第13話 QRコード

 先週のこの時間は空きコマが被ったのに、東さんの姿はどこにも見当たらなかった。刺激的な色のワンピースも、黒い日傘も、欠片も見当たらなかった。殺風景だった。

 僕は気持ちを切り替えてやるべきことをやろうと、図書館に向かった。とりあえず席を取って参考図書を持ってくる。文房具をカバンから取り出そうとして、スマホのランプがチカチカしてるのに気がつく。

『この間は付き合ってくれてありがとう。明日のお昼、先週と同じく学食でどうですか? よかったら待ち合わせは学食前で。お返事待ってます』

 南野さんだ。

 僕はまだ彼女の真意を測りかねている。元々知っていた間柄だとはいえ、彼女自身をよく知っているわけではちっともなかった。僕の知っている彼女は、いつも無言で妙の後ろにいて、口数の少ない女の子だという印象だった。

 しかし先日会った時の印象は、彼女もまた妙によく似た女の子だというものだった。女友達同士、よく似ていたんだろう。

「……何、難しい顔してるの? まだノートもテキストも開いてないじゃない」

「東さん!」

 驚いたあまり、有り得ない声を出してしまい縮こまる。東さんがいたことが衝撃だったが、東さんが図書館にいたことも衝撃だった。

「驚かさないでよ……」

「……だって今日も空きコマ一緒だってわかってたのに約束してなかったじゃない」

「東さんだって、あのベンチにいなかったじゃないか」

「……いい加減、あのベンチ、暑いのよ」

 ああ、確かに。あのベンチは暑すぎる。そもそも、あそこは暑いから北澤を待つときは違うところで待つように言ったのは、誰でもない僕だった。

「ねぇ、スマホ見てたでしょう? やっぱりわたしとも連絡先の交換、しない?」

 前屈みになった東さんの胸元に目線が行ってしまい、ふと視線を逸らせて眼鏡を直すふりをした。

「……外で話そうか」


「ねぇ、西くん、またドーナツ食べに行かない?」

「いいけど、行ったばっかりじゃない?」

「好きなの。翔がいるとこぼれたとかこぼしたとかうるさいから。西くんは何も言わないで変な顔もしないでいてくれるし、オーダーまでカンペキだし」

「……それで今日のオーダーは?」

「ブルーベリーの乗ったマフィンと、この前のクリームの」

 僕は店に着くと、ブルーベリーチーズマフィンとエンゼルクリーム、それから自分用にフレンチクルーラーとチョコリング、アイスコーヒーを二つ頼んだ。

 その間、東さんは大人しく座って待っていた。まるでデートの相手でも待つかのように、頬杖をついてキョロキョロしながら。

「わーお、そう、これが食べたかったの。ありがとう」

 素直な笑顔が彼女の武器だ。まずは砂糖だらけの凶悪なエンゼルクリームに手をつけた。ほんのりピンクのネイルを塗った指で不器用にちぎっては砂糖をこぼす。

「東さん、プレートの上でちぎれば砂糖は撒き散らさないで済むよ」

 彼女は目をぱちくりした。そんなことは考えもしなかったというように。

「西くん、わたし、今日はできるだけキレイに食べるから、できたら褒めてくれる?」

「もちろんだよ」

 フレンチクルーラーは相変わらず柔らかくて、口に入れるとしょぼんとした噛みごたえになった。東さんはこの前と違って、まず姿勢を正して、上品そうに一口分ずつエンゼルクリームをちぎろうと模索していた。

「ねぇ」

「がんばってるとこ」

「この前みたいに美味しそうに食べてよ」

 わかりやすい彼女はぱーっと顔を輝かせて「いいの?」と聞いてきた。

「やっぱり美味しそうに食べてる顔が見たいな」

「いただきます」

 気をつかわず豪快にちぎられたエンゼルクリームからは白い生クリームがはみ出して、彼女の指についた。彼女はそれを躊躇うことなくぺろり、と舐めた。そこには小さな感動があった。飾らない彼女の、健康な食欲がそこにはあった。

「西くんのそれ、分けて。この前も食べてたでしょう? 好きなの?」

「ここのドーナツの中では」

 僕が食べかけのフレンチクルーラーを差し出すと、彼女は僕の手にあるフレンチクルーラーをぱくりと食べた。驚きの連続だった。

「美味しいね、これ。なんかね、くしゃって感じ」

 ここまでダイレクトにかわいい東さんは、どこまで行っても北澤のものであることに変わりはなかった。結局、こんなにも近くにいるのに、地球の果てほども遠い。どこまで行ってもたどり着けない、それが東さんだった。

「あ、そうだ」

 彼女は砂糖だらけの手を服で叩こうとしたので、慌てて紙ナプキンを差し出す。ありがとう、と言って無事に指はきれいになった。

 そしてカバンから出てきたのは当然、東さんのスマホで、ご丁寧にQRコードが既に画面に表示されていた。

「本気なの? これが原因で北澤とは別れることになるかもしれない。そんなリスクを冒す必要はないんじゃないかな」

「……そうかな? わたしの知らない西くんの連絡先をあの子が知ってると思うと悔しい。わたしの方がずっと西くんを知っているのに」

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