第9話 暗転する世界

 ゴールデンウィークが明けて、舞花の肖像画が、一応の完成を見た。

 できた!という感動よりは、これでいいのか?という疑いのほうが強い僕は、腕組みをしてしかめ面で見てたと思う。隣で舞花は、口を両手で覆いながら、瞳をうるうるさせていた。

「間違いなく私、ここにいる。海くんにしか描けない私が」そう言って涙をこぼした。この自分の肖像画を、舞花はぜひ欲しいと言っていた。

「でも、私の部屋は海くんの部屋よりさらに狭いから、しばらくは預かっててね。私もここにいる方が多いし。ところで次から、またすぐに描くの?」

「うん、少し充電する。俺今、廃人同然だから、少し浮世に戻らないと」


 舞花が、ますます忙しくなった。あまりに舞花の客受けがいいので、オーナーに特別に目をかけられているという。六月に入り、研修と称して数日間、地方にある店に出張にも行った。

 僕も相変わらず忙しかったので、すれ違いの日々が続く。

 久しぶりの一緒の夕食、僕は舞花に尋ねた。

「大丈夫?少し疲れてない?あんまり無理しない方がいいんじゃないかな」

「ありがとう。でも今、頑張らないといけない時期なの」

「どうして?」すると、パッと僕に向き直って「あのね」眼を見開きながら、「オーナーが新しい店を計画中で、色々店の企画を私に任せてくれているの。その上、なんと!私をその店の店長にしてくれるって!」

「そりゃ、すごい。大抜擢だね」

「開店はね、秋。これからますます忙しくなるから、ごめんね。私は自分の身体のことはちゃんとわかってるつもりだから」

「これまで聞かなかったけど、オーナーってどんな人?」

「才谷亮平、35歳。IT関係の会社の社長でもあるの。新進気鋭の起業家として注目されているらしい。かなりのやり手よ」

「ふうん」


 何となく、もう少し年配の人かと思っていた。ネットで検索すると、すぐに出てきた。大学時代に有名私大で学内ベンチャーを立ち上げ、成功させた。そこからのサクセスストーリーが載っている。今は飲食店展開に力を入れていて、『アリエス』はじめ、業態の違う店を何店舗か経営している。ターゲットと立地、周辺のマーケットから最適と思われる話題店を作り、全てを成功させているらしい。

「買い物はネットショッピングで済ませても、美味しいものを食べるため、誰かと時間を共有するために飲食店には必ず足を運ぶ。だから、他店と差別化し、きちんと魅力さえ届けられれば、飲食店は必ず成功する」なるほど。口癖は「店舗展開に同じ店はあり得ない、進化しない店に明日はない」

(舞花、すごいのに見込まれてるな)

 この感情は何だろう。嫉妬なんだろうか。いやいや、夢の実現のために得難い味方を得られたんだ。僕も理解してできる限り協力しなきゃ。

 この後の会えない日々と、驚きの展開について、この時はまだ想像だにしていなかった。


 梅雨。じめじめした鬱陶しい天気が続く。

 僕は僕で仕事が忙しい。デザイナーとの打ち合わせ、印刷物の校正、企画書の作成、クライアントとの折衝や会食。舞花はシフトは減らしたものの『アリエス』のホールリーダーの仕事と、新しい店の企画や準備の両方を担って忙殺されていた。忙しいのはいいことだ、と自分に言い聞かせつつ、お互い深夜まで仕事に没頭せざるを得ず、もう二週間も顔を見ていなかった。大丈夫かな、自分より舞花の身体が心配だった。


 そんな折、舞花の弟、賢太郎から電話があった。

「兄貴、例のテレビ番組、観たかい?」

 3歳下の賢太郎は親しみを込めて、いつの間にか僕を『兄貴』と呼ぶようになっていた。

「いや、何のこと?」

「まだ知らないんだ。姉貴がさあ、テレビに出てたんだ。ほら、『時代の寵児』って番組。各界で頭角を現している話題の人を追跡する、あれ」

「知ってるよ、え、まさかあの番組に舞花が?」

「もちろん姉貴が取り上げられた訳じゃないけど、姉貴んとこの店のオーナーがね」

「才谷亮平」

「そうそう。やっぱ兄貴も知ってるよね。そして姉貴も映ってたってわけ」

「なるほど」

「なんかね、それ観て俺、ちょっと心配になっちゃって電話したんだ。ともかく、観てみて」

「了解。ありがとう」

 早速サイトで検索してみた。すぐに出てきた。

『時代の寵児・才谷亮平』タイトルが出て、特徴的なインストゥルメンタルのテーマソングが流れる。

 才谷の生まれ、学歴、これまでの功績、仕事ぶりやオフの過ごし方まで、様々な角度から追跡し、人となりを紹介しようとする番組だ。『アリエス』の店内も映され、舞花が他のスタッフとともに働く姿、接客している笑顔などが映された。

 さらに、新規出店に関わる才谷の仕事ぶりを追跡する際、秘書のように付き従い、才谷と一緒に行動している女性が、舞花だった。シティホテルの玄関から出てきた二人を、インタビュアーが捕捉する。

「新しい店の打ち合わせだよ」才谷が面倒くさそうに話す。

「お隣の女性、お綺麗な方ですね」

「ビジネスパートナーだよ。僕が発掘したうら若き才能だ」

「あのう、少しよろしいですか。お名前は」インタビュアーが舞花にまとわりつく。

「三崎と申します。接客の現場を預かる立場から、新しい店について、意見を聞いていただいています」舞花は僕がプレゼントしたネックレスをしている。

「彼女はね」才谷が引き取った。

「素晴らしい才能なんだ。『アリエス』は彼女の接客でもっていると言ってもいい。部下への指導もうまい。だから」そこでもう一度舞花をアップにして、才谷の言葉を被せた。

「秋に出店するアジアンフードの店『サジタリアス』の店長に抜擢した」

 舞花が、とても自然な感じで、少しはにかんだ。上出来だ。彼女を嫌いな男はこの世にはいないと思う。テレビの前の何万人かが恋に落ちたのではないか、とすら思った。

「それにしてもお綺麗な方ですね、才谷社長、独身でしたよね」

「もちろん、彼女は女性としても非常に魅力的だが、あくまで僕にとっては、従業員という感覚でもなく、大切なビジネスパートナーだよ。今や彼女がいるのは週の半分だが、君も『アリエス』に来てくれれば、僕の言っていることがわかる」

 もう一度、『アリエス』で働く舞花のカットが数秒間流された。

(こりゃ凄い)

 才谷も凄い男だが、それに輪をかけて舞花の纏うオーラが凄い。戦慄に似たものが背中を走った。これから僕らの世界が、変わってしまう。


 案の定、それから舞花はブレイクした。テレビのバラエティ番組や、ネットニュースや雑誌の取材-写真週刊誌から女性ファッション誌、ビジネス誌までが押し寄せた。これも才谷のマスコミ活用の手腕なのかも知れない。才谷とセットで舞花は時の人となり、その男女の関係を勘繰るゴシップ記事まで出始めた。これも才谷の計略なんだろうか。


『アリエス』に客は押し寄せ、予約なしでは入れない店になった。新規開店の『サジタリアス』も繰り返し話題になっていて、開店即ブレイクは、もう約束されたようなものだ。


 梅雨は続いていた。今年の梅雨は長い。

 事もあろうに、僕は突然、病気にかかってしまった。ある朝、左側の首に強い痛みを感じた。寝違えか…春にも酷い寝違えをやっていたので、またかと思った。ところが翌朝、患部にしこりがあるように感じる。それが翌日、翌々日とどんどん大きくなっていき、ついには首が傾いているような有様になった。仕事はどうしようもなく忙しかったが、社長命令で休まされ、病院で診察を受け、CTやRIなどの検査を受けたが、はっきりしたことがわからない。『側頸嚢胞』という病気があるらしい。何万人かに一人、先天的に頸部の筋肉に隙間がある人がいて、そこに膿の袋ができる病気らしい。それではないか、でも確証はない。さもなくば、最悪『悪性リンパ腫』というやつで、その場合、ここまでの症状が出ているとまず助からない、と言われた。どちらか。おそらく『側頸嚢胞』の可能性が高いが、とのことだった。


 さすがに事の重大さに両親に連絡し、二週間後に切除のための手術が決まった。入院し、毎朝毎晩、点滴。そのうちに両腕が点滴の穴だらけになり、針を刺す場所がなくなってきた。

 しかし、それでも膿は溜まり、毎日腫れは大きくなっていく。あまりの痛みに満足に眠ることすらできない。気が狂いそうだ。もう限界だった。

 ある時、診察時に当番の医師が決断し、救急外来の処置室で局所麻酔をした上で、腫れにメスを入れることになった。膿のために麻酔が効かず、両手両脚を押さえつけられていたが、それでも飛び上がった。メスを入れた瞬間、傷口から数メートルも血膿が飛び出したみたいだ。地獄かと思った。だがそのおかげで膿をその後も抜けるようになり、手術の日まで何とか耐えることができた。


 会社の携帯は繋げていた。実際、仕事の電話は入院中も何度もかかってきた。個人の携帯は、充電切れのまま放置していた。母親が毎日、父親も数日おきに来てくれていたし、すでに鎮痛剤も効かない痛みに耐えることだけで精一杯だった。それでも、これまでの状況なら、僕は舞花に連絡していただろう。だが、しなかった。彼女の普通じゃない忙しさもわかっていたので、伝え方もタイミングも考える必要があったが、その余裕がまるでなかった。夢の実現に向かう華やかな彼女に、自分が病気だと伝えるのも嫌だった。かくして、彼女からは僕に全く連絡が取れない状況が三週間も続いていた。彼女は僕の発病すら知らないままだ。


 痛みにうなされつつ朦朧と見た夢には、舞花はよく出てきた。桜とともにいる夢が多くて、あの事故の夢も見た。舞花が誰かと去っていく夢も。舞花は一度振り向いて、憐れむような眼を僕に向けた。そして立ち去った。

 彼女は今や誰もが知るスターで、僕はベッドに縛り付けられた明日をも知れぬ虫けらのようで、痛みと情けなさで何度も泣いた。


 ようやく、手術の日が来た。メスを入れる場所が、顔の神経が集中している場所の近くで、もしかすると末梢神経を切断してしまい、表情が上手く作れないなどの後遺症が出る可能性がある。病院にそれでも構わないという念書を取られた。もう何でもいい、楽になれるなら。そこまで心配する余裕がない。

 執刀してくれる主治医は、耳鼻科の女医さんだった。まだ三十歳位の、美人ではないが、朗らかで魅力的な女性だった。『側頸嚢胞』ならば、膿の袋を綺麗に取り去るのに、手術は4、5時間かかる。そうでなければ、1時間程度で終わる。そんな説明があった。その時はもう手がつけられなかった、ということだ。

 手術室に運ばれる時、不思議に静かな気持ちだった。いずれにしてもこれで楽になれる、それしかなかった。全身麻酔。ガスを吸わされる。「3つ数えるうちに眠くなりますよ」本当かと思ったが、3つは数えられなかった。


 結果として、手術は1時間ちょっとで終わってしまい、家族は色めき立った。だが、医師が考えていなかった症例で、『悪性リンパ腫』でもなさそうとのこと。詳しくは組織検査の結果を待つことになるが、良性のものと思われる。そんな説明を受けたと、麻酔が覚めてしばらくしてから両親から聞いた。

 結局、悪性ではなかった。書いてもらった診断書には「頸部リンパ節炎」なるひねりのない病名が書かれていた。原因は不明のままだ。


 手術前の苦しい時期から入院中を通して、特に優しく接してくれたナースがいた。名前は川島夏希。4歳下の正看護師。

「鈴木さん、麻酔から覚めて最初に何を言ったか覚えてます?『ポテトチップス食べたい』ですよ、なかなかそんな人いませんよ」と笑う。

 手術後うとうととして、最初にしっかり目が覚めた時、しばらくして「トイレに行かせてくれ」と彼女に頼んだ。「ダメですよ、ベッドで尿瓶しびんを使ってください」「それがどうも上手くいかないんだ」横になって用など足せない。生まれてこの方、そんな経験がない。「大丈夫だから」と無理を言ってトイレに歩いた。ほら、大丈夫。小便器の前に立って用を足そうとした瞬間、目の前が真っ暗になり、その場に倒れた。彼女は男子トイレの前に待機していて、物音を聞きつけてすぐに助けを呼んで運んでくれたらしいが、用を足しながら気絶するなんて、なんて失態、とんでもない迷惑をかけた。彼女は後で師長からこってり絞られたとのこと。

「本当にやんちゃな人、勘弁してくださいね」

 知らない間に母親とも仲良くなり、いつのまにか「夏希ちゃんのような子がお嫁に来てくれたらねえ」とか言っている。一度は本人がいる前でそんなことを言って、僕が慌ててたしなめる横で、彼女は「ええ、私でよかったらぜひ」と微笑んだ。点滴を刺すのも、座薬を入れるのも超上手い。どうもこの人には敵わない、そんな気分になった。


 組織検査の結果はやはり良性で、手術の傷も塞がり、いよいよ退院となる。あとは通院しての経過観察と、傷跡を残さないための整形外科手術を半年後に行うのみ。僕の中ではようやく退院できる、復帰できる、という喜びと、現実に立ち返りたくない、という恐れのようなものがせめぎ合っていた。


 病院内のベンチに座ってぼーっとしていると、勤務終わりなのか、私服の川島夏希が近づいてきた。

「鈴木さん」「あ、川島さん、お疲れさま」

「いよいよ明日退院ですね、術後の経過も順調で良かったです」

「本当にお世話になりました」

「ところで、私今私服なんで、ちょっとだけプライベートな話をさせてもらうと」「はい」ちょっと言いにくそうに、

「ええと、私を含めて何人か、鈴木さんのファンがいまして、あんまりこんなことないんですけど、退院のお祝いできるといいねって」

 何だか今の、こんなにボロボロの僕を、そんな風に見てくれている人がいたとは想像できなかった。だから、嬉しかった。

 かくして、退院の数日後、僕とナース三人との食事会が開催される運びになった。


 計略にはまった。

 これは完全に、僕と川島夏希をくっつけるためのイベントだった。

「鈴木さん、彼女いないですよね。お見舞いにも一度も来なかったし」路子ちゃんと香織ちゃんだったか。路子の方が切り込んでくる。

「うん、まあね」ちくっと胸が痛んだ。

 舞花のことを言うべきかとは思うが、どう説明したものか。今や有名人なので過剰な反応も予想できる。面倒だし、場の空気を壊す。闘病、手術という苦しい時期をようやく乗り越えたんだから、少しくらいちやほやされるのもいいだろう、と、荒んでいた頃のような身勝手で投げやりな気分も頭をもたげていた。


 個室のカラオケルーム。さすがに僕は酒は控えているが、彼女たちは盛り上がり放題だ。僕に歌わせては上手いとはしゃぎ、自分たちも歌い踊っては飲み食いを重ねて、騒ぎ疲れた頃。夏希がしなだれかかってきた。

「ねえ、あの子たち二人とも、明日日勤で朝早いんだって。これから私の部屋で二人で二次会しない?」「そうだな」

 僕は流されるまま、呆気なく夏希とデキてしまった。

 その夜、鞄に放り込んでいた携帯に舞花から5回も電話がかかっていた。朝になって夏希の隣りで目覚めて、ようやくそのことに気づいた。


 舞花のことが、心の中で重荷になっていた。実は一刻も早く、会いたい。だけど、会わない間に彼女の環境は激変し、連絡が取れないまま僕は入院、手術となった。会ったら何か決定的な展開になるのではないか、何となく、会うことが怖かった。逃げていたと言っていい。

 舞花は部屋の鍵を持っているので、何度か僕の入院中に来ていたのもわかった。入院後初めて部屋に帰った時には、書き置きが置いてあった。

「海くん、どうしたの。なぜ連絡が取れないの。とても心配です。とにかく一度連絡ください」

 夏希の部屋から朝帰りした夜、それでも僕はようやく、舞花に電話をかけた。何回か呼び出しても出なかった。


 次の日、日勤を終えた夏希は、「ご飯作ってあげる」と買い物をして部屋に来た。そして、舞花の肖像画に釘付けになった。

「誰?この人。あ、でも知ってる。この人。ええと…」その時、鍵を開ける音がして、何と現れたのは、肖像画に描かれたその人だった。

「舞花!」

「海くん!」

 舞花は目を丸くしていた。痩せてしまって首に包帯を巻いている僕。いかにも親しそうな見知らぬ女。

 誰も言葉を発せず、真夏なのに部屋の空気は凍った感じだった。

「なるほど」言葉を発したのは夏希だった。

「テレビに出てる美人が元カノってこと。でももう終わってるのよね、入院中一度もお見舞いにも来なかったんだから」

「え…入院?もしかして、その首…?」

「あなたに海斗を心配する資格はないわ。彼がどれだけ苦しんでたと思うの」「ちょっと待て!」遮ったのは僕だ。

「夏希、悪いが君は帰ってくれ。どうしてもこれから、この人に話さないといけないことがある」

 夏希は愛情を同じだけ、憎悪に変換するタイプの女性だ。愛憎両方の振れ幅が大きい。それがわかった。舞花に攻撃を向けるその顔を見て、僕はこの子とは長くはいられない、と思った。

「わかった。また明日来る」そう言い残して、渋々という感じで夏希は出て行った。

 僕は舞花と二人きりで対峙した。

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