第20話 東から西へ
「東さん、ドーナツでも食べに行こうか?」
「ほんとに? いいの?」
「他のものでもいいよ」
「うーん、でもドーナツが好きなの。今日食べたいのはね……」
「歩きながら聞くよ」
狭い階段を下りて眩しい日差しに照らされる。試験中でも学生の往来は激しい。
「はい」
今日は受け身らしい。嫌とは言えないし、差し出された彼女の手を自分から握る。きゅっと握り返してくる。
「お腹空いちゃったなぁ。三個くらい食べられるかな?」
「いいんじゃない?」
「いいの?」
「好きな物はたくさん食べるといいよ。しあわせになる」
東さんはもう目の前にドーナツが広がっているような気になってしまって、闘志を燃やしていた。僕はといえば、また彼女の健康的な食欲を目にできることがうれしい。小さな女の子のようにドーナツを貪り食べる彼女が愛おしい。
「……やっぱりさ、少しはキレイに食べられるようになる」
「僕は今のままでいいよって言ってるんだからいいじゃないか」
「でも、よく考えたら西くんが恥ずかしい思い、するじゃない? その……彼女の食べ方が汚いと」
「別にいいよ。僕はそんなことにこだわらず美味しそうに食べてくれる顔を見るのがうれしい。どこか汚しても紙ナプキンくらいなら取ってあげられるしね」
ふふふん、と東さんは鼻で笑った。
目には悪戯をする寸前の子供のような悪い光を宿していた。
「やっぱり西くんが一番よね! わたしは正しい! 今日は西くんの好きなくるくる巻いたやつ、食べようっと」
「……フレンチクルーラーね」
「あ、それそれ! あとねぇ、チョコレートにココナッツかかったやつ。あれ、美味しいよねぇ?」
また難易度の高いものを……と苦笑する。逆に言えばあれは誰もがココナッツを振り撒きながら悪戦苦闘して食べる食べ物だから、東さんには向いているかもしれない。口の周りを茶色くして白い粉を撒き散らしながら食べる東さんを想像する。
「あと一つは何にしようかなー?」
「いつものクリームのはいらないの?」
あの、指が真っ白に染まるやつだ。東さんは毎回あれを頼む。よほど好きなんだと思っていた。
「あ、エンゼルクリーム! そうねぇ、それが妥当だよね。……あ、妥当って言葉、嫌い。当たり前ってつまらないもの。あれにしよう! 中身がクリームじゃなくてジャムのやつ」
「いいんじゃない、たまには」
「そうでしょう? いつも通りってつまらないものね」
そう言いながらいつも通り、手を繋いで同じ店に通う。彼女はそれに気づいているのか、気づいていないのか。
「そう言えばねぇ、面白いこと思いついたの!」
くふふっと彼女は笑った。まぁ、たいていろくでもないことに違いない。
「わたしと西くんが結婚したらさ、わたし、『東弓乃』から、『西弓乃』になるの! なんか、大移動じゃない? きっとみんなウケるよね? 突然、結婚しましたハガキ来たら、『西弓乃(旧姓・東)』。わたしだったら絶対、お腹抱えて笑っちゃう!」
「……そうだね」
東さんのことは正直なところ、相当好きだった。旧来の友達を蹴飛ばすくらいには。このことでクラスでの評判が悪くなってもかまわなかった。彼女がいてくれれば退屈しないし、いつでも刺激的だ。
だからと言って交際一日目から「結婚」の話はどうだろう?
……それだけ好きでいてくれてるってことだと信じてもいいんだろうけど、恥ずかしいし、責任も重大だと思う。僕は、彼女の気持ちに応え続けることができるだろうか?
「あー、また何か難しいこと考えてる」
眉間を指でさされる。
「ここんとこ、シワ寄ってるよ」
「……これから食べるドーナツを考えてたんだよ。僕はフレンチクルーラーと、東さんの好きなエンゼルクリームにしようかな。東さんは中身がジャムの方だよね、間違えないようにしないと」
「あ、違っ! 狡い! わたしもクリームにする。やっぱりクリーム、おそろいで!」
「カスタードもあったよね、カスタードにしようかな? どう思う?」
「……カスタードもいいと思う」
東さんは僕を恨めしそうに見て、下唇を噛みしめた。こういうところがかわいいんだ。
「じゃあ、カスタードでおそろいにしようか?」
「うん! そうする」
彼女の足取りが軽くなって、ステップを踏み出しそうだ。薄いピンク色のスカートが風にひらりと舞う。……そうか、東さんは今日から僕の彼女なんだ。確かに僕たちの手は繋がれていて、障害もなくなった。でもなんだか、現実味が薄い。
「ねぇ!」
「どうしたの?」
「智大って、たまには名前で呼んでもいい? 西くんって呼び方もすごく好きなんだけど、名前で呼ぶのって特別感が全然違うじゃない? 南野さんだって名前で呼ぶことはないだろうし、それにベッド……」
「東さん……」
「あ、ごめん、婉曲表現よね? うん、わかってる。わたし、文学部だし。そうそう、『寝る』時に……」
その先は聞かなかったことにしておいた。文学部でこうなんだから、他の学部じゃなかったことを喜ぶべきなのかもしれない。
「ねぇ、もしかして怒ってるの?」
「残念ながらまだ怒るべきことは何も無いね」
「そう、良かった。西くんにまで見捨てられたら行くところなくなっちゃうしね! 大好き、西くん。あ、すごい! 好きって言っても問題ないんだ」
「いや、それは二人の時に……」
「西くん、だーいすき!」
ああ、大きな声で……。彼女を思い通りにすることなんて一生できっこない。僕はきっと、ずっと振り回されてばかりだ。突拍子もない彼女の行動力に。
(第1章 了)
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