第8話 桜・舞う花

 計画的引きこもりから生還した舞花は、体調を戻すため、1週間入院することになった。3ヶ月まともに食べていなかったので、食事をお粥からゆっくり戻す必要があり、同時に痩せてしまった身体に異常がないかも検査してもらうことが目的だった。

 仕事の合間を見て、見舞いに行った。

 いきなり、「遅くなったけどプレゼント」と、ふんわりした包みを渡された。

 家に引きこもっている間、母親に頼んで毛糸を仕入れ、僕にセーターを編んでくれていたらしい。

「採寸してなかったでしょ。既製品の寸法を参考にしたの。大丈夫かな」着てみると少しざっくりめながら、サイズに問題はない。暖かかった。

「やっぱりエンジ色がとてもよく似合うわ、思った通り」舞花が一番嬉しそうだ。

「ごめん、これお誕生日とクリスマスのプレゼントということにしてくれる?」

「昔から一緒くたは慣れっこだけど、誕生日のプレゼントはもうもらったよ。僕の誕生日の夜、舞花の魂が部屋に来てくれて、僕と一緒にいてくれた。それは最高のプレゼントだった」この話、気味悪がるかな、と思い、様子を伺いつつ話した。

「私ね、祈ってたの。あの夜、海くん誕生時刻の8時40分、どうしてもそばにいたくて、私は今、あなたの部屋で岳くんに座って一緒にいるんだ、って強くイメージした。そしたら不思議なことに」「不思議なことに?」「ちょうど岳くんに座ってる海くんとシンクロした、そう感じた」瞬間的に鳥肌が立った。

「そうなんだ。それを、僕も体験した」だとすると、あの椅子、岳くんがテレパシーを送受信する中継基地の役割を担っているのか。

「よかった」舞花が微笑む。

「またこうして海くんと会えた。毎回、会える時間に感謝しよう。この間久し振りに会って、強くそう思ったの」

「ありがたいな、その上、クリスマスプレゼントに舞花の手編みまでもらえるなんて。ところで、3ヶ月間、部屋でどんな風に過ごしてきたの。他には何をしてたの」

「最初はね、理不尽なことを強要する父に対して、怒りを絶対忘れないって、眉間に皺を作って頑張ってた。編み物以外は何もせずにただ、怒ってたわ。怒りを持続させようと努力してた。でもこのままじゃ、海くんに会う頃には気が狂っちゃってそう、少なくともブスになってそう、と思ったから、考えを変えたの」わかる、わかる。そのプロセス、とても舞花らしい。「確かに舞花がブスになったりしたら元も子もない。人類の損失だ」大真面目に言うと、何故か叩かれた。

「まず読みたい本リストを作って、賢太郎に頼んで週一、図書館に行って借りてもらったの。たくさん本を読んだ。小説はもちろん、エッセイから、詩集、哲学の本、料理の本…はお腹空いてるので途中で読むの止めちゃったけど、接客の本、マーケティングの本、経営のハウツー本まで」

「へえ、経営のハウツー本」

「そう、私に似合わないよね。でも、お店の仕事を経験してみて、接客業って私に向いてるかもって。いつか将来、自分でお店ができたらいいな、って。夢と言うか、まだ妄想の域よ」

 あの状況の中で、将来のために勉強していたのか。

「すごいね、素晴らしいよ」

「でしょー、ついでにね、海くん言い出しかねないから、先に予防線張っちゃうとね」

「何なに?」すると照れ臭そうに、「エヘヘ、舞花をずっと守りたいから結婚しよう、とか言い出しかねないじゃない。海くん」

「…」

「まあ、守ってもらわなくちゃ困る、それはそうよ、このか弱い美女を。フフフ、でも、しばらく結婚ワードは、なしね」

「よくわかってるね、俺のこと。驚きだ」

「そう、わかってるのよ。大好きだからわかるの。でも大好きな鈴木海斗くんが、三崎舞花の全部じゃいけないと思うの。二十六歳にもなったけど、私はまだ何者にもなれていない。親の影響すら一人で振り切れなかったわ。まず、しっかり自分の足でこの世界に立って、胸を張って海くんと一緒に歩いて行きたいの」

 いつの間にか舞花は、ベッドに座ったまま、僕の手を両手で包み込んでいた。優しい温かみを感じた。

「そうだね。それでこそ舞花だね」

「うん、そう言ってくれると嬉しい。本当に私、海くんが大好き」

 どういう訳か、舞花は涙を流していた。僕は彼女を抱き寄せた。

「お転婆な舞花。君は綺麗だけど、お姫様じゃないんだ。女戦士なんだね。ならば戦士二人、肩を並べて勇気づけ合いながら、人生の荒野を切り開いていこう」

 こんなにたくさん話せたのは、本当に久し振りだ。舞花は心配ない。明日からの希望が拓けた気がした。


 三月の夜は、まだ真冬だ。雪がちらついている。部屋に帰り着き、手に息を吹きかけながら鍵を取り出し、ドアを開ける。暖房をつけて、ソファに座る。コートのポケットでくしゃくしゃになったパッケージから1本取り出し、煙草に火を点ける。

 傍らに立てかけた、A3のスケッチブックを取る。3冊分にもなった舞花の素描画デッサン。舞花に会えない間にも彼女をイメージして描きためた。気に入った構図もいくつかはできてきていた。数枚を確認する。

「よし、そろそろいいかな」イーゼルとキャンバスを買おうと思った。気に入った完成品を仕上げる自信はまだないが、制作に取り掛かるのに、今がいい頃合いだ。そんな気がした。


 舞花の退院の日。街はずれの森の中にある病院に、僕の愛車で、賢太郎と一緒に迎えに行った。そして主治医になった心療内科医の先生と面会した。舞花のケースだと、まず摂食障害、拒食症が疑われたため、担当が心療内科になったらしい。

「私は様々な患者さんを見てきましたが、三崎さんは全く大丈夫ですね。検査も何も問題なく、精神的にも今はとても安定しています。特に退院後の環境はとても大事で、DVとかも含めて家族の方にも心配の要因が見て取れることがよくあるんですが、あなた方のようなご家族、恋人がいらっしゃるのなら本当に安心です」

 僕と賢太郎はほっと顔を見合わせた。「ありがとうございました」

 舞花は自宅に戻った。翌日、入院中に連絡していた、勤めていたカフェ『アリエス』にも早速行ってみたそうだ。

 体調を崩していたと話しても、店側は超ウエルカムで、身体さえ大丈夫なら早く復帰して欲しい、の一点張りだったとか。四月からホールリーダーへの復帰が決まり、さらに、正社員にしてもらえるらしい。

 それを受けて、舞花も実家から独立することにした。さすがに父親も引き止められない。

 これでやっと、舞花は望んでいた自由を手にすることになった。


「舞花、本格的に君を描くことにした」

 大きめのイーゼルとキャンバスを見て、ますます手狭な部屋に驚いている舞花に、僕は宣言した。

「週に何回か、少しの時間でも、岳に腰かけて絵のモデルになって欲しいんだ。ありのままの君を写し取る。でも写真とは違うんだ。絵には描き手の想いが投影される。君を愛する僕というフィルターを通した君を、ありのままに表現するんだ」

「わかる。難しいけど何となくわかる。何せ、海くんとはシンクロした仲だからね」

 急に顔を赤らめて「もしかして、裸を描くの?」

「いや、いずれ裸も描かせて欲しい、でもまず一作目の構想としては着衣だよ」

「いずれ裸もかあ。体型崩せないな、お肌の手入れも頑張らないと」

「そっちかい」恥ずかしいからと嫌がるのかと思ったら、女性とは不思議な生き物だ。

 創作が始まった。日によって、すごく筆が進む時と、そうでない時があって、まったく描けない日が続くこともあった。僕は急がないことにしていた。何故なら僕が創造しているのではなく、神様か誰かが僕に描かせている、そんな思いが強かったから。僕は神様のための器でしかない。すべてを受け容れて、心のままに写し取るのみ。

 舞花というモデルは、興味深かった。日々、描き手の気持ちに感応し、描きたい表情や形を与えてくれる。言葉のない、視線と呼吸のやり取りだけでも、彼女は僕を深く理解し、翌日さらにその理解を深くした。僕がモデルの舞花を掘り下げるように、彼女はそれに呼応するように描き手である僕を掘り下げ続けた。その情熱はまるで、原初的な欲望に似て、お互いを貪り合うような行為だったように思える。自然、絵の作業の後はベッドで愛し合うことが多かった。舞花のトラウマは、かなり緩和されてきているように思えた。

 絵は、狂気を呼ぶ。いや、絵を描いている時の僕こそが、まともなのかも知れない。そして、絵を描かれている時の舞花こそが、全てを剥がした真の舞花なのかも知れない。


 四月にやらなくてはいけない仕事と絵以外の僕のミッションは、ひとつは賢太郎と舞花に高級焼肉食べ放題を御馳走すること。舞花が焼肉を腹いっぱい食べられるまで、退院後、少し待つ必要があった。結果、都合を合わせてようやく行けたが、三崎家姉弟のあまりに容赦のない食欲と飲みっぷりに僕はノックアウトを喰らった。今月は逆さに振っても小銭も落ちない状況になってしまった。それでも、もうひとつのミッションも完遂しなくては。それは、舞花と二人で遠出し、花見をすることだった。


 桜の名所と呼ばれる場所へ、日帰りドライブに行く。舞花とのドライブは去年の夏の海以来だ。彼女が弁当を用意してくれて、レジャーシートを敷き、桜の樹の下で食べる。寝転がると、桜の木を通して日差しがまぶしい。秒速5センチメートルで舞い落ちる花びら、眼を閉じると、周りの喧騒がよく聞こえる。子供のはしゃぐ声、小型犬の吠える声、笑い声、自転車の音、舞花の鼻歌…

 瞬間、僕は桜台高校の通学路、桜の坂道にいた。今日から念願の高校生。舞花も同じ高校だから、同じクラスになると嬉しいな。桜の花びらが舞い降りる。そうか、舞花って名前は、この桜が舞い散るさまなのかな…遠くを歩くブレザー姿は、舞花なんだろうか。


「寝ちゃってたの?」

 僕の頬に押し付けられるすべすべとした温かいもの…あ、舞花のほっぺたか。レジャーシートに大の字の僕に、腕枕させていつの間にか寄り添ってる。

「気持ちいいね、もう死んでもいいかも」僕が呟くと「その時は連れてってね」

 不意に起き上がって「約束よ」とキスしてきた。舞花の髪に小さなピンクの花びらがくっついていた。


 滅多なことを言うもんじゃない。

 それまでは気分良く走っていた。黄昏は逢魔時おうまどき。視界が狭くなる。帰り際、山合いの国道で助手席の舞花が叫んだ。「海くん大変!動物!」

 左の前方、斜面から動物が駆けだしてきた。狸か。急ブレーキとともにステアリングを右に切る。すると、前方カーブから対向車が見えた。肝が冷えた。今度は左に急ハンドル。ぎりぎりかわせたが、ステアリングがロックしてしまい、車は横転し、ガードレールに激突した。エアバッグが作動し視界を塞ぐ。ようやく振動が止まった。僕は反射的に左手で舞花を捕まえていた。えらいことだ。

「舞花!大丈夫?」「大丈夫よ、心臓は一瞬止まったけど、怪我はなさそう」「よかった」二次災害を避けるべく、何とか車を這い出して、110番、119番をし、対向車に知らせるためにカーブの先に三角のハザード板を置き、舞花を助け出して、車から離れた。

「死んでもいいなんて言っちゃったからかな…でも怪我がなくてよかった」

「狸さんも含めて、みんな命に別状なくてよかったね。でも海くんの大事な車が…」

「仕方ない。でも車両保険もあるし」愛車は実際、廃車になった。

「本当に、大吾くんのところに行けちゃうのかと思ったわ」そう言ってしまってから、しまったという表情になって、「ごめんなさい、つい。深い意味はないの。気にしないで」

「大丈夫だよ、だって俺だって榊に会えるかも、って思ったんだ」それは本当だ。

「死んだ奴には誰も勝てない、でもやっと奴に会って勝負できるのかな、と思って」

「大丈夫よ」舞花が言った。「今の海くんは無敵よ。大吾くんは絶対敵わない。だから、そんな風に張り合わなくていいの。それに、私だけの大切な想い出でもあるから」

「そうだな、どんなに愛していても、鈴木海斗は三崎舞花の全部ではない」理解があるように振る舞いながら、僕は少し意地悪だったかも知れない。

 舞花は少し寂しげな顔をして、しばらく遠くを見ていた。あんな騒ぎだったのに、髪にはまだ、小さな花びらがくっついていた。


 その後、現場検証があって、病院に行き、警察に行き、様々な手続きがあって、とても面倒だった。電車を乗り継いで部屋に辿り着い時にはもう深夜になっていた。「泊まっていくかい」「ううん、私も明日は朝から仕事だし、準備もあるから今夜は帰る」

「今日はごめんな。でも、謝って済むレベルのことじゃないよね。怪我がないのが奇跡的なくらい、大変な目に合わせちゃったね」

「いいの、不運だったの。海くんのせいじゃないわ。これもまた、過ぎてしまえばいい想い出。じゃあね、おやすみなさい」

 翌日、もう一度警察や保険の手続きや色々あって、会社を休む羽目になった。それから次のクルマが手に入るまで、2ヶ月を要することになる。


 桜が過ぎ、桜よりはずっと密やかなハナミズキの時期が過ぎ、生垣で白やマゼンダの色鮮やかなツツジの花を目にするようになる。

 クルマもないし、風薫る季節に残念だけど、ゴールデンウィークは引きこもって絵に没頭しようと決めていた。ただ、舞花の方はカフェ勤めで連休など無関係なので、モデルがいる時間は限られてしまう。一人の時は、そのために撮っておいた写真やイメージと格闘しながら、絵具を塗り重ねていく。

 舞花の持つ清潔感、艶やかさ、風を運ぶような空気感。それらを表現しなくてはならない。それも過不足なく実際そうであるような絶妙なバランスで。ルノアールやフェルメールを観て僕が感動したように、光と戯れるような絵にもしたい。理想が高過ぎなのは、わかってる。

 体重も戻って、仕事のハードワークをこなすためにスポーツジムでトレーニングも始めて、痩せこけていた舞花は、痩せ型ながら本来の健康的でフェミニンなスタイルを取り戻している。今の、最も美しい舞花を切り取りたい、そんな情熱に僕は取り憑かれていた。

 連休は創作一辺倒で、眠ることも、食事することもおざなりになった。

「メールも見ないのね、連絡取れなくて困るわ」文句を言いながら部屋に舞花が現れて、ようやく一緒に20時間振りの食事を摂るとか、そんな有様だった。買い物の袋を置いて、彼女がキャンバスを覗き込んだ。

「わあ、私だ」「うん」「これが海くんの私なんだ」「そうだね、まだ未完成だけど」「これ、完成したらどうするの。この部屋に飾るの。それともコンテストとかに出すの」

「決めてない。できてから考えようと思ってた」

「もしよかったら、私にちょうだい。一生、大切にする」いつもは気まぐれな仔猫のくせに、仔犬のような顔をする。初めて、舞花が何かを僕にねだった。嬉しくない訳がない。

「鈴木海斗画伯の処女作、すごい値打ちが付くかもね。しかも最初のモデルが誰あろう、わ・た・し」

「あげるよ、俺の処女作。未完成なので出来ばえは保証できないし、画伯になる予定もないけどね」

「やったー!今世紀で一番嬉しいっ!」

「でも、ひとつだけ。あと一人、どうしても見てもらいたい人がいるんだ」

「誰?」

「舞花のお父さんだよ。この絵を見て何を感じるか、是非聞いてみたいんだ」

「そうね、絵を通して、海くんの私への想いが、本当の海くんの人となりがお父さんにも伝わると思うわ」

 そう言って舞花は僕に、キスした。

「ねえ、海くん、会社辞めて芸術家になっちゃう?私、パトロンになっちゃおうかな」

「どういうこと?食えなくなるよ」

「私が頑張って、今よりガツガツ仕事して、売れるまで海くんを養うの。だって海くん、絵だけじゃなく音楽でも詩でも一流だと私思うよ」

「冗談やめてくれよ、ない、ない」

「そうかなぁ、創作している時の海くん、いつもの三割増しで超大好きなんだけど」

 僕がまた黙々と絵を描き始めたので、その話はそれきりになった。

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