第3話 元に戻るとは限らない

 東さんと過ごす夏休みは退屈知らずだった。

 彼女は執拗に「毎日会おう」と言ってきたけれど、まあ、そういうわけにもいかない日もあり、そんな日は家で本を読んでいてもちっとも中身が頭に入らなかった。

 本を開いたまま脇によけて、うーんと腕を伸ばす。彼女の笑い声を思い出す。

 とは言え、素直に電話をしたりもせず、会う日を結局、僕の方が待ち侘びた。


 大学のある駅のホームの階段を下りると、柱にもたれかかった東さんが見える。彼女はすでに退屈そうだ。

 その瞳は僕の下りている階段に視線がじっと注がれていて、僕の姿が目に入ると人波をかき分けて向かってきた。

「会えた!」

「うん、会えたね」

「さみしかったよ」

「うん、僕もだよ」

 バカみたいなセリフでも、彼女が言うと素直な気持ちに聞こえる。要は、裏表のない人なんだ。

 そしてすぐに手を繋ぐ。彼女は手を繋ぐのが好きだ。何かを手にしていると落ち着くのかもしれない。何しろ風船みたいな人だから。

 ふわふわしている。

 今日もやわらかい茶色の髪が歩く度にふわふわして、どこかに逃げてしまうんじゃないかと焦る。ぎゅっと手を握る。


 それは、例のドーナツ屋での出来事だった。

 僕はフレンチクルーラーとチョコファッション、彼女はフレンチクルーラーとエンゼルクリームを食べていた。

 東さんの口の周りはいつも通りベチャベチャで、子供のようにうれしそうな顔をしてエンゼルクリームを食べていた。

 そうして、指先についたクリームをペロリと舐めた。すべてはいつも通りだった。

 一瞬、目を疑った。

 東さんの向こう側からトレイを持って歩いてくる二人組の女の子のうち、一人は南野さんだった。

「西くん、久しぶり……」

 何となく気まずい顔をして南野さんが挨拶をする。あのひどい別れの時以来だ。僕に顔を見せるのは辛かっただろう。僕も気まずかった。

 東さんはにやりとまた意地悪そうに微笑んで、「南野さん、久しぶり」と言った。他の女の子に対しての東さんの態度は本当にひどい。

 そして南野さんの後ろにそっと立っているのは、見間違えならいいと思ったくらいよく知った女の子だった。どうしてここにいるのか、まるでわからなかった。


 あのころと同じく、小さな彼女にはげっ歯類のようなかわいさがあった。ハムスターや、リスやウサギのような。彼女は南野さんの後ろから、そっと姿を現した。

「……西くん? 本当に、西くんなの?」

 彼女は心の底から驚いた顔をした。一瞬、声が詰まって出なかった。それは僕の中では過去の遺物として処理されていたからだ。

「久しぶり。元気だった?」

 僕は努めて冷静にそう言った。返事の代わりに彼女は小さな顔でにこっと笑った。

「西くん、紹介して」

「ああ、うん。前に話した高校の時の同級生の白石妙しらいしたえさん。今日は二人でどうしたの?」

 僕は南野さんに以前、妙とはもう連絡をとっていないようなことを聞いていた。なのにどうして二人が仲良くドーナツを食べに来ているのか不思議だった。

「しぃちゃんに学校を案内してもらったの」

「へえ……。うちの学校のこと?」

 何を言ったらこの会話がスムーズに流れて、東さんの逆鱗をかわせるのかわからなかった。

 東さんは変に姿勢が良くなり、上品に指先と口元についたシュガーをペーパーで拭き取り始めた。

「わたし、9月末の編入試験を受けるの。もし合格したら今度こそ、同じ学校に通えると思うの」

「そうなんだ。妙は勉強、がんばったんだね。編入って大変じゃないの?」

「全然って見栄をはりたいけど、けっこう大変。受かる自信ないけど受かるといいなぁ」

 気のせいか彼女は頬を上気させてそう言った。

「横入りしてごめんなさい。西くんから前の彼女の妙さんの話は、聞いてます。わたしは今……」

「東さんは僕の彼女なんだ」

 話を被せられた東さんの目が怖い。視線が突き刺さりそうだ。

「そうなんだ、お付き合いしてるんだ。……そっか、そうだよね。考えてみればあれからずいぶん経ったもの。元に戻らない物ってあるよね? バカみたい、わたし。ちょっと勘違いしちゃった」

「ごめん。そういうのは」

「わかってる。西くんが言い出しにくいことを言う時の顔、久しぶりに見ちゃった。難しいこと、考えさせちゃってごめんなさい。じゃあ」


 行こ、と言って妙と南野さんは離れた席に座った。正直、ほっとした。こんなところで妙と再会したってどうしろって言うんだ?

「……なんで?」

「え?」

「ねえ、なんで蔑ろにするの? 二人だけの世界みたいなとこに勝手に行っちゃって、わたしは置いてきぼりじゃない? 西くんは弓乃の彼氏じゃないの? せっかく捕まえたのに」

 上目遣いに僕を見た瞳から、見間違えじゃなければすーっと一雫の涙が落ちた。無かったことには到底できなかった。

 東さんはアイメイクのことなんて忘れて、ごしごし、目をこすった。

「大体何なの? 南野さんといい、妙さんといい、高校生の時の西くんはそんなにモテたっていうわけ? モテモテじゃない? わたしだけにモテればいいと思うんだけど」

「いや、そんなわけでは」

「ない、ない、なーい! 誰かの西くんじゃない! わたしの西くんでしょ? ねえ、そうでしょ? ここでいつもわたしのドーナツ選んでくれるのが、今の、本当の西くんだよね? フレンチクルーラーが好きなのが、本当の西くんだよね? 間違ってる?」

「そうだよ。今の僕は迷わず、東さんが好きなんだよ」

 彼女は顔をくしゃっとさせて笑った。

「チョコファッション、半分ちょうだい」

 僕が手に持ったドーナツを引き寄せて、パクリと食べる。彼女はおそらく、間接キスという言葉を知らない。

「妙さんかぁ、確かにかわいいね。小動物みたい。顔が小さくて黒目がちで」

 東さんは冷静に話そうとしていたが、その手に持たれたエンゼルクリームは、中の生クリームが顔を出してベロベロになっていた。東さんはすべてのことに唇を震わせて悔し泣きをした。

「そんなに泣かないで。僕の残りのチョコファッションとエンゼルクリームは交換しよう? それでほら、口の周り、拭いてあげるから、手は洗いに行ける?」

 亡霊のように顔を上げた東さんは、傷ついた女の子の顔をしていた。ああ、やっちゃったな、と思う。

「弓乃が一番だから」

 そりゃそうだ。友達の彼女を奪ってまで彼女を手に入れたのに、大切に思わないわけがない。今や、毎日に欠かせない人になっている。

「『弓乃』って言った?」

「言ったよ。まずかった?」

「ううん、ちっともまずくない。『弓乃』って呼ばれてうれしい。西くんの……その、智大の彼女って感じがするから」

 そんなことを言い合っている僕らは相当なバカップルで、お互いの顔を見るのも恥ずかしかった。

「手を洗っておいで」

「うん」

 洗面台しか目に入らないという早さで東さんは手を丹念に洗って、僕のところに帰ってきた。

「ちょっと泣いちゃった。涙腺ゆるいだけだからね。普段はそんなに泣いたりしないんだからね」

「涙腺の緩い東さんの、もしもの時のために、いつでもハンカチを用意するよ」

「……そういうところも、大好きです」

 大胆でハチャメチャな東さんの中のどの辺に、こんなにかわいい乙女が生息しているのか、とにかくまいってしまって言葉にならない。

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