第4話 ファーストキス

「やっぱり……元カノと遭遇とか、気持ち揺れたりする? 昔のこといーっぱい思い出しちゃったりとか。あんなことしたな、とか、こんなことしたな、とか」

「いや。こんなところで会うと思わなかったから動揺はしたけど」

 そう、といつもは騒がしい僕の彼女は項垂れた。その実、テーブルの下では足が落ち着きなさそうに揺れていた。話したいことがいっぱいある時の証拠だ。

「ただ大人しい感じの人かと思ったけど、わりと積極的じゃない? 西くんの補正がかかってたんだね。やっぱり、元カノって思い出補正かかるんだよね……」

 まるで口に入れたフレンチクルーラーのようにシュンとした東さんは見るに耐えず、僕はおそるおそる、彼女のふんわりした髪に触れた。

 ビクッとして、目を見開いたと思ったら彼女は猛烈な勢いで頭を上げた。

「触った?」

「触った。ダメだった?」

「全然! 全然、ダメじゃない。すごくうれしい。西くんの方からそういう気持ちになってくれると思ってなかったから驚いちゃってごめんなさい。つい、過剰反応しちゃって」

「気にしてないよ」

「本当に?」

「もう一つドーナツ食べる? 買ってこようか?」

「……食べようかな? でも……」

「でも?」

「早くここを出たいの。すぐにでも出たいの。西くんをここに置いておきたくないの。わがままでごめんなさい」

 そんなこと気にすることないよ、と僕は言って、東さんの派手な食べこぼしをペーパーで軽く拭いてからトレイを片付けた。

 東さんは終始、不安そうに僕の腕を離さなかった。

「あのさ、もう一度言っておくけど、僕の好きなのは弓乃だけで、他の誰でもないんだよ」

 彼女は小型犬のように潤んだ大きな瞳で僕の顔を見つめた。しばらくして、こくり、と頷いた。

「このまま二人だけでどこかに行っちゃいたい」

「どこかってどこに?」

「わかんない。最果て。誰も届かないところ」

 最果てと来たか。そんな難しい言葉を彼女に言わせるとは相当のことだ。しかし僕には最果てに当てはまる場所は思い付かなかった。

「じゃあさ、考えたんだけど」

「うん」

 彼女の好きな言葉だ。刺激を常に求めている東さんは、この考えにすぐ飛びつくに違いない。

「僕の部屋に来る? 実家だけど少なくとも冷房は効いてる」

「……いいの?」

「母親がいると思うけど、気にしないでくれるなら」

「お母さんに会っちゃうの?」

「買い物にでも出てくれてたらいいけどね」

 わーお、と彼女はうれしそうに言った。そうしてお土産を買おうと言い出した。

「ドーナツがいいかな? それともアイスとか?」

「さあ、プリンはどうかな? よく食べてるし」

 プリン、プリン、と言いながら店を探す彼女の細い肩がかわいくて、僕はしばらくそれを眺めていた。

「あのね! チョコプリン! ここのプリン、滑らかで美味しいの。お母さん、気に入ってくれるかなぁ」

「きっと気にいると思うよ」

 何しろ彼女を家に連れていくなんてそうそうないことだから。電車はいつも通り迷うことなく、僕たちを家に運んだ。


「ただいま」

 東さんは息をひそめて僕の斜め後方に立っていた。

「母さん? あれ? 本当に買い物かな」

「いらっしゃらない?」

「うん、今のところ」

 まあいいや、とプリンを冷蔵庫にしまって二階の僕の部屋に向かった。東さんは緊張で階段を滑り落ちてきそうだったので、さりげなく僕が後ろから上って行った。

「そこ。その扉だよ」

「いいの? 先に入っちゃって 」

「掃除したばかりだから。昨日、会えなかったから暇で」

 ああ、と彼女は納得したらしくドアノブに手をかけた。ととと、と部屋の中へと戸惑いもなく入っていって、バフっとベッドに飛び込んだ。

「……智大の匂い」

「する?」

「する」

 そういうのははしたないよ、と今更言っても遅い気がして、僕もベッドに腰かける。抗い難い力がどこからか……もしかすると宇宙から湧いてきて、彼女の髪に触る。それまでリラックスしていた彼女の体が硬直する。

「頭は、触られるの嫌い?」

 横に首をふる。

「ずっと東さんの髪に触ってみたかったんだ」

「本当に?」

「本当に。ふわふわしてやわらかそうだなって」

 彼女の肩の力が抜けて、くたっとなる。おしゃべりな東さんを僕は好きだけど、照れて何も言えなくなった東さんもとても魅力的だった。

「西くん……キスして?」

 ああ、確かに今がその時かもと思い至る。二人きりで人目もないし、東さんは大人しいし、何よりムードがいい。彼女は上体を起こして、僕は体を寄せた。緊張が嫌でも高まる。彼女の大きな瞳が瞼で塞がる。

 このまま時間が止まってもいいのに。

 そっと、唇と唇が触れた。ピンクに塗られた彼女の唇の感触はこんなんだったのか?


「ただいまぁ、とも、帰ってるの? あら、お客様? 女の子? やるじゃないの!」


 驚いてお互いパッと離れる。なんなんだうちの母親は。前々からそう思ってたけど、「やるじゃないの」とかおかしくないか?


 ハッとして東さんの顔を見る。

「ごめん、邪魔が入って。嫌な思いさせた?」

「ううん、うちのママに似てる。大丈夫、キスはしたから。確かに触れたし。最初のキスには申し分ないと思うの。まだこれから続きがあると思うとドキドキしちゃうし」

 ドキドキしちゃうし……いや、僕の方こそドキドキして来てしまった。東さんの唇に意識が集中して離れない。嫌がるだろうか?

 母親は暢気に鼻歌を歌いながら買い物してきた物の整理をしているようだ。

「……もう一度、やり直し、いい?」

 瞳は大きく見開かれて、思ってもみなかったことを言われたという顔をしていた。彼女はここへ来てもやっぱり彼女らしく、僕が手を伸ばすより早く僕の顔に自分の顔を寄せてきた。

 最後のところで彼女はぴたりと止まって、僕にチャンスをくれる。

「智、彼女さんは何飲むかしら?」

 母さんの言葉は無視して、今度は彼女の唇を堪能する。彼女の、僕の首に回した手に力が入って、僕の口の中に……。

「智大、返事できないことでもしてんの?」

 彼女のキスはやっぱり超近距離で、僕は完全にヤラれてしまった。

「お邪魔してますー! 今、ご挨拶に伺います」

 彼女の社交スキルに脱帽する。

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