第1話 キスしてほしい

 試験が終わると当たり前のように夏休みがやって来て、大学は次第に閑散としていった。

 とは言え、サークルに来る人、宿題のレポートをしに図書館へ来る人、夏季休業中も普通に学校に通う人など、誰かしらがいつもの顔をして歩いていた。

 去年の夏休みもそうだった。

 休みのようで休みではない場所、それが大学だ。

「暑ーい! なんで今年の夏はこんなに暑いのぉ? 西くんだって我慢できないでしょう?」

「僕も暑いよ、涼しい所へ行こう」

「だよね! わたしサーティワンでいい」

「はいはい、サーティワンね」

 そんな話をする僕らはいつものドーナツ屋の手前だ。サーティワンは駅を挟んだ向こう側。つまり、まだ歩くということだ。

 我らがドーナツ屋にも冷たいデザートがあるんだからそれでもいいんじゃないかと思うんだけど、女の子の考えることはわからない。いや、東さんの考えることはわからない。

 そして口では「暑い! 暑い!」と言いながら、なぜか腕はぐるっと僕の腕に巻き付かれている。

「東さん」

「なぁに?」

「腕を組んでもらえてその……とっても光栄なんだけど」

「問題あるかしら?」

 東さんは歩きながら駅までの道にある店を、片っ端から物色している。そういう意味では捕まえておいた方が安全だ。

「あのさ、汗とか気にならない? 僕は気になる……」

「え? やだ? わたし、汗くさい? 一応コロンつけてきたんだけどなぁ」

 急にパッと手が離れて、東さんはオロオロし始めた。そうか、何か普通は嗅がないいい香りがすると思ったらオーデコロン、つけてたのか。リラックスできるいい香りだ。

「違う、違う、僕だよ」

「え? あ、ああ。西くんのこと? そうねぇ……」

 人に匂いを嗅がれるというのはあまりいい気持ちがするものではない。

「大丈夫、気にならないよ。西くんの服の柔軟剤、いい香り。ローズ系だよね」

 わたしもコロン、ローズ系に変えようかなぁと言いながらふらふら歩く。腕を組んでいたなんてなかったかのように、気ままに僕の前を。

 うすい、緋色のワンピースが歩く度にゆらゆら揺れて、金魚の尾のようだ。背鰭の辺りに、彼女の明るい茶色に染めた、ふわっとした髪が揺れる。金魚すくいは苦手だったのにな、とふと思う。

「ねぇ、アイス! どうしよう、着いちゃう!」

「うん、着く前に決める? それとも店先の看板見て決める?」

「そんなの着く前に決まってる! ……ダブルが食べたいんだもの」

 ダブルか。

「あ、トリプルじゃなくてよかったって今、思ってるとこでしょう?」

「東さん、な、何? ……何そんなに顔、赤くしてるの?」

「……西くんの顔が近すぎるから。わたしたち、ファーストキスもまだなのよ」

 ぷいっとそっぽを向いた。

 ファーストキス……しようとすればできるのが、それだ。でも東さんの場合は極端なんだ。あ、今かなと思うと振り向いた時にもう目を瞑っていて「いいわよ」なんて言ったり、今かなと思うと全然違うものに興味を引かれている……。

 まさしく、タイミングが合わないんだ。

 だからって言ってこんな道の真ん中みたいなところでできるほど、上級者ではない。

 二人で俯きがちに手を繋いでベンチに座っていた。

「キスしたい?」

「!!! 西くんの口からそんな言葉が出るとは思わなかった」

 ゲホッ、ゲホゲホッと彼女はあわててむせた。僕とすれば彼女の気持ちをただ知りたかったわけだけど、彼女にはそれ以上の何かがあったのかもしれなかった。

「あの……されたいです。してくれるつもりでいます?」

「いや、東さんからするっていうのもありだよ? 待ってるよりそっちが早いかも」

 きっと僕の目を彼女が睨んで、これは冗談が過ぎたかなと思った。すると東さんの細い手が僕の顔を固定して――!

「ストップ、ストップ! 冗談だよ。こんな真昼間に人前で、最初のキス、したいの?」

「んー、なんでもいい気もする」

「落ちついて。何でもは良くないよ。お願い、僕からさせて。もっとムードのいい時に」

「ほんとに? わたしのこと、ほんとは嫌いだったりしない?」

「嫌いなら付き合わないよ」

「だってわたし、ワガママだから……」

 行こう、と肩に手をポンとやると彼女はピョンと立ち上がった。

「アイス」

「そう、アイス」

「あー、決まってないじゃない……」

「大丈夫、店の前で決めよう。僕がいるからちゃんと食べたいものが決まるよ」

 東さんの目が、僕の目の中をじっと見て、僕を信頼できるか測ってるみたいだった。そのガラス玉のように透き通った無邪気な瞳でじっとみつめられるのは、少し苦手だった。彼女の純粋な部分を凝縮したように見えるからだった。

 手を引こうとすると、彼女から抱きついてきた。

「ドーナツだけじゃなくて、アイスも迷わなくて良くなるなんて。西くんはなくてはならない人よね!」

「そのためだけ?」

「……大好きって大きい声で言っちゃいそうだったの堪えたんだから」

 僕は僕の大好きな人の肩を抱いた。プラトニック好きな僕としてはかなり大胆な行動だったので、彼女の肩はかわいそうなくらい硬直していた。まさに借りてきた猫といった具合に、口を閉じてしまった。

「やっぱり」

「うん」

「……キスしてほしい、かも、です」

 避けて通れないことはわかっていた。パーソナルスペース極狭な彼女がスキンシップ好きであろうことも。でも肩を抱いただけでこんなに硬直しちゃう彼女にキスしても大丈夫なんだろうか?

「今はこれで許して」

 人から見えないように彼女を隠して、頬に小さくキスした。彼女はワンピースの色と同じくらい派手に赤くなって、僕がキスしたところに触れた。

「意外と大胆……」

「ロマンティックなのが好みなんだけど」

「ううん、人波の中で頬にキスされるなんて、なかなかないファーストキスだと思うの!ロマンティックだと思うの!……本物のキスも、今度、お願いします」

「かしこまりました」

 まぁ、なんていうかこういうのは、コメントに困ると言うやつだ。


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