させた。頭の中にぐるりと思い出が回る。

 コツン、という音が背中から聞こえた。

「智……スマホ忘れていったから、困るかと思って……。本当だね。自分の彼氏が他の女の子と手を繋いでいるところなんて見たくな……」

 彼女の両目から小さな女の子のようにだらだらと涙が文字通り溢れ出て、彼女はそれを止める術を知らず、ただ泣くしかなかった。

 僕はその涙を止める術を持っていた。

 妙の体を小さく突き飛ばして、彼女の元へ走る。

「やだ。他の女の子と手を繋いだりしたらやだ。弓乃の西くんじゃないの? やっと付き合えたのに!」

「僕は弓乃だけの僕だよ。安心して、よく見て。僕の目を見て、ここにいるから。ほら、手も繋いでる。他の誰のでもなく弓乃のためにある手だよ」

 アイメイクが悲惨に流れた僕の彼女は、僕の目を見て、手を確認して、すごい勢いで胸に飛び込んできた。反動で後ろに倒れそうになる。

「お願い! どこにも行かないで。西くんの手を離したら他にはどこにも行くところはないんだよ?」

「わかってるよ。僕のところが最終目的地点なんでしょう?」

 こくん、と小さく縦に首を振った。

 僕も安心して、ティッシュとハンカチを出す。弓乃は「どこにも行かないでね?」と念を押してトイレに化粧を直しに行った。

 妙は呆然としていた。

 まあ、それはそうだ。彼女は強烈な個性の持ち主だから。普段は太陽のように輝いているけど、時には吹き荒れる嵐になる。

「妙、ごめん。彼女には僕がいないとダメなんだ。もちろん僕にも彼女が必要なんだけど」

「……西くん、変わったね。わたしが成績が落ちて悩んでた時、『がんばれ』って励ましてくれたけど、もっと落ち着いてた。西くんはいつも大人で、落ち着いてた。周りのみんなよりずっと大人びてたのに、あんな人と付き合うの?」

「もし僕が妙の思っているような人間だったとして、それでも東さんといる時の今の自分が好きなんだ。多少振り回されてもいい。彼女のそばにいて彼女と同じものを見たい。きっと極彩色だから」

 よくわからない、と妙はこぼした。

「でもさすがに今日は帰るべきだよね。ごめんね、大騒ぎになっちゃって。でもわたし、まだ、諦めてないから」

 どうしてこうなっちゃうんだろう? ややこしい出来事に目が回りそうになる。

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