第9話 兎の巣穴

 南野さんと僕は想像と違って、比較的スムーズに会話が成立した。文学部の南野さんは、文学部の東さんと違って本が好きだった。『かもめのジョナサン』も彼女は既読だった。

「かもめが飛ぶことに情熱を燃やすってことより、他のかもめが飛ぶことにそれほど熱心じゃなかったことに驚いたの」

「確かにね。彼らは生きていくことに熱心なんだよね」

 そんな感じでテンポよく会話が弾んだ。僕たちの趣味の嗜好はどうやら似ているようだった。

「あの本は読んだ?」

と聞けば、

「あの本、すごく好き」

となる。これが自然な流れだと思うと共に、こんなものなのかな、と手応えのなさを感じる。それはたぶん望みすぎというもので、話の合う人を見つけるのは普通、難しいことだ。

「どこへ行こうか?」

「行きたいところがあるんだけど、ああいうところ、西くんは嫌いかな?」

「どういうところ?」

と言いつつ、たぶん君の好きなところは僕の好きなところと重なるんだろうなと思っていた。

「ケーキと紅茶の美味しい喫茶店なんだけど、ランチやってるの。そういうとこ、大丈夫? あの……、女子率、ちょっと高いんだけど」

「ああ、南野さんが好きならそこへ行こう」

 南野さんの顔には、喜びが見て取れた。とりあえず一つ目の選択肢は間違えなかったようだ。

 そうだ、女の子というのはこういう生き物だ。妙だってそうだった。いつも、少し恥ずかしそうな顔をして意見を述べる。堂々と立ちはだかるように激しい圧をかけてしゃべったりはしない。

「……くん? 西くん?」

「何? どうかした?」

「何か考えごと? 難しい顔してたよ」

 南野さんは自分の眉間を指さしてそう言った。つまり僕はかなり難しい問題を解こうとしていたようだった。考えなければならないことなんてなかった。あるとしたらそれは、メニュー表を見てからだ。

 その店は兎の巣穴のような作りをしていて、お茶を飲みながら本を読むにはちょうど良さそうに見えた。しかし、今はランチの時間帯で、店の外まで待っている人が溢れていた。

「けっこう混んでるね? 他のお店にした方がいいかな?」

「僕は別にかまわないよ、南野さんさえ良ければ。時間はあるんだし、待つのは一向にかまわない」

 狭い店の入口で待っている時、その言葉に彼女は納得した顔で頷いた。

 ランチはオシャレなカフェ飯といった具合だった。パスタAセット、パスタBセット、カレーセット。南野さんは最後までAにするか、Bにするか迷っていた。

 Aは簡単に言うとズッキーニの入ったトマトソースのパスタで、ズッキーニは彼女の好物だった。Bも簡単に言うと貝柱の入った和風パスタで、貝柱は彼女の好物だった。

 結果的に彼女はAを選んだ。僕はそうすべきだと判断してBを選んだ。

 とにかく満席な上に待っている客も減らず、店員は右に左に働いた。「いらっしゃいませ」と「お待ちください」、「お待たせしました」。それらが交互に用いられていた。

 要するに、遠回しに「食べ終わったら出る」的な空気が漂っていて、とてもゆっくり話せる雰囲気ではなかった。僕たちもどちらから言ったというわけではなく、プレートが空になると会計をして店を出た。

「ごめんね」

「何が?」

「こんなつもりじゃなかったんだけど、ゆっくり食事、できなくて」

「南野さんのせいじゃないよ。空いている時間帯なら読書をするのにちょうど良さそうな店だったしね」

 僕はあまり通らない通りを歩くことに興味をそそられていた。知らない店や、知らない看板。知らない家の庭に植えられた知らない花。

「妙が。……妙が、西くんのどこに惹かれていたのかわかるような気がする」

 僕は南野さんの顔に目を向けた。そんなこと、未だに僕にもわからないのに、南野さんにはわかるのか。妙は僕のどこが好きなのか、最後まではっきり言わなかった。

「そうなの?」

「たぶん」

 たぶん。つまりそれは秘密だということだ。答えはわかったけど秘密。そういうこともあるかもしれない。

 妙の話が出てしまうと、僕らの会話は弾まなくなった。やっぱり南野さんと僕が繋がれた二点の間には、どこかに妙の存在が点として記されているようだった。

「妙は元気?」

 この場にはそぐわないだろう質問をした。

「最近は会ってないの」

 確かに僕に妙の話をしづらいだろう。

 僕が今でも妙を好きなのか、それは全然わからなかった。けれど心の中から妙の存在が消えないことも確かだった。一年以上会っていなくても、もし会えたらすぐに妙のイメージが溢れてくるだろう。

 率直に言うと、僕の初恋だった。

「もうすぐ試験が始まるね」

 突拍子もない話題にいきなり飛んで、僕も頭の中をフルスピードで現在いまに戻す。

「そうだね。レポートの課題もけっこう多く出たし、本ばかり読んでいる場合じゃないな」

「わたしも同じ。ゆっくり遊んでられなくなっちゃう」

 うん、と頷いた。

 セミの声が雨のように降り注いだ。

「西くん、たまには息抜きにまたランチ、付き合ってくれる?」

「僕?」

「そう、西くん。高校の時は妙もいて、話しかけられなかったから」

 どこかおかしい。東さんの言葉が頭の中を駆け巡る。もし妙がいなかったら?

「妙がいなかったら知り合うきっかけもなかったんじゃないかな? クラスも離れてたし」

「でも今は偶然とは言え、同じ大学に通ってる。不思議な縁だよね。だからもっと、話したいの」

 昼時の太陽は僕たちの真上にあって、電柱の影は極端に短かった。試験が終わればもう夏休みで、本格的に暑くなる。

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