Chapter 1 conflagrate ⑤

 父の四九日を迎える頃、美月はは父を失った虚しさと不安の日々を送っていた。父という一家の大黒柱を失い、生活も激変していく中で心身を摩耗させていく中で更に追い打ちをかけるような出来事が襲いかかった。

 虚しさと不安を振り払うように、そして必死で日常を取り戻すかのように学校生活に打ち込んでいた。母が倒れたという知らせを受けたのは、その最中だった。

 学校を途中で抜け出し、病院へ向かう美月。脳裏に浮かぶのは父の最期の姿だった。まさか後追いでは、という考えがよぎり、目尻に涙が浮かび上がる。その涙と不安を払うように、美月は母がいる病院へと全力で駆けて行った。

 幸い、母の容態は命に別状があるものではなかった。心因性の過労。病室のベッドに腰を下ろしている母の姿を見て安堵したが、すぐにその母の様子に愕然とした。

 覇気や精気というものが全く感じられなかった。精根尽き果てた母は、ここで折れてしまっていたようだ。

 母の容態を説明し終えた看護師が病室を去る。母はぽつりぽつりと謝罪の言葉を述べ始めた。「ごめんね。こんな弱いママでごめんね」と。

 どうして母は自分に謝らなければならないのだろう。

 見舞いに来た美月に母は枯れた声で伝えた。

「ママ、ちょっと疲れちゃったみたい。だから、おじいちゃんとおばあちゃんのところで休もうかなって思ってるの」

 それで母が善くなるなら。元の母に戻ることができるなら。母の提案に美月は「いいよ、一人でなんとかやっていけるから」と承諾する。

「美月はどうしたい?」

 母のその問いに、美月は「わからない」としか言えなかった。

 会話で口を開く時以外、ぎりと鳴るほどに美月は奥歯を噛み締めていた。

 どうして、自分達がこんな目に遭わなきゃならないのか。


 母の見舞いが終わり、美月は病院の玄関口から外のベンチに腰掛ける。帰宅する気力が湧かなかった。

 玄関口にある中庭には噴水があり、リラックスできる空間が設けられている。そこでは入院患者と思しき人々が思い思いにくつろいでいた。

 見上げれば、春の突き抜けるような青空が広がっていた。四月の半ばにしては夏を感じさせるほどの心地よい爽やかな陽気だった。

 いつの間に、という言葉が漏れた。今まで季節感を感じるほどに、自分の中に余裕というものがなかったらしい。父の死によって学校行事に顔を出すよ余裕は無く、結局中等部の卒業式まで欠席することとなった。高等部に進学したものの、新しい担任、新しいクラスメイトの記憶が驚くほど残っていない。担任の名前すら把握できていなかった。高校進学という新しい門出も空虚に終わった。

 美月は母の話を反芻する。母は祖父母のいる実家に帰りたいという。もう心は決まっているだろう。これ以上、母にも無理をさせるわけにはいかない。母の望む通りにさせてあげたい。

 自分はどうするべきか。

 何をしたいか。

 そんなことに全く考えが及んでいなかった。

 とりあえず、またいつものように学校に行って、仕事に打ち込めば悲しみは晴れるだろう。

 そこまで考えて、ようやく美月はこれから待ち受ける不透明な自分の未来に目を向けることができた。

 学費は? 生活費は?

 カメラどころの話じゃない。

 母は働けるような状況じゃない。父の生命保険や自分が学徒社員として働いている職場の給料だけで、とてもやっていけるとは思えない。

 これから待ち受ける現実的な問題に目を向け始め、そして気が滅入った。

 どうして父の命に値段がつく。

 どうして、自分がこんな目に遭わなければならないのか。

 どうして泣き寝入りなどしなければならないのか。

 どうして晴らさなければならないような悲しみを背負わなければならないのか。

 そうした悲哀と喪失感と同時に、もう一つの感情も湧き始める。

 どうして父は死した後も、侮辱されなければならないのか。

 納得いかない。ふざけるな……!

 世界は、この国は、最初から父など存在しなかったかのように今日も続いている。父などいなくても問題が無いように世界は回っている。そしてあろうことか、父の死を喜ぶ者までいる。

 先程、母は美月に問うた。「どうしたい?」と。美月は「わからない」と答えた。

 こんな国で、こんな世界で無為に生きていく必要などあるのだろうか。

 閉塞感に満ち、否定される未来しかないこの国で……。

「どうして私はこんなに酷い目に遭ってるのに、空はこんなに青いんだろうとか、そういうこと考えてた?」

 声がした。聞き覚えがある声。耳触りの良い心地よい男の声。ねっとりと空虚な隙間に入り込んできそうな甘い声だった。美月は垂れていた重い頭を、ひどく大仰そうに上げる。眼前には以前、父の葬式の場にいた長髪の男が立っていた。

「それと、もう全部投げ出したいとも思ったでしょ」

 羽田司の姿がそこにはあった。

「やほ。久しぶり。調子は……まぁ見ての通りって感じだね」

「どうして、こんなところに……」

「君に用があってね。学校にいないって言うから、もしかしたらここかなってね」

 どうして母が倒れたことも、母の入院先も知っているのだろうという疑問もあったが、それを気にしても詮無きことだと無視する。もうどうでもいい。

「よっこらしょうういち」

 下らないことを言いながら、羽田は美月の隣に腰を下ろした。

「羽田さん」

「なんだい?」

「パパは……父は殺されたんですね。そして殺したのは我来なんですね?」

 断定とその確認のための問い。

「これを見るといい。今日君に会おうと思ったのは、これを見せるためでもあったんだ」

 そう言って羽田は正答を告げる代わりに美月にひとつのファイルケースを渡す。

 これに父の死の意味が、答えがあるのか。美月は焦るようにそのファイルケースを開く。

 紙面の上に無数に並ぶ文章や数字の詳細な意味はよくわからない。だが時折現れる『ナノマシン』『不正会計』『背任行為』などの不穏な単語が、父がどういう仕事をしていたのかを物語っていた。

 この場に出てくるナノマシンという単語が何を意味するのか、今の美月にも察することはできる。

 過去におぞましい害悪を引き起こし封印された禁忌のテクノロジー。それを今になって再び掘り起こし、利用しようとする者が存在する。父はそのような良からぬ者達を糾弾しようとしたのだ。

 父は正義を為そうとしたのだ。

 だがその最中で父は謀殺された。羽田からの資料はその事実を雄弁に語っていた。

 美月の父、影山総悟は我来臓一による政治資金とニッタミの資産の横領、そこからの医療用ナノマシンの違法運用を前提とした研究の再開を明らかにしようとした。故に我来に謀殺された。

 パパは殺された。正しいことをしようとして、悪い奴らに殺された。

「どうして羽田さんは、わたしにこんなことまでしてくれるのですか」

 父はシマダ武装警備の人間ではない。昔馴染みだったといえど義理人情でここまでのことを行ってくれる人間などいるものではないし、目の前の羽田という男はそのような感情で動くような人間とは到底思えなかった。

「まあ、僕達もニッタミとは敵対関係にあったというものあるけど、君のお父さんは生前、自分になにかあった場合に妻と子を頼むと我々に依頼してきたんだよ。正式な依頼として君と君のお母さんに危険が及ばないようにってね」

 あ、と呼気を漏らすと、我慢しようにもしきれなかった。散々流し尽くしたと思っていた涙が溢れ出る。せめてもの抵抗として両手で顔を覆い、俯くしか他はなかった。

 号哭が空に溶けていく。いつしか病院の庭には美月と羽田以外の人間の姿は消えていた。

 そんな美月の号哭を羽田はその身に染み入れるように耳にした。まるで美しい楽曲に聞き惚れたように。

「君が今抱えている感情は悲しみから怒りに変わった。あるいは憎悪だ」

 そうだ。ようやく理解した。

 葬儀の場で父の死を侮辱された時に血が滲む程に握り込んだ拳。あの時駆られた暴力的な衝動。

 そして、今湧き上がっているこの身を焦がす熱。

「君のその怒りは、何一つ間違ったものではない。君のその憎悪は、君だけが持ち得る価値判断基準からもたらされるものだ。そう。君は悪くない。君のご両親も何も悪いことはしていない」

 だから、と羽田が言葉を続ける。

「だから……だから悪い奴らに食い物にされた。脅威と見なされなかったから、危害を加えられた。反撃される心配が無いから利用されて捨てられた。何も悪くないから、君達は傷つけられた……!」

 要は舐められたのだ。塵芥のように履いて捨てても問題無いと思われたのだ。

「それでも黙ったまま? おとなしく雀の涙くらいしかない生命保険をもらっておくだけ? もったいない。それは実にもったいないよ。君のお父さんを、君の家族を、そして君をこんな酷い目に遭わせた連中が今この瞬間ものうのうとへらへらやっていることに何も思わないのかい?」

 思わないわけがない。

「全部投げ出したいと思った?」

 思ってしまった。

「駄目だ駄目だ。一人の大人として、若い命が無為に終わるというのは看過出来ない。どうせ全てを投げ出そうとするのなら、もうちょっと自分の命を有効に使ってみたいとは思わないかい?」

 できることなら、そうしたいに決まっている。

 そうだ。父は死んだが私はまだ生きている。母はもう折れてしまったが私はまだ動ける。

 この心はまだ殺意と憎悪を抱けるほどに死んではいない。

 この手があの時、血が滲む程に拳を握り込んだのは、力を欲しているからだ。

 この足はまだ敵へと疾駆することができる。

 胸の奥で不完全燃焼を続けている熾火に名が示される。

 怨嗟の熱。復讐の焔。

 その熱に、その熾火に名が告げられると、火勢が増し美月を突き動かす動力源となる。

「名刺はまだ持っているね?」

 言われては財布の中にしまっていた名刺を取り出す。

「君はどうしたい? 人間というものは必ずやりたいことがあるものなんだ。わからないというのは、それに気付いていないだけ。よく考えてごらん。君のその内の熱に問いかけてごらん。答えはその中にある」

 美月はミクスを起動し名刺に記された番号へ電話をかけた。すると目の前の男が手にしている端末に着信した。

 羽田の眼前の中空へ着信を伝えるウィンドウが飛び出ると、男は通話と表示されたアイコンに手を触れた。

「だから、これで契約成立だ」

 今の所はまだ仮のものだけどね、とはにかむように付け足す。

 美月がベンチから立ち上がる。溢れ出た涙を強く拭い、充血したその目を羽田に向ける。まるで焔のように紅く染まった目を。

「羽田さん」

 美月の語気は鋭かった。

「わたしを、利用するんですね」

 この男は先程、シマダ武装警備とニッタミは敵対していると言っていた。そしてシマダ武装警備は戦闘企業だ。羽田の狙いは透けて見えていた。

 羽田はその言葉に、にんまりと表情をほころばせる。悪魔(メフィストフェレス)の笑みだ。

 美月はその笑みを肯定と受け取った。

「もう既に十分身に沁みていると思うけど、この世界に、こんな国に救いなんかありはしない。この世に正義など何一つ無く、正義だとされるものは全て愚かな思い込みや暇人の妄想、あるいは悪党の肥大したエゴを美辞麗句で着飾ったもの過ぎない。悪を討つのは決して正義とかいう腐れた思想なんかじゃないし、悪が正義を騙り弱者をなぶっている始末だ」

「そんな正義や義憤なんてものはコミュニティやSNSなんかからの借り物の価値判断基準でしかない。受け売りの正義。借り物の憎しみ。そんな中身の無い下らないものが、君の大切な世界を壊してしまった。でも君は違う。君のその怒りと憎しみは、決して誰かの借り物の感情なんかじゃない。正真正銘、君だけのオリジナルの憎悪だ」

 まるで舞台俳優かのように、大仰に声を張り上げる。

「我来臓一という悪を討ちたいかい? その力が欲しいかい? 影山美月」

 羽田が問う。

 美月の瞳は既に少女のそれではなかった。少女がしてよい目ではなくなっていた。羽田はその目で肯定と受け取る。

 ならば、と彼は言葉を続ける。

「ならば悪に堕ちよう。僕らとともに。戦え、影山美月。君がその気なら、僕は君にその力を授けよう」

 わかっている。この男の言葉は悪魔の甘言だ。代償を強いる契約だ。

 それでも美月にとっては、羽田の言葉は天啓だった。悲しみにくれてばかりよりマシな明日を指し示していた。

 泣いて縋って、どれほど祈ったって、神様とやらは我来に天罰を下してくれないだろう。信じる者は救われない。ただ足元を掬われるだけ。

 この国の正義とやらは我来を裁かないだろう。それどころか、この国は被害者を責め立てる。現実、今の自分と母は針のむしろに座らせられる。

 しかし美月の嘆きを、慟哭を、憤怒を、悪魔だけが聞き入れていた。慈悲を以て受け入れていた。

 例えその慈悲が偽りだったとしても。例えこの羽田という男が自分を利用したいだけだったとしても。

「どうか、よろしくお願いします」

 美月は頭を下げようとした。羽田は首を横に振ってやめさせる。

「僕、そういうの柄じゃないから」

 その代わりに右手を差し出した。美月もその手を握り返す。途端、驚きと怖気が彼女を貫いた。

 葬儀の場で出会った久槻と比べると、羽田はあまりにも矮躯だった。正直な感想を言えば久槻の取り巻きとも思えた。だが彼の手に触れた途端、その認識を改めた。羽田の手は硬く荒れ果てていた。おそらく長い間、武器を握りしめ続けていた手だ。この男は後ろでふんぞり返っているだけではないようだ。

 世界が我来を肯定している。この国が我来の存在を是としている。国会議員ということだけで、政権に関わる者というだけで、大企業の長というだけで、権力者だからというだけで、この国の正義とやらは我来を、悪を裁かない。

 だから、美月は悪魔と手を取った。

 だから、美月は悪魔に魂を売った。

 だから、美月はこの国の正義とやらに背くことにした。

 だから、美月はこの国に敵意を向けることにした。

 これから支払わされる代償がどのようなものであったとしても、彼女は復讐を願った。復讐を成し遂げるための力を欲した。

 美月はジャーナリストになりたかった。短絡的な考えで未来を食いつぶす老人達を、子供に労働を強いる腐ったこの国の現状を糾弾したいと考えていた。それは国粋主義に成り果てたこの国においては、国家に対して弓を引くことと同じだ。

 ならば傭兵になってもやることは変わらないだろう。手にするものがペンから銃に変わっただけだ。大して変わりはしない。

 何も変わらない。ジャーナリストとして不正を明らかにするのも、傭兵として銃を撃つことも、この国においては何も差異など無い。

「僕、焔のついた若い子は大好きだよ」

 悪魔(メフィストフェレス)は笑う。まるで神仏が総てを赦すかのような優しい微笑みで笑う。哂う。嘲笑う。

 空はいつの間にか黄昏時の色を成していた。

 落日が訪れる。

 もう彼女自身に夜明けなど訪れない。影山美月という少女はこの時死んだ。

 西日が美月を突き刺す。

 彼女から伸びる長い影は、もう少女のそれではなくなっていた。

 ただ一匹の修羅の姿がそこにはあった。

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