第7話 努力で我慢
コンビニでアイスを買って、道々、東さんの目の腫れを冷やした。彼女は「冷たい」と言って、冷やしては離し、離しては冷やしていた。僕の家に着くまでに、確実にアイスは溶けそうだった。そして、彼女の口数は少なかった。
「ただいま」
おじゃまします……、という声は小さな呟きでしかなくて、彼女の落ち込みをどうしてあげたらいいのか、迷う。
「弓乃ちゃん、ゆっくりしてって」
と無責任な声がリビングから聞こえる。
「はい、ありがとうございます……」
階段を上る足元がいつも以上に危うい。
「……嫌いになった?」
「なってないよ」
「……。西くんの前に経験済みなのって、嫌だよね?」
「いい気分はしないね」
そうだよね……と東さんはベッドに座って、顔を覆った。
「わたしこそ、取っておけばよかった。どうして流されちゃうんだろう? ねえ、どうしたら付き合わないで済んだんだと思う? 翔も、その前の彼も。わたし、軽い女? ふしだら? すぐにヤれそうなの?」
「……東さんはもてるよね。わかるよ、明るいし、美人だし、性格もサッパリしてる。軽いわけじゃないでしょう? その時、その時の彼が好きだったんじゃない?」
「ねえ、そんなこと言わないで。わたし、よーくわかった。妙さんみたいに一途でいればよかったんだってこと。ふらふらしないで、西くんと出会うのを待てばよかったってこと。それで今みたいに優しく大切にされてたら軽率に流されたりしなくて、自分を大切にできたってこと。……わたし、妙さんに勝てない……」
また妙なことを。
ベッドに突っ伏して声を上げて泣き始めた。
どういう理論でそうなっていくのかまったくわからない。
「東さん!」
混乱している彼女の両手首を握る。彼女は固く目を閉じている。力任せにベッドに押し倒した。ひらり、と落ちる花びらのように彼女は仰向けに倒れた。
やさしくキスをするとようやく目が開いて、僕の目を遠くまで覗き込んだ。
「もっとやさしくして」
両手首をきつく握りしめていた手を離して、僕の大好きな彼女の髪に触れる。キスをしながら髪を撫でると彼女の小さな頭の形がわかる。
そうするのが正しいのかわからなかった。わからないまま、じっと彼女を抱きしめていた。彼女は僕の胸の中で小さくなった。
「あのさ」
「うん」
「こういう流れで抱いちゃうのもアリかもしれないけど」
「うん、わかってるよ。智大はそうしない。わたしが泣いてるから、なんて理由に流されない。それはわたしがどうでもいいからじゃなくて、わたしを大切に思ってくれてるってこと。他の男たちとは違うんだよね」
「……僕は君を抱くのが怖いだけかもしれないよ」
「それでもいいよ。腕の中は心地いいし、この前までは手を繋ぐのも禁止されてたし、何事も性急に事を運べばいいってわけじゃないっていうのもわかった。もし今、怖いと思ってるんだとしても、そう思わなくなる時を待ってる。待てるんだよ、わたしだって。餌を待てない犬と同じくらいに思ってたでしょう?」
「そうだね。待てないのかと思ってた。川に肉を落とすタイプ」
「ひどーい! ちゃんと待てるし」
布越しに当たる彼女のやわらかい胸の感触が僕の平常心をかき乱す。このまま僕のものにできたらなぁと思うけど、それは僕のポリシーに反する。然るべき時に。その時が来たら、自然にそうなるはずだ。
妙の挑発に乗ったりせずに。
「智……?」
最大限の努力だ。これ以上のキスをしたら、何もかもダメになっちゃうギリギリのラインだ。彼女の、あの日、僕のものではなかった二の腕に触れる。二の腕のやわらかさが胸のやわらかさだと言ったのは誰なんだろう?
「バカ!」
枕でいきなり叩かれる。
「もう! 性欲があるのは男だけだと思わないでよ。襲っちゃうから」
「……感じた?」
「感じた。後戻りできなくなっちゃった」
「そういうとこ、東さんは素直でかわいい。はい、これでおしまい。僕としてはこれが最大限の努力で、最大限の我慢だから、しばらく離れてて」
「……努力で我慢?」
「そう」
僕たちはまたベッドの端に並列に座った。彼女はズレたワンピースを調えた。
「今の僕には精一杯だ」
「……。そっか、西くんなりにがんばってくれたってことなのね、弓乃のために」
「それはどうかな。僕がやっぱり臆病なだけかも」
東さんが隣でうずうずしてるのがわかる。パーソナルスペース極狭な彼女は僕に触れたいんだろう。彼女にしてみればいいお預けだ。
自分のしてることが正しいことなのか、まるでわからなくなってくる。
でも自分で一度決めた事だし、然るべき時が来るまでは、彼女の魅力に流されずにいたいと思う。
「ねえ、難しいこと考えてる時の顔してる」
ここ、と東さんは自分の眉間を指さした。
ああ、そこか、と我に返る。
「難しいことを考えてたんだよ」
「弓乃とは逆だよね。わたし、そうだと決めたら何も考えないで突っ走っちゃうし」
「目的地もよく見ないでね」
もう、と東さんは小さく唸った。
「そのうち智大が我慢できなくなるくらい魅力的になって、誘惑してやるんだから」
僕の口は閉じてしまって、しばらく考える。今以上に魅力的な彼女を想像できない。
「誘われたらあっさり陥落しちゃうと思うよ」
「じゃあ少しずつ誘惑するね。わたしが焦らすみたいに少しずつ、魅力的になるから肉食になって」
するり、と僕の腕の中に彼女は戻ってきて、首筋にキスをした。女の子からそんなことをされたことはなくて驚く。
すると彼女は僕の気持ちを察したのか、悪い事を思いついたという顔をして、僕のTシャツの襟を引っ張って痛いくらい肌を強く吸った。
「痛いって」
「ごめん。お風呂に入る時、鏡で見てね」
Tシャツの襟元から見えない位置ギリギリのところ、いや、運が悪ければ見えてしまうところにキスマークがついていた。……恐ろしい。
これが独占欲、という名のものかもしれない。また一つ、かわいいところを見つけた。
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