Chapter 2 Ignite ⑥

 日付が変わった頃。寮の喫煙室。深夜ゆえに誰もいないその部屋で寝巻き代わりのジャージとTシャツ姿の夕夜が大仰そうに備え付けの長椅子に腰を下ろす。

 袖から伸びる上腕には十代の少年とは思えないほどの筋肉が備わっていた。薄着から見え隠れする背筋の隆起は鋼と形容しても過言では無い。

 だがその左腕の肘から先には、先程まで存在していたはずの腕が無かった。

 片手だけでショートホープの箱を振って器用に煙草を一本だけ飛び出させ、それを咥える。ジッポライターで着火すると口腔内に僅かに蜂蜜の香りの混じった紫煙が満ちる。寝ぼけていてもできる一連の所作だ。

 紫煙を口と鼻の中で踊らせ、そして吐き出す。暖色のLED照明に照らされた紫煙が揺れては消えていく。

 空気清浄機が唸りを上げる。無駄な抵抗だ。この美しい国ではいざ知らず、喫煙室では煙草呑みが絶対君主だ。タールとニコチンまみれの喫煙室はこの息苦しい国に残された最後の拠り所だ。紫煙に汚れた空気は、読む必要など無いからだ。

 現在、煙草一箱は九百円程度が平均となっている。高めの銘柄でぎりぎり千円を超えない。夕夜のショートホープは十本入りなので半分の五百円ほどだ。煙草税も行き着く所まで行き着いてしまっていた。消費税とともに社会保障費に宛てると政府はのたまってはいるが、その社会保障費は年々減少しており筋が通っていない。増えた分の税金は一体どこへ消えているのやら。政権の人間と官僚の腹に蓄えられていっていると誰もがわかりきってはいるが、それを誰も言及して証拠として残そうとはしない。そんなことをすればどのような目に遭うかということも分かりきっているからだ。

 夕夜はじくりと鈍い痛みが左腕に生まれたのを感じた。至極面倒くさそうに、自分の左腕を一瞥し右手でさする。肘から先が無く傷跡が広がっている。

 普段の日常生活では島田機械謹製の戦闘用筋電義手(バイオニックアーム)を装着しているが、就寝前にメンテナンスを済ました今は外している。

 その無いはずの下腕が痛む。

 幻肢痛(ファントムペイン)。

 もう慣れたものだ。慣れたからといって気にならないわけではないが。

 お国に言わせれば、カタワになった自分は生産性が低いとされているらしい。おかげで支払う税金は少なくて済む。だが、その度に「お前は貴重な税金を優遇されている。だからもう少し申し訳なさそうに生きろ」と解釈できる意味不明な文面の連絡が寄越される。夕夜からすれば「知るかボケ」という話である。きっと官僚が税金で食う飯には脳機能に障害を引き起こす成分が含まれているのだろう。

 幻肢痛に苛立つ度に嫌でも思い出される。この左腕が使い物にならなくなった日のことを。煙草の煙とともに霧散させたい忌むべき記憶。まだ日曜日の朝に早起きしてヒーロー番組に夢中になっていた頃のことだ。夕夜はいつもブルーかブラックのヒーローが好きだった。

 父と外出していた時のことだった。あの時は確か、ヒーロ番組の劇場版を一緒に見た帰りだったと覚えている。

 帰路の途中で何かのデモ集団と遭遇した。何の反対運動だったかは覚えていない。プラカードを掲げて何かを叫んでいた。その怒声の内容も当時の夕夜には理解はできなかった。

 自分の手を握る父の力が強くなり、歩を早める。あまりこういった光景を息子に見せたくなかったのだろう。二人はその場を足早に去ろうとした。

 その時だった。悲鳴が上がり、車の大きなエンジン音が轟く。デモの集団が歩道を歩いていた夕夜達の方へ逃げ惑い始め、突き飛ばされた夕夜の左手が父の手と離れた。

 強い衝撃と痛みと恐怖。それ以外のことは覚えていない。気がつけば、病院のベッドで左腕の肘から先が無くなっていた。幸い命には別状は無かったが、タイヤに潰された左腕はもう使い物にはならなかったという。その時のことは詳しくは覚えていない。医者が何を言っているのかも理解できなかった。子供なりの防衛本能が働いたのだろう。当時の記憶はどこか他人事のようにぼんやりと薄れている。

 物の分別がつくようになった頃に後で調べたことだが、デモの集団は当時の政府の政策に対する反対デモであったそうだ。そのデモ集団に一台の車が突っ込んできたのだという。

 そしてその後に夕夜を待ち受けていたのは過酷な現実だった。

 学校という場所は同調圧力による鍋のようなもので、子供という者は悪意なく異質な存在を手段を選ばず排除しようとする。片腕が無いという異質さは『いじめ』という言葉のオブラートに包まれた迫害と人格否定の格好の餌食となり、有ろう事か教師までそれに乗じた。元より、教師などという職業に就くような人間は本質的に無責任な連中であり、クラスの結束を固めるというお題目の元、スケープゴートとされた。

 夕夜は日に日に倫理観といったものの類がどろどろと溶け落ちて昏いものに変質していくのを感じた。左腕とともに様々なものを喪っていき、その代わりとして絶望と嫌悪、そして憎悪が自らの中に注がれていった。

 暴力に対するタガが外れたのはその時だった。卓越した身体能力で右腕だけでも小学校高学年で大の大人である教師をも怪我させるほどの大立ち回りを見せられるようになり、中学生になり体つきの大人びてくれば地元の警察官とも顔馴染みになるまでになった。

 母が離婚し父と自分の元を去っていったのは十歳になるかならないかの頃だった。離婚の原因は自分であると当初、夕夜はそう考えていた。申し訳無さにいたたまれなくなった夕夜だが、母が父とは別の場所で男を作っていたと知ると、自分の中を満たしていた絶望と憎悪に新たに諦観をも注がれていった。自分が素行不良になったから母が別の男を作ったのか。それとも母は以前から別に男を作っていて、自分が落ちぶれたことを良い機会として離婚したのか。真相はわからない。親戚筋の話だと以前から別の男の影はあったそうだが、その時には夕夜にとってはもうどちらでも良い話であった。

 それからの夕夜は苛烈になっていった。無い左腕をカバーするために夕夜の身体能力は喧嘩の中で鍛え上げられていった。今の夕夜の苛烈な闘争心と近接格闘の才の基礎はこの時に築き上げられたとも言える。

 自分を侮蔑し仇を為す者には一人残らず暴力で応えてきた。立場や五体満足だからということで強者を自称する連中を暴力で屈服させるのは実に痛快であった。もう自分には切り開ける未来など無いという諦観を奥に秘めてながら。

 そしてあくる日。その日も喧嘩から警察のお世話になっていた。顔馴染みの中年の警官達に「気持ちはわかるがよう……」といい加減な説教をされた後、警察署を後にした夕夜を身元引受人として待っていたのは父ではなく見たことのない矮躯の男だった。

 長い髪を総髪にしたスーツ姿のその男は『羽田司』と名乗った。

 羽田司と名乗った悪魔は夕夜に対し契約を持ち出した。『力がほしいか』『喪った左腕を取り戻したいか』と。

 夕夜は首を縦に振るのに、何ら衒いも逡巡も無かった。

 そうやって、今自分はここにいる。思い返したくない記憶というものは一つ目に入ってしまえば、後はもう芋づる式で勝手に掘り起こされてしまう。霧散していくのは吐き出した紫煙だけだった。

 シマダ武装警備で夕夜を待ち受けていた役割はコンバットコントラクターの他にも、島田機械の新たな製品と期待されている筋電義肢のテスターだった。残った肉体の筋肉の動きから動作を出力する島田機械の義手は自分の思い通りに動き、まさしく喪った左腕が戻ってきたかのような感動を覚えた。

 そして悪魔(メフィストフェレス)は少年に機械の腕を与えた。第二世代型DAEの技術試験も兼ねた戦闘用義手(バイオニックアーム)。様々な武装を内蔵したシマダ武装警備と親会社である島田機械の頭のイカれたエンジニア達の玩具。そして自分はその玩具を試すためのモルモットだ。

 上等だ。あちらは自分をモルモットとし、こちらはその与えられたイカれた玩具を利用する。利害関係の一致というものである。下手な義理だの人情だのという不確定な感情よりも、はっきりしていてわかりやく、むしろ清々しい。

 気がつけば、咥えていたショートホープの灰が長くなり今にも落ちそうだった。夕夜は少し慌てて、その灰を灰皿に落とす。

 こんな世界で煙草を吸わなくてもやっていける人間はどうかしている。皆が皆、人生をやる上で積み重なる苦役に対して決してタフなわけでないだろう。きっと煙草を吸わない奴は不感症(マグロ)かインポ野郎のどちらかに違いない。あるいは極度のマゾヒストだ。可哀想に。煙草を吸いたくなるほどに心を痛めたことがないから他人の痛みがわからない。

 自分の痛みを自覚することができていないから、他人の痛みがわからない。

 かのアドルフ・ヒトラーは嫌煙家で禁煙政策を敷いていたという。なるほど、だから大真面目にあのような歴史的な大偉業を成し遂げることができたのか。つまり禁煙は悪いことだ。

 くたばれファシストども。そんなに煙草をやめさせたいなら、この糞みたいな世界をどうにかしてくれ。もしくは自分より先に世界が滅んでくれ。いつかこの世界が煙草を吸う自由すらも本気で許さなくなったのなら、その日にこそ、この世界をぶっ壊してやろう。そう夕夜は穏やかに決意して、フィルターだけになったショートホープを灰皿に押し付けた。

 紫煙が暖色の照明に照らされ霧散する。だがヤニは壁紙に黄ばんだ染みをへばりつかせている。

 二度と消えることの無い染みだ。

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