第16話 他人行儀

 北澤は風もない中、風切るような爽やかさを残して去っていった。

「南野さん、本心であんなこと言ったの?」

 南野さんはきょとんとした。

 それから自分の言ったことを思い出したらしく、こくり、と首を小さく揺らした。

「……立候補、ダメかな? 東さんみたいにキレイな人がやっぱり好みかな?」

「いや、そうじゃなくて」

「わたしは、西くんがわたしを好きになってくれるといいなぁって思いながら西くんに会ってるの。一回会う毎に少しずつでいいから、わたしを好きに……」

「…………」

 まったく予想の範囲外というわけではなかった。それほど世事に疎いというわけではない。そういうこともあるかな、程度には捉えていた。

「ちょっと僕にはいきなりだったから、少し考えさせてくれる? 月曜日のことも含めて」

「……ダメですか? 妙の時は即OKだったのに、わたしはダメ?」

 じわっと、人の涙が盛り上がる瞬間を見た。何もこんな往来の真ん中じゃなくても、と思って手近なベンチに彼女を座らせる。

「ごめんなさい、涙、勝手に出ちゃって」

 女の子らしく小さく畳んだハンカチで、彼女は目元を押さえた。

 正直、気まずかった。

 何を話すべきか迷った。

「再会したばかりなのに、どうして僕と付き合おうと思うの? 全然知らない男と一緒じゃない?」

「妙とあれだけ西くんの話ばかりしたんだから、知らない人なんかじゃない。わたしはたくさんの西くんを知ってて、その上で今度はわたしを選んでくれたらいいなって思ってるの。おかしい?」

 ちょっと。

 それは君の目で見た僕じゃなく、妙の目に映った僕じゃないか。妙だってほんの数ヶ月付き合っただけで、僕のすべてを知っているわけじゃない。

「南野さんはいつも妙の後ろによくいたよね? その……僕と妙が付き合うのを見てたのに僕と付き合いたいって思うの?」

 彼女はふっと口を噤んだ。

 そうして思い切った顔をして僕の目を覗き込むとこう言った。

「わたし、妙がいつもうらやましかったの。妙みたいに、西くんの隣にいたいって何回も思ったの。あの頃、西くんに自然に笑えなかったのは、西くんが好きだったから、だと思うの……。わたしじゃダメ?」

「ごめん、物事を整理したいので少し考えさせてください」


 南野さんと別れて図書館に行っても、僕の中の問題はこれっぽっちも解決しそうになかった。

 ただ、自分のTo-Doリストの上に来ているのは、レポートとテスト勉強だった。

 また参考図書を借りる。いよいよ試験シーズン本番になり、書架からごっそり参考図書は消えていた。それでも残っていた何冊かを手にして席に戻る。

 ――僕の席の向かいには、東さんが座っていた。

「どうしてここに?」

 彼女は見たこともないような冷静な目をして、僕を見上げた。

「西くんがこの時間に図書館にいないわけがないと思ったの。それで探しに来たの。一階から五階まで、テーブルを見ようと思って、ここで西くんのカバンを見つけたの」

「ああ、そう、カバン」

 とりあえず手に持っていた重い参考図書をテーブルに置いて、椅子に座る。向かい合わせに座った東さんはまだ、僕を鋭く見つめていた。

 僕は何気ない顔をして文房具を出し、ノートや文献のコピーを並べ、勉強を始めた。

 驚いたことに、彼女もテキストを出して勉強を始めた。真面目に、脇目も振らず。

 それは新鮮な姿で、机に向かう彼女は黙っていても充分いつも通り魅力的だった。

 気がつくと彼女は手を止めて僕の目をじっと見ていた。いや、そうじゃない。僕が彼女をずっと見ていた。

「ごめん」

 テキストに気持ちを集中させる。彼女が手を止めて僕を見ている視線を感じる。居心地が悪い。恥ずかしくて逃げ出したくなってくる。

『わたしたちは他人じゃないよ。他人行儀にしないで。悲しくなる』

 すっと差し出された付箋にはそう書かれていた。

 ……他人じゃない。

 そうだろうか? 

 確かに僕たちは北澤の紹介で知り合ったけれど、それで他人じゃないと言いきれるんだろうか? だって東さんはどこまで行っても「北澤の彼女」だ。それなら道で会っても、東さん理論で言うなら「こんにちは。元気? じゃあね」で済んでしまうじゃないか。「北澤の彼女」である東さんより、付き合いたいと言ってくれる南野さんの方が物理的に距離が近い。

 だいたい、どんな顔をしてこれからもよろしくって東さんに言えるんだ? 東さんが枠を飛び越えて僕のところに来るつもりなわけじゃないのに。

『悩ませちゃってごめん。そんな顔しないで』

 すっと二枚目の付箋が渡されて、東さんは出してあった持ち物を片付け始めた。静かに椅子を引いて、黙々と片付けていく。

 そうして、元々大きな瞳を見開いて僕を見た。

 太めの踵がついた白いサンダルがカーペットに大きな音を立てないよう、そっと一歩を踏み出して彼女は去っていく。いつもの彼女とはまったく別人のように、無邪気さを隠した彼女は大人の女性だった。

 僕は椅子が音を立てるのもかまわず、立ち上がった。

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