第9話 足りない――not enough
積まれた本の中に『Jonathan Livingston Seagull』という本を見つける。例のあの本の原著だということは、僕にもわかった。
「ああ、『かもめのジョナサン』ね。西くんに借りてから面白くてだーっとすぐに読んじゃったんだけど、どうせなら原文を読みたくて。R・バックってアメリカ人じゃない? 作者の本当に言いたいことを知りたかったの。でもね、えーと、英語も読むより、会話の方が得意なんだけども」
「すごいね。僕は英語は苦手なんだよ」
「すごくはないの。ほら、取り柄? 誰にでも一つはあるっていうあれ。小学校に上がるまで親の都合でアメリカにいて、もうほとんど忘れちゃったんだけど、でも英語には親しみがあるって言うか」
そこまでを彼女はすごい早口で言った。
「資格も持ってるの? TOEICとか?」
「まあ一応、英文科だし? 英検とTOEICくらいは。今、通訳案内士の資格、取りたいと思ってるところ。英語力だけじゃ取れない資格だからすっごくがんばらないとダメなの。社会とか歴史とか日本文化とかもー無理! 取れないかも」
「英検は?」
「一級」
「TOEICは?」
「まだ850点。でもね、試験日多いから、まだ十分上がる予定」
……。思わぬ彼女の得意分野にくらくらした。彼女の方が明らかに僕より「できる人」で、今までの彼女の奇行もわかる気がした。得意なことの話をしている彼女はキラキラして見えた。
「本が苦手なんじゃなくて、日本語の本が苦手なんだね?」
「う……まあ、そうと言えばそうかも。日本人なのに変よね」
恥じらう彼女が愛らしく見えた。
「変じゃないよ」
腕を伸ばして抱き寄せて、唇も寄せる。
「なんか、いつもより智、積極的……。ドキドキしちゃう」
「どうして? いつもと変わらないよ」
もう一度キスをする。たっぷり。口の中がもったりした生クリームでいっぱいになるくらい。
はぁっ、と唇が離れた瞬間、二人同時にため息が出る。東さんがぴょんと立ち上がる。
「飲み物! 飲み物なんか持ってくるね!」
パタンというよりバタンッという音を立てて彼女は走っていった。
僕は額に手を当てた。
まいった……。このままじゃどんどん彼女の全部を好きになってしまう。引き返さなくてはならない理由はなかった。でも、どんどん惹かれていくことが怖かった。
「お待たせー」
彼女はアイスコーヒーの入ったグラスを二つ、両手に持ってきた。
「暑いよね、今日。もう少し冷房効かせようか」
そんなことはないけどな、と思いつつ、彼女の動作を見ている。目と目が合って、彼女は下を向く。
「あー、二人きりってやっぱり照れるね」
「僕の部屋に来た時も二人きりじゃない?」
「そうなんだけど……。自分の部屋に智がいるのと、智の部屋にわたしがいるのとは同じようで全然同じじゃないの。智がこの部屋にいることが不思議。なんかうまく説明できないけど」
そっと手を伸ばして彼女の前髪をかきあげて、額にキスをする。彼女はいつも「足りない」顔をしているのに、赤くなって目を合わせようとしない。僕は初めて、彼女の耳の裏の匂いを嗅いだ。
「いやらしいよ?」
「うん、ダメかな?」
「ダメじゃない。けど……智らしくないっていうか……」
彼女が僕の頭を押さえるので、僕は首筋にキスをして、今度は僕が彼女の頭を押さえて深くキスをする。頭の中が痺れて、何も考えられない。
「こんなの初めて……。いつも、こんな風に感じたことないんだけど」
「いつもって、どのいつも?」
「う……ごめんなさい。そういう話はもうしないから……」
初めて触れる女の子の胸は思っていたよりずっとやわらかくて、形なんかないような気がした。形のないものを下着で形作っている、そう感じた。
そのうちその胸そのものよりは遥かに固いはずの下着の上からわかるくらい、何かが手に触れる。
そうして僕は自分のしていたことをハッと思い出して、ごめん、と彼女から離れた。
「……今日こそ、なのかと思っちゃった」
「いや、僕の方が流れに流されそうになって」
彼女の瞳は潤んで、とろんとしていた。片手で反対側のワンピースの肩紐を直した。
「流されちゃってほしい。わたしは
「そんなに煽らないでよ。僕は初めてなんだから。慣れてないんだよ」
「教えればいいの?」
どこか夢見がちな目をして、彼女は言った。その魅惑的な瞳に吸い寄せられそうになる。
「少しずつ覚えるよ。だから待っ……」
不意に唇を塞がれて床に倒される。東さんの体当たりはいつも通り、なんの手加減もなかった。僕は頭を打たないように細心の注意を払った。
僕に跨って、彼女は上にいた。
「待てない。わからないなら教える。女からこんなことするなんてわたしだってどうかと思うけど、いつまで待ってても智が戸惑って進めないって言うなら教えるから早く抱いて」
彼女の剣幕に怯んだ。
どうしたって僕の彼女は魅力的だった。いつものように瞳に生気が宿り、僕の目を真っ直ぐに射抜いた。
「髪を撫でて、口付けをして、胸に触って、お願い。抱かれたいの。おかしい? 女にだって性欲があるし、何より智が欲しいの。おかしい?」
「……おかしくないよ、だから僕にやらせて。さっきの続きをしてもいいなら」
弓乃は僕に抱きついて、僕は上手い具合に横に転がって彼女は僕の下になった。
「上手くいかないかも」
「気にしない」
他の男がどんな風に彼女を抱いたのか知らなかった。だから、思うようにしかできなかった。
もう一度キスをして、してみたかったことをした。彼女の耳元に口をつけてそれを味わい、首筋をなぞった。つまり、僕にはまったく性欲なんかないという顔をしておいて、頭の中で彼女を抱いたことがないとは言えなかった。
本当はずっと彼女が欲しかった。
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