第8話 東西南北
「それじゃあ、月曜日の三コマならゆっくり話せるね」
スマホに入った自分の時間割を見ながら、彼女は微笑んだ。もうすぐ休み時間は終わろうとしていた。約束を撤回するには今が最後のチャンスだった。
東さんの言う通りだ。おかしいんだ。僕が彼女とゆっくりお茶をする理由がわからない。……東さんとお茶をしてる理由はもっとよくわからない。
女の子が僕の世界を侵食しようとしていた。
「じゃあ、月曜日、お昼に文学部前に迎えに行くよ」
取り返しのつかないことをした気がした。それとも、このままレールに乗ってしまえば、なんてことのない、問題のない未来が待っているんだろうか?
お昼に文学部前……女の子たちが通る中、あの掲示板前に立つ自分を想像する。
妙の顔が目に浮かぶ。
妙は、どこに行ってしまったのか? 南野さんと僕の間には妙がいるはずだ。
「結局、その彼女とゆっくり会うことにしたんだ」
週末を迎える金曜日、コーヒーラウンジで僕は東さんの尋問を受けた。なんでこんなに東さんと二人きりになる機会があるのか、それは神様の悪戯なのか僕にはよくわからなかった。
北澤に顔向けのできないことが増えていく。いや、この間の感じでは東さんは僕と会ったことをいくらかは北澤に話しているようだった。
大丈夫、まだ友達を裏切ってない。
「まぁ、約束だから」
「約束ね……約束か」
東さんの手には文庫本というには厚すぎるドフトエフスキーが乗っていた。S社から出ている分冊にしては厚すぎる、例の文庫だ。
「ところでどうしてドフトエフスキー?」
「西くんにいつ会ってもいいように。いつここに来てもいいように」
「重くないの?」
「……本を読んでるって感じが欲しかったの。西くんだってこれを見れば、今までのわたしとは変わったんだなってすぐわかるでしょう?」
ドフトエフスキーの『罪と罰』は東さんの華奢な手首には重すぎる厚さだった。あんなものを毎日、カバンに入れて歩いていた彼女に畏れ入る。
「ドフトエフスキーはもちろん悪くないと思うけど、本の善し悪しは厚さで決まるわけじゃないよ」
僕は自分のカバンの中に入れっぱなしになってたはずの一冊の本を探すと、彼女に手渡した。
「こういうのはどう? 薄くて、写真も何枚か入ってる。今日みたいに風のある晴れた日に読むにはちょうどいいと思うんだけど」
ドフトエフスキーをテーブルの上に置くと、彼女は僕の手から『かもめのジョナサン』を手に取った。表紙をじっと見て、パラパラとページをめくった。
「面白いの?」
「僕にはすごく面白かったけど、東さんの趣味に合うかはわからないな。僕のお気に入りだけど」
「借りちゃっていいの?」
「かまわないよ」
「ありがとう、読んでみる」
思えば、文学部在籍の東さんが、本当は本が苦手だというのも不思議な話だった。でもそんなギャップが僕には少し、彼女を魅力的に見せているように思えた。
東さんはその場ですぐに『かもめのジョナサン』を読み始めた。それから一言もしゃべらずに……あのおしゃべりな東さんが黙り込んで本のページをめくり始めた。頬杖をついて、東さんのいつになく真剣な顔を見つめていた。
今日ばかりは、僕の方が暇だった。
こうなるように仕向けたのは自分だったのに、なぜか心の中に不満が残った。僕の本が、彼女を独占している。複雑な気持ちだ。
本は東さんが持ち帰った。「重いからあげる」と東さんはドフトエフスキーを置いていった。もしかすると代わりに『かもめのジョナサン』は僕のところに永遠に戻ってこないのかもしれない。
図書館で次に読むべき本を探していると、気がつけば夕暮れになっていた。
週末は借りてきた本を読んでごろごろ過ごした。ドフトエフスキーは机の上に置いたまま。だけど東さん、これは『罪と罰』の上巻だよ。続きがなかった。
今までも思っていたけど文学部は本当に女子が多い。男子ばかりの理学部と反転したように見える。文学部前に立つことは思っていたより恥ずかしかった。
「西くん!」
ギョッとする。
バッと振り返るとそこには東さんがいた。東さんは文学部なのでそこにいたのは当たり前といえば当たり前なんだけども、にこにこした罪のなさそうな笑顔が逆に怖いように思えた。無意味に腕を絡めてくる……。東さんのパーソナルスペースは極狭に違いない。
「本当に来たんだね、根性ある~! ここ、男の子には立ちづらいでしょう?」
そう言った東さんも大胆なエスニック柄のワンピースを着ていて、何か威嚇されているような気分にさせられる。
「西くん?」
「南野さん、待ってたよ」
隣の東さんは笑いをこらえている。こういう時の東さんは本当にどうしようもない。ああ、始まった……。
「……南野さん? ふ、とうとう東西南北全部そろったの? すっごい笑える! おかしくない? ね、西くん、おかしいと思わない?」
東さんはその場でお腹を抱えてけたけた笑い始めた。ツボに入ったらしい。――確かに僕も思っていた。みんなよくある苗字だけど、四人揃って「東西南北」。よくできたものだ。
でも今はそれを笑う時じゃない。
「じゃあね、東さん。南野さん、行こうか?」
「待って!」
東さんはまたしてもナチュラルに僕の腕をつかんで引き止めた。見ようによっては、他の女と去って行く男を引き留める女のようだ。
「西くん、これ。わたし、がんばった」
カタコトの日本語で彼女は話すと、僕に本を手渡した。二度と帰ってこないかもしれないと思ってた『かもめのジョナサン』だった。
「がんばったっていうか、すごく面白くてだーっとあの後、読んじゃったの。翔に、ちょっと夢中になりすぎだって怒られたけどね」
「……北澤に僕に借りたって言ったの?」
「うん。本読んでるなんて珍しいなって言うから、西くんに借りたんだよって言ったよ」
「そしたら?」
「会ってる時まで読むなよってムスッとしちゃって、まぁ、男の人も時々気分にムラがあるしね」
デートの時まで他の男に借りた本を持って行って、黙々と読むなんて東さん以外には有り得ないだろう。
本当にまったく北澤のことを――?
北澤のことを、どう思ってるのか。
東さんは読めない人だ。
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