第17話 逃げちゃダメだ
「東さん」
階段の上から声をかける。無視されるかもしれない。彼女は僕を臆病な男として軽蔑しているかもしれない。
「西くん、声、大きいよ」
階段を、僕のところまで上ってきて、彼女はそう言って僕の手を取った。
そして、ふふっと笑った。
「西くん、捕獲。ほらね、西くんはわたしを無視したりできないんだよ。西くんも机、片付けて。お茶でもしに行こう」
ああ、やられた……。また彼女のペースに乗せられてしまった。北澤にどう言い訳していいのかわからない。
机の上は何もかも出しっぱなしで、ノートに書かれた文字にいたっては単語の途中で言葉が切れていた。
僕が片付けをしている間、彼女は機嫌良さそうに階段の上で壁にもたれて僕を待っていた。僕を待つ彼女の横顔はいつものように生気に満ちていて、ずっとそれを眺めていたい気持ちになる。
僕の気持ちを読んだのか彼女はまた机に戻ってきて、屈んで、「終わった?」と尋ねた。僕は「もう少しだよ」と答えた。
すべての片付けが終わると、彼女はいつものように僕の手を引いて歩き始めた。彼女のサンダルの音は大人しかった。でも彼女の口元は話したいことでいっぱいだと語っていた。
「よかった」
「何が?」
「西くんが無視したり、怒ったりしないで」
なんとも言えない。そうしようと思えばできたのに、そうしなかった。つまり僕は東さんを選んでしまったんだ。
「……あの子と付き合うことになっちゃった?」
「いや、まだ」
「まだってことは付き合うの?」
「いや、まだ返事はしてないけど……」
不意に彼女は立ち止まった。手を繋がれていた僕も立ち止まる。
「告白されたの? そんなの聞いていない。ひどい」
「ちょっと待ってよ。確かに言ってなかったけど言う暇はなかったし、それに言わなくちゃいけない理由がないよ。ごく個人的なことだ」
「LINEの交換したじゃない! すぐよ、すぐ。『
「だからプライベートなことを報告する義務は……」
「ストップ」
東さんは腕を組んで難しい顔をして考え事を始めた。相変わらず外は暑かった。東さんは暑くないのか、一体ここでどれだけ考えているのだろうかと、心配になった。
「ややこしいのはつまり、わたしが翔の彼女だってことなのよね?」
「そうかもしれないね」
友達の彼女、というのはおいそれと仲良くなっていい関係ではない。
「じゃあさぁ」
ドキッとする。これから東さんが言うことを聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちになる。
「西くん、翔の友達、やめようよ」
「は?」
「だってさ、西くんは翔の彼女だからわたしと仲良くできないんでしょう? 西くんが翔の友達やめれば、なんの遠慮もいらないじゃない」
「それ、東さんの理論でしょう?」
「西くんの理論、つまんないんだもん。『友達は裏切れない、友達は裏切れない、友達は裏切れない……』。どこかのアニメじゃないんだから。『逃げちゃダメだ』!」
そう言って彼女はお腹を抱えて笑った。ああ、もう、黙っていればかわいいのに……。中身と外見がズレてるんだよな、東さんは。ギャップ萌えというのはあるかもしれないけど。
「ファンなの?」
「全然? アニメなんて見る年頃じゃないし。兄貴が好きなの」
「お兄さんいるの?」
「うん、西くんと同じく理系なんだけど、今は院生ですっごく暗いの。彼女いるのかしらねぇ」
東さんより明るい人がいたら驚きなので、たぶん、お兄さんはマトモな人なんだろうと考える。第一、東さんと同じような人がもう一人いると考えるのが怖い。
「まぁ、そんなわけだから翔に遠慮はいらないわよ。ほら、歩いて」
「東さん、北澤がもし他人だとしても、誰かの彼女と親しくしたりできないんじゃないかな? ある種の一線は越えられないよ」
「一線?」
「……手を繋いだり」
僕たちは繋がれているお互いの手に注目した。誰から見てもバッチリ、繋がれている。
「普通、手は彼女と繋ぐものでしょう?」
「友達の彼女は?」
「アウト」
「……じゃあ、どうしろって言うのよ! どうすれば西くんと好きなだけ仲良くしても問題がなくなるわけ?」
「わかってるでしょう? 答えは一つだよ。でも東さんはそれができないから、あれこれ変なことを提案してくるんでしょう? 東さんは北澤が好きなんだよ。例え僕が――」
弓乃! と離れたところから呼ぶ声が聞こえた。東さんと僕は同じタイミングで同じ方向を振り返った。遅かれ早かれ、こういう時が来てもおかしくなかったんだと思った。
北澤だった。
離れたところから走ってくる。
そして僕の手から奪い取るように東さんの手を取った。映画のワンシーンのようだった。
「西! 弓乃とはもうなんでもないって言ったじゃないか! なんでこんなところで手なんか繋いでるんだよ。お前がそんなやつだと思わなかった」
僕はここへ来てぼんやり、何も言えないまま、振り払われた自分の手を見ていた。痛かったはずなのに、その痛みは別のところで走った。
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