第14話 彼女ごっこ
「いいよ、リスク。西くんに責任とってもらうし」
「責任なんてとれないよ」
まぁいいから、と強制的にスマホを持たされる。
「ほら、アプリ開いて。もう、面倒だな。はい」
「ゆみの」という名前が表示される。誰が責任をとるんだ?
「考えすぎだよ。みんな気軽にやってるよ」
そう言うと彼女はマフィンの薄紙をぴりぴりと破いて、小さな子供のようにそれにかぶりつくと至福の喜びを表した。
もし東さんが僕の彼女だったらいろんな面で話が簡単になるのに、と考えた自分を否定する。友達の彼女相手にそんなことを思うなんて犯罪だ。
アイスコーヒーを飲みながら東さんの食いっぷりの良さを眺めていた。口の周りはマフィンだらけだった。
「口の周り」
と言って紙ナプキンをもう一枚渡すと、ありがとう、と彼女は罪のない笑顔で笑った。紙ナプキンにはマフィンの屑だけではなく、東さんの塗っているピンクの口紅がついていた。
付き合っているわけでもないのに連絡先を交換した僕たちは、付き合ってるわけでもないのに手を繋いで
もう、どうにでもなれ、という気にはなれなかった。彼女はパーソナルスペースが極狭なんだ。これは不可避な出来事なんだと考えるよう、努めた。
正門をくぐり、学部棟へ向かって歩いてる途中で南野さんにバッタリ出くわす。突然のことに彼女はすごく焦っていた。
「あ……」
目線を追うと、僕と東さんの繋がれた手が目に入った。間違いなく誤解を招いている。
「今日は返事ないなぁと思ってたんだけど、そういうことなら返事しにくかったと思う。ごめんなさい、気がつかなくて。はっきり言ってくれたらよかったのに。勘違い、しかけてたかも」
「違うよ、僕と東さんはそういう、つまり君が誤解するような仲じゃないよ」
意地悪をしているのか、東さんは何も言わなかった。否定も、肯定も。ただじっと南野さんを見ていた。繋がれた手は離されなかった。
「さっきはメッセージ即レス付けられなかったけど、明日のお昼、大丈夫だよ。大体、僕は昼は一人なんだ」
「でも彼女に悪いし」
「わたしのこと?」
東さんは自分を指さして少し大きな声でそう言った。
「わたしなら大丈夫。南野さんとは今のところ何の進展もないって聞いてるし、そもそも西くんの元カノの思い出話はそろそろ終わる頃でしょう? ランチの一回くらいでごたごた言ったりしないから」
「ちょっと東さん!」
「人間、多少の辛抱は必要なの。大丈夫、心配しないで」
こんなに意地の悪い東さんは初めて見た。目付きがいつもと違う。他の、つまり普通の女の子の顔をしていた。
ぷいっと後ろを向くと、「帰るわよ」と一言いった。僕の頭は東さんに今日はついていけなかった。
しばらく無言で歩いた。気がつくと手は離れていた。東さんの小さな手のことを考える。
「……不味かった?」
「まぁ、けっこう。どうしてあんなこと言ったの?」
「あの子と付き合うつもりなの?」
「それは……黙秘」
「わたしと西くんの間柄なのに、水臭い」
水臭いと言われたらそうかもしれない。東さんはあけすけに僕には何でも相談してくれてるし、僕だって妙と南野さんのことを東さんには包み隠さず話してきたのだから。
「思うに。西くんが好きなのは元カノで、南野さんではないのよね? そうでしょう?」
「いや。妙のことはもういいんだ。別れてからずいぶん時間も経ったし、今さらだと思うよ。南野さんのことはわからない。僕にはまったく知らない人と変わらないから」
「まったく知らない人っていうのも、彼女の立場なら泣きたくなるわよね」
「それにしたって、さっきの態度はひどくない? なかったことにしようって思ってるのはバレバレだよ」
「……まぁ、なんて言うか、『彼女ごっこ』? みたいな? 西くんもそんなに怒ってないみたいだし、いいじゃない」
開き直りか? 彼女は手にしていた日傘をパタンと開いた。
「手くらい繋いでもいいじゃない。ヤってる……寝てるわけじゃないんだし。友達だって手くらい繋ぐわよ。彼女のふりだって、かわいい悪戯くらいで許してよ。……わたしは楽しかったし」
はぁーっ、と僕は肩を落とした。
南野さんにまた会う僕の身にもなってほしい。東さんのことをどう弁解したらいいんだろう。弁解……そもそも必要なんだろうか? 南野さんとこの先、付き合う予定はない。それなら別に誤解されたままでもいいのかもしれない。
いや、不味い。
北澤に申し訳が立たない。すごく今さらだけど、明確に区切られているはずの東さんとの仲を元に戻さなくてはならない。
元にってどこまでだ? この人はするりと僕の隣にやって来たのに。
「つまんないこと考えてる?」
くるくるくるっと彼女は小学生がよくやるように、日傘を回した。
「物事はシンプルに、よ」
「もしそうなら、僕と東さんの友人関係は解消しよう。これ以上、物事を複雑にしたくないんだ。北澤の顔がどんどん見られなくなる」
東さんは目を見開いてその場所に止まった。胸の奥でドキンと大きな音がした。
「それってどこから出てきたの? 隠し球ってやつ? せっかく連絡先も交換したのに、知らない人になろうって言うの? ナンセンスだわ。今さらだわ。西くんにはわたしの気持ちはわ……」
「わからないよ。何でも話してくれる東さんの、話してくれない本当のことなんて」
「…………。友達じゃなくなるのね、了解。どうせ暑くなっちゃってあのベンチには座ってられないし、試験が終われば夏休みで二ヶ月まるまる会えないしね。そう、どうせ会えないし。西くんにとってはその程度のことなのかもしれないけど、わたし、西くんと一緒にいてすごく楽しかった。西くんなら本当のわたしを、繕わなくてもわかってくれるんだと思ってたんだ。ドーナツのことだけじゃなくてよ?」
「東さん……」
「彼女のふりしたのは悪かったと思ってる。でもこのままあの子と付き合う西くんは見たくなかったし……いくらわたしでも、二週間ちょっとで西くんをどう思ってるかって、そういう見極めをするにはもう少し一緒にいる時間が」
東さんの目はもう僕なんか見ていなくて、僕のずっと後ろにある木立に向けられていた。相変わらず風ひとつ吹かず、葉擦れを聞くこともない。セミの鳴く声だけが一生懸命、あちこちで響いていた。
「嫌いな人と、手を繋ぐと思う?」
彼女の走り方は決して美しくはなかった。ただがむしゃらに手足を動かすフォームで日傘をよろめかせながら文学部の方向に走っていった。
追いかければ間に合う速さだった。けど、僕はそうしなかった。そうしてはいけないと思ったからだ。
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