第12話 寂しい椅子

(何で、君がここにいる?)

 才谷とともに地下のオーナー室から店に駆け上がって、最初に目に飛び込んできたのは、なんと川島夏希だった。どうやって紛れ込んだのか。夏希が、二人の男性に両肩を掴まれ、取り押えられている。

「海斗」上目遣いに僕を睨みつけ、少し笑ったような気がした。「あなたのせいだからね、反省してね」

 これで、周囲の目から、僕と川島夏希がただならぬ関係であることは一目瞭然だった。つまり僕は、なすすべもなく夏希にめられた。

 夏希が連れて行かれ、向こうに人だかりがしている。

「三崎っ!」才谷が叫んだ。

 人だかりが、才谷のために割れた。そこに舞花が仰向けに倒れていた。左手と左腰の辺りから血が流れていて、意識がないようだ。傍らに小振りなナイフが落ちている。

「舞花!」僕も絶叫した。一瞬で、何が起きたかを察した。しかしそれは現実として受け止め難い出来事だった。

 駆け寄ろうとした僕に、才谷が血相を変えて叫んだ。

「その男は、さっきの女の仲間だ。つまみ出せ!」

 僕も数人の男に取り押えられた。その後は、よく覚えていない。気がついたら、警察で事情聴取を受けていた。僕はこれまでのありのままを話した。それしかなかった。というか、まるで思考能力がなかった気がする。

 舞花のことがどうしようもなく心配だったが、命に別条がないことは知らされたものの、舞花が運ばれた病院はもちろん教えてもらえず、深夜に解放されて、ただ、途方にくれた。

 雨が降り出していた。濡れるに任せて街を彷徨い、どこをどう彷徨ったか、ずぶ濡れで朝方には部屋に帰り着いていた。何も考えられず、全てを放り出して、泥のように眠った。


 目を覚ますと、もう午後だった。幸い、日曜日だ。携帯を見たが、舞花から何も入っていない。まだ目覚めていないんだろうか。またむくむくと心配が湧き上がる。今この状況で、頼れる味方は一人しかいない。僕は舞花の弟、賢太郎に電話した。

「もしもし、海斗です。賢太郎くんか」

「今はまずい。掛け直します」そう言ってすぐに電話は切れた。

 30分ほどして、賢太郎から電話が掛かってきた。

「兄貴、一体昨日、何があったんだよ。俺は今まで、入院した姉貴に付き添ってたんだ。あれだけ楽しみにしていた新しい店のオープンの直前、しかもプレオープンイベントで、姉貴は刺された。兄貴もいたんだよな」

「ああ、いた」

「全く、兄貴がいて何でこんなことに。しかも、犯人の女は兄貴の知り合いって話じゃないか」

「その通りだ」

「姉貴の周りは、才谷社長の手の者で固められてる。まるで兄貴が犯人に加担していたかのように言われてる。それに、うちの親父も取り乱している。兄貴のこと、許さないってさ」

「これまでの賢太郎くんの仲裁も台無しになっちゃったな。申し訳ない。舞花の容態はどうなんだ?大丈夫なのか?」

「前から襲ってきたおかげで、咄嗟に防御して怪我は大したことない。意識は戻ったよ。ただ…」

「ただ?」

「ナイフを避けながら倒れた時、頭を強く打って、そのせいで記憶喪失みたいなんだ。家族のことも兄貴のことも、姉貴は一切、覚えていない」

 血の気が失せた。

 記憶喪失…なんて、残酷な。舞花にとって、全ての記憶が、歴史が消されてしまったと言うのか。僕との記憶も、全て。

「兄貴、聞こえてるかい?一時的なものかも知れないって、医者も言ってる。あまり思いつめないでよ。今は姉貴は才谷社長に囚われているようなもんだ。才谷の手の者ががっちり周りを固めてる。うちの親父のことあるし、マスコミも兄貴のことを待ち構えている。今は我慢して欲しい。また、僕から連絡する」賢太郎は電話を切った。入院している病院さえ、聞かなかった。いや、あえて言わなかったのだろう。


 僕は、何もできない自分を呪った。舞花のことが心配でたまらないのに、何もできない。

 いや、それどころか、川島夏希と舞花に接点を持たせたのは、他ならぬ僕だ。夏希の舞花への逆恨みも、僕が原因だ。僕がいい加減な気持ちで夏希と関係を持たなければ、こんなことにはならなかった。

 できれば死んでしまいたいとすら思ったが、それは逃げだ。死んでも何の解決にもならない。かえって記憶を取り戻した時に、舞花を苦しめるだけだろう。では、舞花のために僕に何ができるんだろう。

 才谷は舞花をどうするつもりだろう。舞花の保護者を気取り、既成事実を積み重ね、いずれ彼女を自分のものにするつもりなんだろう。奴の本性は昨日、しっかりこの眼で見た。

 それは彼女にとって、いいことなのか。記憶が戻らなければ、それで幸せなのか。記憶が戻った時にはどうなるのか。

 僕は舞花にいつ会うべきか。または、記憶が戻らない以上、会いに行くべきではないのか。

 様々な想念が頭を駆け巡り、整理がつかなかった。もし整理がついたとしても、僕に出来ることは今は何ひとつない。


 それから、毎日が重苦しかった。仕事の時間はまだいいが、仕事以外はなすすべもなく、舞花のことばかり考える。後悔はもう何百回もした。後悔したから何かが変わるというわけでもない。賢太郎はまだ病院を教えないし、僕も聞けない。賢太郎の苦渋も分かっている。でも舞花が、どれほど不安な気持ちでいるのか、どれほど孤独か、それを思うと息苦しくなる。ベッドにぼうっと座り、表情を失ってしまった舞花が…何度も想像するうち、僕の脳裏に棲みついてしまった。


 マスコミは、何度も自宅や、会社にまで押しかけてきた。会社では業務に差し支えるからと、断るが、それでも待ち伏せして、他の社員にインタビューしたりしている。

 僕は、欠勤扱いで構わないので、1ヶ月ほど休ませてくれ、と社長に申し出て、了承された。中小企業ゆえに、会社にかける迷惑も計り知れない。社員達や取引先の目も冷たい。果たしてどれほどの悪を、僕は働いたというのだろう。


『サジタリアス』は、九月二十七日に予定通り、オーブンした。


 店長である舞花の大きな写真パネルが、店内に飾られているらしい。多くの『舞花ファン』の男女が、パネル詣でに訪れると言う。

 それがニュースのネタになっていた。舞花の代わりは、店長代理の肩書きの栗原佐和子という女性だ。アリエスでの舞花の部下で、この女性もなかなかの美人で評判がいい。僕も彼女は何回か店で話したことがある。

 この店長代理は、ニュース番組のインタビューで、

「私は三崎店長の足元にも及びませんが、代理ということで何とか、オーナーにもお客様にも許していただいています。とにかく早く三崎店長に戻ってきていただいて、店長のもとで勉強したいです」

 そう言って涙ぐんだ。

 マスコミの使い方が完璧だ。才谷マジックと言うべきだろう。その才谷も、インタビューを受けていた。

「今回の傷害事件について、どうお考えですか?」

「私は、犯人の女性には、実は同情を禁じ得ないんですよ。三崎くんの幼馴染でもある男性が、両方と付き合っていた。三崎くんもあの女性も、騙されたいたんじゃないかな」

「店の看板である店長を傷つけられたのに、寛容なんですね」

「罪を憎んで人を憎まず、と言いますよね。しかし、女性を食い物にする男は良くない。私は、あの男には怒りを禁じ得ません」

 言いたい放題だ。マスコミにまとわりつかれて、すでに僕もテレビに顔が出てしまっている。これは暴力だと思ったが、もとを正せば責任は自分にある。この調子だと会社も辞めざるを得ないかも知れない、と思った。


 部屋の観葉植物、『幸福の木』だったはずの『葉子』は、いつしか葉を落とし、枯れてしまっていた。舞花のライバルの設定だったので、彼女がいなくなって張り合いをなくしたんだろうか。

 アームチェアの『岳』は、ずっと舞花を待ち続けている。僕が腰掛けることすら拒んでいるかのようだ。

 こんな想い出だらけの部屋で、僕にどうしろと言うのか。舞花の役に立てない、できることもない。戯れにギターを抱えて、マイナーキーのボサノバに今の気持ちを乗せてみた。


 寂しい椅子


 君のいないこの部屋は

 僕にはとても広すぎる

 そこここに君の幻 見つける夕暮れには


 窓際のアームチェアは

 とても君のお気に入りで

 いつもそこで上目遣いに僕を見つめてた


 ああ、泣いたり拗ねたり 笑い転げてみたり

 気まぐれな仔猫のよう

 ああ、そんな君が去った 居場所の大きさに

 まだ僕は戸惑い うろたえてる


 自嘲気味に笑ってみる

 全て僕が招いたこと

 所詮人は誰かの愛に 生かされてる存在さ


 ああ、言葉じゃ足りない 途方もない孤独を

 どう飼い慣らせばいいの

 ああ、君が去ったあとに居座った静寂

 この部屋は 時間さえ止まってる


 ふと気づけば 窓には闇が降りてる

 繰り返す日々に 痛みは癒えても


 ああ、僕の胸の奥 想い出の棲む場所に

 切ない椅子がある

 ああ、泣いたり拗ねたり 笑い転げてみたり

 あの頃の君がいる


 ああ、ここにあるものは 過去の亡骸ばかり

 明日への重荷ばかり

 ああ、僕の部屋の隅 もう座る者のない

 寂しい椅子がある



 あのプレオープンイベントの日から三週間経った。もう十月半ばだ。一週間振りに、賢太郎から電話をもらった。

「姉貴、退院することになった。怪我はすっかりいいからね。ただ、やはり記憶は戻らない。今は、刺激の度合いも考えて少しずつ、色んなものを見せてる。昔の写真や動画、思い出の品とか。それでもなかなか思い出すには至らない。だけど、その中で兄貴の描いた絵、これだけは違ってた」

「陽溜まりの花」

「そう、それ。見た瞬間、何かを思い出したのか、と思った」

「どんな反応だったんだ?」

「驚きの表情とともに、顔に生気が戻った、と言うのかな、その後ポロポロ涙をこぼした。何を見せても反応がなかったのに、それは劇的な反応だった。そしてこう言った」賢太郎は一旦、咳払いし、小さいけどより明瞭な声で

「この場所に行かなきゃ。これを描いた人に会わなきゃ」

 嗚咽がこみ上げた。僕の目から涙が噴き出した。

「正直、入院中は、親父の意見もあって姉貴に見せないようにしてたんだ、あの絵を。誰もいない時に、僕は何回か兄貴の話もしたけど、やっぱり分からないようだった。あの絵がもしかしたら、記憶を取り戻す突破口を作ったかも知れない」

「ここに連れてくるのか、舞花を」

「さすがに張っているマスコミもかなり減った。時間を置くと、思い出すチャンスは遠のくかも知れない。才谷一派にも知られないように、機会を作る。兄貴今、会社休んでるんだよね」

「十月いっばいは、部屋に引きこもりだよ」

「だよね、改めて連絡する」


 神に感謝する。また僕が舞花に会うことが許されるのか。会える、舞花に会える。今の僕の希望の全てだ。

 賢太郎の電話を今か今かと待った。3日間が、まるで3年のようだった。そしてついに掛かって来た。

「1コールあるなしで出るって、すごいね。ずっと待ってたの?」

「当たり前だ。3年待った気分だよ」

「明日、早朝にそっちに行く。朝6時くらいかな。姉貴は車椅子なんだ」

「えっ、なんで?」

「大丈夫、脚には何の問題もなくてちゃんと歩けるんだけど、入院以降、しばらくベッドの上で、ほとんど歩く機会がなかったからね、でも本人がリハビリする気にならないんだ。若いのに脚が弱るので、それも早く何とかしなきゃ」

 あの活発な舞花が、歩く覇気もないって。石を飲んだような気分になる。

「ともかく、ワンボックスで行く。親父も一緒だ」

「えっ?」

「それも大丈夫、兄貴。親父もあの絵を見て認識を変えた。姉貴の反応があってから、親父は何時間もあの絵を一人で見続けていた。本人は否定するだろうが、泣いているようにも見えた。あの親父が、だよ。なんと、兄貴のことを誤解していた、謝りたいと言ってるんだ」

「わかった。謝りたい…あの親父さんがね…」

「すごい絵だね。初めて知ったよ、芸術の力って偉大なんだって」

「いや、賢太郎、違うよ。言うなれば、愛の力だ。明日は、舞花がどれだけ俺を愛していたか、それに懸かってる。それに、俺にはもう一人、強い味方がいる」

「誰がいるって?」

「岳くん。部屋にある椅子だよ。舞花が愛していた『寂しい椅子』。舞花の居場所という点で、俺のライバルなんだ」


 車が着いた。白のワンボックス・カーの運転席から賢太郎、助手席から父親が降りてきて、後部座席の舞花が降りるのを手伝った。

 舞花は車椅子じゃなく、父親の肩につかまって立っていた。

「自分の脚で歩くんだって。今日を楽しみにしてたんだ、ね、姉貴」賢太郎が言った。

 また、少し痩せた。特にサブリナパンツの足首は折れそうなくらい。化粧っ気のない顔はまるで十代のようだ。高校生の時の舞花に会っているような気がした。トレードマークの長めのセミロング。昔を思い出して、心が震える。

「おはようございます」

 舞花が僕に近付きながら、会釈した。舞花の目の前の僕は、初めて会った僕なんだ。

「おはようございます」

「貴方が、『海くん』ですか?」

「そうです。僕が、人呼んで鈴木海斗」

 なんと、舞花がにっこりと笑った。なんて可愛らしい。天使が降りてきて、世界中が光に包まれたように見えた。

 そして、少しはにかみながら、少女のように言った。

「私、貴方のことが好き」

 僕は我慢できなかった。涙が溢れ出て止められなかった。舞花の隣で、父親も嗚咽を漏らしているのがわかった。当の舞花は、不思議そうに周りを見回した。

「僕も、貴女が大好きです。ようこそ僕の部屋へ」

「ありがとうございます」

(兄貴、すごい。あり得ない。やっばり奇跡が起こる気がしてきた)賢太郎が僕に耳打ちした。


 三人を部屋に招き入れる。

 賢太郎が『陽溜まりの花』を布にくるんで持って来ていた。それでなくても大人四人だと、僕の部屋はかなり狭い。しかも絵を描いた時の状況を再現するために、ソファを退けて、イーゼルを立てている。

 舞花は、入った瞬間から、『岳くん』を気にしていた。

「この絵、この場所だね」賢太郎が言った。

「僕はここから君を描いた」イーゼルの後ろの高めのスツールに、僕はちょこんと腰掛けた。

「そのアームチェアは、ここに越してくる時に、君がとても気に入って、買ったんだよ。『岳くん』って名前まで付けて」

「私、ここに座ってもいい?」

「もちろん。岳くんも君に座って欲しいはずだ」

 僕は、思い出していた。去年の僕の誕生日、このアームチェアに座って、そこにいない舞花の意識とシンクロしたことを。この椅子には不思議な力が宿っているのかも知れない。それが賢太郎に、岳が強い味方だと言った理由だ。

 舞花が、座った。

 周りを見回す。それから僕の方を見て、ゆっくり目を閉じた。

 やがて、舞花の様子が変わってきた。

 鳥肌を立てて、小刻みに震えているように見える。なのに、頬を汗が伝った。


 ドーン!


 突如として、大きな音が鳴った。雷だ。窓を見ると、稲光が光っている。さらに音を立てて大雨が降りだしている。

 さっきまでは、どちらかと言うと晴れていたのに。確かに予報では、朝から雷雨と言っていたか。


 ドーン!ゴロゴロッ、ガシャーン!


 舞花が、目を閉じたまま、震えている。外の稲光が明滅し、部屋の中を照らす。舞花の頭の中を、無数の記憶のピースが去来している、それが分かった。ジグソーパズルのように、それが組み上がるのか、意味のない断片のままなのか、今が勝負だ。


 ドーン!ドーン!ゴロゴロッ!


 どんどん激しくなる。

「花火」急に舞花が、そう呟いた。「綺麗ね」あの花火大会の夜か。

「これが最後のピースだ」


 ドーン!!ドシャーン!!


 とりわけ大きな雷鳴が重なった。

 僕は、舞花にくちづけた。

 賢太郎も父親も見ていたが、そんなことを言ってる場合じゃない。

 まだだ。長く、長く、キスを続ける。花火の夜の二人にシンクロするために。

 舞花の両腕が僕の首に回った。唇が離れ僕に強くしがみついてきた。頬ずりする。強く、強く。身体が震えている。泣いているのか。ついには全身でぶら下がるように抱きついた。

「おかえり。舞花」

 びくっと反応して、顔を離し、僕を見つめた。

「ただいま、海くん」

 その顔は、もういつもの舞花だった。

 もう一度、舞花は僕に頬ずりした。そして声を上げて泣いた。子供みたいに、何のてらいもなく、泣き続けた。

「おいおい、最後は王子様のキスってオチ?」賢太郎が茶化したが、その声もしっかり震えていた。舞花の父親に至っては、うつむいてボトボト涙を床に落としていた。

 大の大人四人で、ひとしきり泣いた。

 雨は残ったものの、いつのまにか雷は止んでいた。

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