第10話 凛と立つ白百合

「舞花、きちんと話す。まずは座ってくれ」

「状況がよく分からないの。説明して、海くん」ちょっと眉を寄せて、舞花はまずそう言った。

「どうしてこんなに連絡が取れなかったの?さっきの女性は誰?入院って何なの?」

「実は、原因不明の病気で左の首が腫れてしまって、1ヶ月近く入院していたんだ。手術もした」

「私、海くんの彼女のつもりなんだけど、間違ってないよね」

「もちろん」

「じゃあ、何でそんな大変なことになっているのに、私はずっと知らされなかったの?」

「とにかく痛みで動けなかった。舞花の状況を知って連絡すべきとは思いながら、大事な時期だしどうしたらいいか分からなくて、そのうちに痛みで考えることもできず、うまく言えないけど…」

「病気はもう大丈夫なの?命に関わったりはしないの?」

「一時は『悪性リンパ腫』も疑われていたけど、もう大丈夫。再発もおそらくない」

「もしも、もしもそんな病気だったら…私、耐えられなかった。よかった…じゃあ、さっきのあの失礼な女性は誰?」

「入院中にお世話になった看護師さんだよ」

「退院したらそのまま彼女気取りってわけ?やっぱり相変わらず海くんモテるのね」

「おいおい、モテるだなんて、君からは言われたくない」

「どういう意味?」

「才谷亮平」

 突然名前が出てきて、舞花がたじろぐのが分かった。

「あのオーナー社長が、舞花の夢を叶えてくれたんだね。地べたを這いずってる虫ケラのような俺とはほんと、大違いだ」

「どうして」舞花の声がかすれた。

「どうして自分をそんな風に言うの?海くんらしくない。それに、あんな三流雑誌のゴシップ記事をまともに信じるわけ?」

「信じないにしても、それも含めて才谷社長の計略だと思ってる。ゴシップを既成事実化しようと企んでいる。口説かれただろう?」

 舞花は少し迷ってから、白状した。

「確かに、告白された。『僕個人としても君が必要だ』って。でも、ちゃんと断ったわ」

「恐らく、才谷はテレビを使って三つ仕掛けをしたんだよ。一つはまさに舞花という美女とセットで自分の名を売ること。二つめは舞花を使って『アリエス』にさらに客を呼び、『サジタリアス』の効果的な宣伝をすること。ここまでは思惑以上の大成功だ。

 そして三つめは、ゴシップ記事を出させて、それをきっかけに舞花自身を手に入れること。断られたからどうこうするなんて、もちろんそんな安い男じゃない。断られることも予定の範囲だろう」

「…」

「だから、一度で諦めるとも思えない。でも舞花、彼の告白を断るなんてね。連絡も取れなかった僕に義理立てしてくれて、ありがとう」

「義理立て?そんなのじゃない!何言ってるの⁉︎」珍しく舞花はなり振り構わず、叫んでいた。

「あなたのことが好きなの!鈴木海斗を愛しているの!私にはあなたしかいないの!」睨みつけた瞳から、涙がボロポロと頬を転げ落ちた。

「なのに、何で知らせてくれないの?心配させてくれないの?看病させてくれないの?こんな仕打ち、やっぱりあり得ない」

「舞花に僕の看病をするような時間はなかった。時間がなければ知っても苦しむだけじゃない?ならば知らさない方がいいかも知れない、僕はそう考えてしまったんだ。僕だって舞花に夢を叶えて欲しい。舞花の足を引っ張りたくなかった」

「恋人同士って、分かち合うものよ。喜びも悲しみも、苦しみも。そして二人で解決策を探すものじゃないの。私は、私に何か落ち度があって、海くんの心が離れちゃったのかなって。それは忙しい仕事でも紛らわせない苦しみだったわ。海くんは私のことを分かってるつもりで、全く理解していないの」


 改めて舞花を見た。白のカットソーに、ブルーのサブリナパンツ。痩せた身体にシンプルな着こなしがとても似合う。トレードマークのセミロングの髪を、今日はポニーテールにまとめている。世間から注目されていることが作用しているのか、またこの1ヶ月で舞花は垢抜けて、その美しさを増した気がした。

「今日のネックレスは…とても高価そうだけど、僕のあげたものじゃない。才谷のプレゼントかい?」余計なことを言ってしまった。

 舞花は無言で立ち上がって、僕の頬を右手で叩こうとした。しかし、首の包帯を見て、叩けずにその場に崩れ落ちた。しばらく泣いた後、「少し一人で考えたい。時間をちょうだい」しゃくり上げながら、やっとそう言った。愛おしい。抱きしめてあげたい、髪を撫でてあげたい。

「あの看護師さんのこと、好きなの?」

「彼女には悪いが、別に好きでもない。投げやりになって、状況に流されていただけだ」

「あの子は海斗にはふさわしくない。海斗にふさわしいのはやっぱり私よ。本人や世間が何と言おうと」立ち上がって、

「絵、私に送ってね。私以外の誰かの悪意の目に晒されるなんて、とても耐えられないの」

 もう一度絵を見て、「幸せそうね、私。海斗といられるだけでこんなに幸せだったのに」また涙を流した。

 その後何も言わず、舞花は出て行った。


 それから、僕は何度も考えた。何が正解だったんだろう。僕がもし早い段階で舞花に知らせていたとして、舞花は仕事を調整して僕を看病したか。もちろんできるなら、そうするだろう。その場合、もしその結果として、舞花の今後のキャリアに差し障るようなことになれば、僕は自分を呪うだろう。舞花も僕を重荷に感じるかも知れない。それは一番、僕が耐えられないことだ。

 舞花が仕事に縛られ、状況を知らされたのに僕の側にいられない場合はどうか。僕は舞花を疑うかも知れない。舞花は僕に負い目を感じ苦しむだろう。僕は知らせたことを後悔することになる。

 舞花の状況、僕の状況、この両極端な二つが重なった段階で、実は『詰み』だったんだ。そう思える。神が与えた試練か。試練とは、乗り越えてこそ言える言葉だけど。

 自分を正当化したい訳じゃない。舞花が言うように、恋人同士であるなら、相手の危機を知らされないくらい残酷なことはない。この点は絶対に彼女が正しい。一方でそう思う。逆の立場を考えてみるといい。彼女の生命の危機を知らずに、僕は光を浴びて虚飾の世界にいる…知ってしまえば、自分が許せないだろう。

 そうか…自分が許せない、そうなのか。舞花、そんな風に思わないで欲しい。君には光ある場所が相応しいのだから。僕なんかのために傷ついて欲しくない。


 翌日、何事なかったかのように、日勤を終えて夏希が現れた。努めてニコニコしながら、「昨日買ってきた食材、使わなかったから今日は買い物するつもりなかったんだけど、ほら、ワインだけ買ってきたの。一緒に飲みたくて」「そうなの」「すぐ準備するね」会話が怖いのか、そそくさと準備にかかる。僕はテーブルを整える。

 早速絵は舞花に昼間、送った。昨日の場所にないことに夏希も気付いているだろう。

 食事を終えて、夏希を見つめて言った。

「これまでのこと、きちんと説明するよ。僕が何を思っているのかも」


 結局、僕の説明は夏希を逆上させることになり、彼女は僕を責めるより、舞花を何度も罵った。ほんの数分会っただけでよくもそんなに罵るネタがあるな、というくらいに。敵が三崎舞花であったことが、さらに絵に込められた僕の舞花への想いを感じて、期待した幸福から奈落の底に落とされた気分になったのか。舞花はある種の女性にとっては劣等感を呼び起こさせる存在なのかも知れない。でも、ふざけるな、だ。彼女に対する呪詛のような不吉な言葉を、黙って聞き続けるわけにはいかない。

「これ以上の彼女への悪口は許さない。出て行ってくれ。俺の気持ちは君にはないし、これから君と一緒にいるつもりもない」

「私のことはただの遊びだったってことなんだ。そんなに元カノが忘れられないの?私、許さないから」

 夏希はそう言い捨てて、怒りに震える、といった有様で、部屋を出て行った。


 そして二週間が経った。もう、世間は盆休みに差し掛かろうとしている。今日は予定通り会社を休んで病院に行き、診察を受けた。手術後の経過は良好だった。これからは通院の頻度も減らすことができそうだ。もうすっかり夏。あの二人きりの同窓会から一年。病院の待合室からも、外の蝉の鳴き声が聞こえる。待合室のテレビをふと見ると、昼のバラエティに舞花が出演していた。思わず釘付けになった。


「三崎さん、話題の『サジタリアス』の開店、いよいよ来月27日だそうですね。ご準備の状況は、いかがですか」

「本当に追い込みで忙しいです。でもきちんと間に合わせます。おもてなしに関するアイデアがいくつも実現できそうで、私自身とてもわくわくしています。まだ企業秘密なんですけどね」舞花は人差し指を立てて唇に当てた。

「アジアンフードのお店なんですよね」

「はい、うちのオーナーがこの方と見込んでスカウトしたシェフにシンガポールから来ていただいて、日本のスタッフと時間をかけてアイデアを擦り合わせ、メニューを開発しました。タイ料理やベトナム料理、インド料理、中華も四川や広東や色々ありますけど、日本料理の良さ、例えばお刺身の技術やお出しの文化ですね、そうしたエッセンスを加えて、国籍に囚われない本当の意味でのアジア料理を、一品一品作り上げました」

「それは、今から本当に楽しみです」

「もう、どれも本当に美味しいです。ぜひ多くの方に味わっていただきたいです」

 話し方も好感が持て、滑舌もしっかりしていて、並みのタレントよりテレビ向きだ。会社にしてみたら、完璧な広告塔だと思った。

「ところで雑誌でも騒がれている、才谷社長とのことなんですが」リポーターが切り込んだ。「本当のところ、どうなんですか?」

「フフフ、聞かれると思いました。本当のところ、あの報道には迷惑しています」口角を上げたままで、「全くの事実無根です。それは仕事で昼夜問わず一緒のことが多いので、一緒に食事したりもしますが、経営者と従業員の関係で、それ以上のことは何もありません」

「なるほど、明快ですね。でも才谷社長は三崎さんのことをパートナーと表現されていますが」

「ビジネスパートナーです。オーナーは経験もない私を引き上げてくださり、私世代の女性の代表として、意見を出しやすい環境も作ってくださいます。しかし、それはビジネス上でのこと。公私混同をされるような方ではありません」

 テレビを利用して才谷に釘を刺した。舞花もやる。

「ご期待に添えるお答えじゃなくて、申し訳ありません」

 過不足ない笑顔。厚かましく踏み込むことを許さない防御になっている。誰しもが、面と向かってこの笑顔を壊す勇気は持ちにくいだろう。


「ところで、ゲストの宝物をご紹介いただくコーナーですが、お待ちいただいていますか」

「はい、二つ、あります。二つとも、同じ方から頂いたものです」

「ご紹介いただいてよろしいですか」

「一つは、私が付けている、このネックレス」僕が贈ったネックレスだった。

「私の大切な人から初めて、去年の誕生日、プレゼントされたものです」

「綺麗ですね」

「そんなに特別なものじゃないと思います。でも、私が先日、服に合わせる関係で別のネックレスを選びに行った時、そこの店員の方が私の着けているこのネックレスを見て、話しかけて来られました。もしかして、去年の十一月末か十二月初めに、男性から贈られたものではないですかって」

「はい」

「どうやら、同じショップに行っていたようなんです。その時、彼女は私にこう言いました。『男性が行きつ戻りつ何時間も必死で選んでいる姿を見て、私がお勧めしたんです、そのネックレスを。私自身、社販で買おうかと悩んでいたものでもあって、よく覚えています。お客様、最近テレビに出られている三崎さんですよね』って」

「その男性の方は、ひょっとして三崎さんの彼氏ってことですか」すわ、特ダネ!とリポーターが身を乗り出した。

「はい、そうです。でも理由あって、しばらくお会いしていないんですけど」

「ひょっとして、不倫とか」

「違います。その方のことをこれ以上お話しするつもりはありません。私は芸能人ではありませんし、その方も華やかな世界とは無関係な方です」舞花は背筋を伸ばして、毅然とした表情になった。

「でも、これを身に着けだして、私は驚くばかりの素晴らしいご縁と幸運に恵まれました。このネックレスと、何よりその方に心から感謝しています。どんな高価な宝石より大切な、一生の宝物です」

 すごい、舞花、君はすごい。待てよ、どこかで見たことのある舞花だ。ああそうだ、中学二年生の時の、僕がガラスを割った時の、職員室での舞花だ。

「二つめですが、こちらです」なんと、僕が描いた舞花の肖像画が映された。

「これはまた、素晴らしい」リポーターは唸った。

「誰が見ても、三崎さんだとわかりますね、三崎さんの魅力が余すことなく表現されています」

「それ、彼の処女作なんです。『陽溜まりの花』という作品です。彼の部屋のアームチェアに座っている、私です。出来上がる前からどうしてもこの絵が欲しくて、初めておねだりして、半ば強引に頂いちゃいました。多分、プロが見ると技術的には稚拙なんでしょうね。でも私、この絵が大袈裟ではなく死ぬほど好きなんです。彼の目には私はこう映ってるんだって。この絵が命と同じくらい大事なんです」


「ううっ」病院の待合室で、僕は思わず嗚咽を漏らしてしまった。

 何を言ってるんだろう、公共の電波で、日本の全国民の前で、舞花は。

 でも幸せだった。もう、これで死んでもいいとさえ思った。同時に舞花への裏切りを、心の底から懺悔した。

 ただ、一つだけ舞花は嘘を言った。僕はあの絵に名前なんて付けていない。舞花一流のいたずら心か。ただ現実として、彼女の紹介であの絵は世間の知るところとなった。言い換えると、モデル本人の命名によって僕の絵は完成をみた。その命名に作者に全く異存はない。


 舞花の人気が、ネットを中心にまた爆発した。テレビでの発言、態度に、老若男女問わず、賞賛と共感の嵐だ。

 舞花に相応しい男にならなければ、という思いが僕にはさらに強くなった。一体とうしてあんな風に凛と咲き誇れるのか。どんな舞台に立たされても、1ミリもブレない。一点の曇りもなく、舞花は舞花なのだ。それが舞花の一番の強みだ。多分、一切の虚飾や忖度のない彼女の潔さに、新しい時代のヒロイン像を見て、人々は喝采を送るのだろう。


 数日後のある夜、部屋に帰って郵便受けを開けると、封書が玄関に落ちた。

(結婚式でもあったかな)立派な封書で心当たりがない。誰からだろう。確認した瞬間、予想していなかったものだったので心底驚いた。

 それは、差出人が才谷亮平になっている、オーブン一週間前の『サジタリアス』のプレオープンイベントの招待状だった。

「行こう」何故か、即座にそう思った。才谷亮平という男に会ってみよう。そして、僕も現実を受け止める覚悟を決めなくては。

 でも、服を新調しないといけないかな。招待されたからには、お祝いの品も必要なんだろう。経済的にはなかなか大変だ。

 もうひとつ思った。このプレオープンイベントの前に、ぜひ一度、舞花に会っておきたい。


 さて、どうやって舞花と会うべきか。

 これは結構な難問だった。今、時の人で芸能人並みに目立つ舞花と、普通に会うと間違いなく見咎められ、ゴシップになる。誰もがニュースの発信源として、ネットに投稿できてしまう時代だ。しかも、ひょっとするとあの昼のバラエティ出演から、すでに僕にも雑誌とかのマークが付いている可能性もある。

 別人に化けられれば別だが、変装するのも暴いてくれ、と言っているようなものだ。

 場所を選ぶしかない。それも夜がいい。

 考えた挙句、花火大会にしよう、と思った。夏の最後を飾る、港の花火大会。知る人ぞ知る、公園の中の観賞ポイントで、お忍びで会う。さて、日程はピンポイントになるが、舞花は都合つけられるだろうか。彼女がとても喜びそうなシチュエーションではあるが。


 久しぶりに舞花にメッセージを送った。

「プレオープンの招待状、ありがとう、驚いた。出席させてもらうよ」

 すぐに返事が来た。

「よかった。やっぱり海くんには来て欲しかったの」

「ところで、その前に舞花に一度会っておきたい」

「私もちょうど、そろそろ会わなきゃ、と思ってた」

「街中で会うのも、舞花はもちろん俺の部屋も危ないよね」

「うん、不自由ね」

「だから例えば、花火大会なんてどうかなと思ってる」

「港の花火大会ね、都合はなんとかする」

「じゃあ、合流ポイントをこの後、送る。そこに19時で」

「了解。変装しちゃおうかな、お忍びで会うの、わくわくするね」

 この反応こそ、舞花だ。

「昼のバラエティ観たよ『私の宝物』。まさかあの絵を紹介するなんて。ありがとう、感動した」

「へへへ、海くんのこと、日本全国に向けてのろけてやった。どんなもんだい」

「ほんとにいろんな意味で、大したタマだ」

「褒め言葉と受け取っとくね。私の方こそ、本当にありがとう。花火楽しみに、準備の追い込み頑張るね」

 何事もなかったかのような会話で、本当に久しぶりの逢瀬の計画は、あっさり成立した。

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