第8話 わたしは日本人なの!
八月の暑さはセミの声もあいまって、頭痛を増長させる。図書館にこもるくらいインドアな僕は、暑さに弱かった。
「西くん」
ああ、と思って振り向くと、駅の改札近くに妙がいた。どうして毎日いるんだろう。彼女には他にすることはないのか? 南野さんには遭遇しないのが不思議だった。或いは、そもそも彼女との約束なんて。
僕はあれからここ数日、駅で妙に遭遇するのが日課になっていた。
「今日もすごく暑いよ。家に帰ったら?」
「家は涼しいけど、一人だからさみしいし。しぃちゃんも、もうすぐ来る予定だから」
すれ違っていた。
歪められた会話が食い違って、言葉がそれぞれ逆のベクトルに流されていく。
「言いたくないんだよ。言わせないでくれない?」
「昔みたいにもう一歩近づいてもいい?」
彼女はずいと言葉通り踏み出して、僕の手を取った。何の感慨もわかなくて、昔の恋なんて過ぎてしまえばそんなものか、と思う。
「変わらない? 昔よりしっかりした気もする。手、よく繋いだよね」
彼女の目は常に後ろ向きだ。僕の時計は常に動き続けている。
確かに、別れた時には後悔もしたし、妙以外の女の子のことを考えられなかった。もしもあのまま付き合い続けていたら、妙もこんなに変わらずにいたんだろうか? ……僕も変わらずに?
「ふふ、また西くんと手を繋げるとは思わなかったな。すごくうれしい」
妙は僕の指を絡めて手を繋ぎ、それをじっと見ていた。
「悪いんだけどもう行かないといけないんだ」
「彼女のところ?」
「聞かなくても知ってるんでしょう?」
「……」
人混みの中だった。ぴったり、妙は僕に抱きついた。僕はすごく驚いたけれど周りの人たちはまるで僕たちがいないかのように歩いていた。
腰に回された手にぎゅっと力がこもって、僕の手は行き場を失う。
「わかっちゃってるよね? 今でも好きなの。ずっと好きなの。行ってほしくない。行かないで」
妙の、肩までの髪を結んだ白いうなじが目に入る。こんなに暑いのに、女の子の匂いがする。
「ごめん」
僕は彼女を一瞬だけ抱くと、彼女の手の弱まったうちにそこから抜け出して大股で改札に向かった。僕の腕の中には、その小さな存在感だけがぎゅっと残った。
しかし、毎日こんな風でいいわけがない。東さんが知ったらまた泣かせてしまうに違いない。あの涙を見ると、普段とのギャップもあってどうしていいのかわからなくなる。
電車に乗ってる間、東さんでいっぱいになる。
そうだ、僕の中は東さんでいっぱいだ。
「でね、今日は智がうちに来ない?」
「え? 前ふりなかったじゃない」
「大丈夫、うちの両親は共働きなの」
ふっふっふ、と彼女は不敵に微笑んだ。口の周りはホイップとシュガーパウダーで真っ白だったが、目力が尋常じゃなかった。
「家には誰もいない。わたしたち二人きり。完璧」
「……うちだって母さんが用事あっていない日も多くない?」
「いいじゃない。たまには家に来なさいよ。彼女の部屋ってその言葉の響きにドキドキしない? ほら、なんか気持ちが高まっちゃっていつもとは違う空気になるかもよ?」
つまりはそういう訳か。
東さんの考えることは単純だ。
正直に言えば、毎日会っている中で「然るべき時」はいつなのかわからなくなっていた。手を繋いでいる時でさえ、彼女の、一度触れた太もものやわらかさをふと思い出して一人で気まずくなる。
言ってしまえば「彼女を抱きたい」し、そういう性的欲求があるのはおかしくないだろう。だって彼女が好きだから。
「ほら、上がっちゃって」
東さんの家は大きなマンションの七階で、高いところがあまり得意ではない僕には少し居心地が悪い気がした。戸惑っていると彼女はささっと上がってスリッパを出てきた。
「おじゃまします」
知らない家は緊張する。誰でもそうだ。東さんでさえ、うちに来た時は緊張していた。
「あ、いらっしゃい」
ひょろっとした男性が奥から顔を出して、東さんが絶叫する。
「何、今日に限って家にいるのよー! 最低! なんで学校に行ってないの?」
「研究室のエアコンが壊れてさ…… 」
「エアコン壊れたくらいで通えなくなるなら、研究なんてやめてしまえばいいじゃない! もう、国公立の設備は壊れやすいのよ。設備費取ってるくせに最低! 部屋でゲームの続きをどーぞ!」
東さんはどんどん歩いていった。以前、話に聞いたお兄さんというのがこの男性だろう。ゆっくりしてって、と小声で囁かれ、軽く頭を下げる。悪い人には見えなかった。
パタン、とドアが閉まる。部屋に二人きりになる。
「最低! 兄貴がいるなんて思わなかった。すっごい大誤算」
「お兄さん、いい人に見えたけど?」
「そう? いつでも数字、数字、数字。『数学は自然と対話するための言語だ』とかなんとか言ってるけど、わたしは日本人なの! 自然じゃない! つまり話が通じないってこと」
「ああ、ごめん……」
ハッとした顔を彼女はした。僕の専攻は理論物理学だった。
「えっと、言い過ぎ。そうなの、数字は自然との共通言語ってことよね。わかってる」
彼女の部屋はキレイに掃除されていたけれど、あちこちに本が積まれていた。……本? 本の苦手な東さんがこんなにたくさんの本を?
よく見ると、その背表紙には英字のものが多かった。
「東さんは英語の本が好きなの?」
「あ、ごめんね。知られたくなかったんだけど……片付けものが苦手なの。できるだけ片付けておいたんだけど、棚に入らなくて」
棚には雑誌や化粧品なんかが無造作に押し込まれていた。
「えーと。言ってなかったけど、わたし、英文科なの」
ちょっと困った顔をして、彼女は俯いた。
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