第18話 殴ってやればよかったんだ
さっきまで繋いでいた東さんの手の温もりを思い出していた。炎天下、二人の手は汗で湿っていた。その感触を思い出す。
「翔、ひどいじゃない! 手を繋いでたのはわたしと西くんなのに、悪いのは西くんだけなの?」
またよくわからないことを東さんは言い出す。東さんの剣幕に北澤は顔をしかめた。
「じゃあ弓乃が悪いのかよ」
「そうよ、わたしがいつも無理やり西くんの手を繋ぐんだもの」
北澤の手が上がった。
東さんが目をぎゅっと瞑って身構えた。夢中になって叫んだ。
「北澤、僕が悪いんだ。東さんにちょっかい出してたのは僕だよ。東さんは友達として親しくしてくれただけなんだ。誤解しないでくれ。悪いのは僕の方だ」
「……」
北澤は東さんの顔を確認して、それから振り上げていた手を下ろした。北澤の方がほっとして見えた。
「弓乃、かっとしてごめん。怖かったよな?」
「…………。悪いけど、今は翔といたくない。ごめんなさい」
「弓乃!」
北澤は僕を見て、それから何も言わず東さんを追いかけていった。相変わらず東さんの走り方はへなちょこで、どんなに有利な距離にいても北澤に捕まってしまうのは目に見えていた。
東さんに手を上げる北澤を思い出す。彼女は殴られるだろうか――?
いや、そんなことはないだろう。北澤だって傷ついていたから。
迷った。
電車の中で緑色のアイコンを眺めていた。まだ一言もメッセージを送ったことがない、無理に交換させられた連絡先。
『本当に大切な人を見失わないように』
カバンの底には入れっぱなしにされてよれてきた『かもめのジョナサン』が入っていた。読むともなく、ページをめくる。この本を返してきた時の彼女の目の力強さを思い出す。
逃げたっていいじゃないか。男に手を上げられる君を見る方が、よほど辛い。
それからは東さんのことが頭から離れなくて、あのおかしな会話のやり取りのひとつひとつが思い出されて週末にまとめてやるはずだった勉強もほとんど進むことなく、試験期間に入った。
月曜日の一コマは朝イチで必修の英語の試験だった。授業でやったところだったので、ノートも作ってあったしなんとか乗りきった。
二コマも同じような感じで基準点に達しないということはないだろう、という感じだった。
北澤は先週のことは誰にも話さなかったのか、教室で後ろ指を指されるようなことはなかった。僕は多数に好かれたいタイプではないので、どちらでもよかった。が、波風は立たないのが一番いい。
「西くん」
学部を出ると、入口のところで南野さんが待っていた。そう言えば、約束をしたような、いや、しなかったような気がした。
けれど彼女はこうして目の前にいて僕を見ているし、知らないふりをするわけにはいかなかった。
「二コマは取ってないの?」
「西くんに間違いなく会えるように、二コマが終わってからすぐ走っちゃったの。ほら、遠いように見えて、文学部からここまでは一直線だから」
なるほど。少なくとも僕たちが出てきたかどうかを確認しながら走ってこられるということか。南野さんの行動力には驚かされる。それとも女の子というのはみんな、そういうものなんだろうか? 東さんのように。
「食事、行くでしょう? 考えたんだけどこの間みたいなことがあると困るから、ファミレスとかはどう? 学食だと二人で食べてるって雰囲気、出ないし……」
雰囲気?
そんなものが必要なのか?
大切な人となら、どこに行ったって楽しいし、二人の雰囲気なんて考えもしない。一緒にいられることに意味がある。
カッコ良さの欠片もない学食上のコーヒーラウンジだって、一緒に行く人によっては大事な時間を過ごすことができる。
「南野さん、悪いんだけど……」
彼女は往来で泣いた。遠慮容赦なく。僕は彼女を傷つけた男として何人もの人から冷たい視線を浴びせられた。でもそれも仕方のないこととして受け入れることにした。
「諦めきれない。わたしは妙みたいにすぐに諦めない」
「南野さん、いい加減に気がついて。君が恋してるのは、僕自身じゃないよ。妙を通して見た僕に恋をしていて、そして恋というものに憧れてるんだよ。本当の恋というのはもっと」
彼女は僕の目を見て次の言葉を待った。
「本当の恋というのはもっと、胸を焦がすようなものだよ。痛いんだ」
彼女の瞳には「訳がわからない」と書いてあるように見えた。僕だって訳がわからなかった。でも実際に胸はひどく痛かったし、その原因が何なのか、蓋をして見ないふりをするのは難しくなってきた。
右手を見る。
そこには彼女の小さな手が握られているはずだった。僕はそこからいつも逃げていた。
彼女に北澤が手を上げようとした時、僕は北澤をこの手で殴ってやればよかったんだ。
南野さんとはとりあえず別れて、昼食を何かしら食べなければいけないと思った。三コマは講義を取っていなかったけれど、次の時間はもう一つ試験があった。こんなところで項垂れている暇はなかった。
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