第6話 彼女の肖像

 新しい部屋での生活が始まった。

 舞花は自宅と僕が借りた部屋、半々の生活、のはずが、想像できた成り行きとして、二人の部屋で過ごす割合が段々と高くなっていった。

 僕が仕事を終えて帰る時間、ほぼ一日置きに、舞花が部屋で迎えてくれる。精一杯仕事を早く片付けて、それでも部屋に帰り着くのは概ね9時。舞花の手料理と缶ビール、乾杯して、ほんの小一時間、会話と食事を楽しむ。それが至福のひと時だった。

 舞花は、時には「今日は家で晩御飯食べる約束なの。ごめんね」と僕一人分の料理を作って、自分は食べずに帰ることもあった。

 しかしいつしか週に一度は、部屋に泊まるようになる。

「大丈夫かい?ご両親」「大丈夫。子供じゃないんだから」そう笑っていたが、きっと戦っているんだろう、と思った。

 狭いシングルベッドで、抱き合うようにして眠る。すぐ隣で、小さな寝息を立てている。そんな舞花がとても愛おしかった。


「海くん、いびきうるさいっ!でももう慣れたから気にしないでね。疲れてるんだね」

 舞花が泊まった翌朝は、朝食を一緒に取って、僕が先に部屋を出る。ご近所の手前、部屋の中から手を振る彼女に右手を上げて歩き出す。「よし、頑張ろう」と思う。いつかこの朝を、当たり前の、毎朝のことにしたい。

「この間自宅いえで寝ててね、目が覚めて海くんがいないからちょっと泣いちゃった」

 毎晩舞花といられたら、どんなに素敵だろうと思う。でもすぐに思い直した。一緒にいることが奇跡なんだ。以前に比べたら、なんて贅沢な願望だろう。


 気になることがあった。舞花は、何があったのか、性的な部分でトラウマを抱えているようだった。セックスは、許し合うこと、お互いの実在を確かめ合うこと。僕には大切だったが、時に舞花は怯えたり、僕の行為を反射的に拒むことがあった。最初は驚いたが、すぐに事情があると理解した。そんな後、彼女はひっそりと泣いた。僕は何も聞かなかった。そっと髪を撫で、キスをして、細い身体をひととき、抱きしめた。

 愛し合っていても、お互い別の人格。全てを分かち合うことなんてできない。相手の何もかもを独占しないと気が済まない人は多いが、僕にはそんな風に束縛することも、束縛されることも堪えられない。

 それは舞花も同じで、僕らはそんな価値観がよく似ている、そう思った。もちろん気にならないはずもない。でも僕は舞花に何も聞かない。いつか自分から話してくれればそれもいいし、永久に話してくれなければそれでもいい、と思っていた。今現在の彼女は手の届くところにいて、僕に心を寄せてくれている。それで十分だと思った。知ったとして、過去は変えられない。これからは、僕が舞花を守っていく。その覚悟こそが大事なんだ。


 舞花の勤め先のカフェ『アリエス』には、何回か客として行った。飲食店だから、もちろん土日祝も営業している。僕らは土日どちらか休みが合えばいい方だった。僕は暇だから、舞花の働く姿が見たくて、ランチや午後のお茶に立ち寄ることになる。駅から少し離れているが、最近注目のエリアにある、なかなかお洒落で評判のいい店だ。

 いつも店に入る前に頑張ってるかな、と外から覗く。いつもの舞花より、10パーセント増しで、背筋が伸びた舞花を見つける。ホールスタッフは二十歳前後の若い女の子が多くて、二十五歳の彼女は年長組だったが、髪をまとめて、白のブラウスに赤いスカーフの制服を着こなしたスタイル、笑顔も身のこなしも凛としていて、ひいき目ではなくピカイチだった。実際、ホールリーダーのような役割で客からの評判も一番らしい。そうだろう。舞花がいるだけで客が入るに決まってる。

 職場の舞花は、僕の部屋の仔猫とは程遠い。僕を見つけても素知らぬ振りをする。プロ意識かと思いきや、すれ違いざまいきなり得意のウインクを飛ばしてきたりする。この間なんて、僕しか見ていないほんの1秒、変顔をして通り過ぎた。僕は危うくコーヒーを噴きそうになった。後でトイレでくすくす笑ってるに決まってる。まったく、相変わらずのいたずらっ子だ。


「岳くん」に座った舞花の肖像を描くために、僕は絵を習い始めていた。油彩画だ。僕は昔から絵心があって、物心ついた時には一心不乱に絵を描いていた。小学校の頃はマンガを描いて、クラスメイトに回したりもしていた。もっと前は歌手になりたかったらしいが、次に憧れた職業は漫画家だった。

 担任がコンクールへの挑戦に熱心だった小学校五年の時には、一年の間に三回も入選をもらったりしていた。だけど、中学一年でマンガも描かなくなって、絵を描くなんて、それ以来だ。描きたいと思ったこともなかった。だけど、何故か自信があったんだ。僕にしか描けない、舞花の絵を描く。きっと描けると思った。そしてそれは、たった1枚かも知れないが、鈴木海斗画伯の一世一代の作品になるはずだ。


「ねえ、何してるの?」僕がスケッチブックを広げると、舞花が寄って来る。

「だめだよ、座ってなって」

「私のこと、描いてくれるの?」

「そうだよ。そのために絵を習い出したんだ。舞花の肖像を、最終的には油絵に仕上げる。まずは、素描デッサンなんだ」

「いいのが描けるといいね」

「そうだね、数をこなして、素描デッサン力を鍛えなくちゃ。いつか納得の下描きができたら、それをキャンバスに写し取る」

「そうかあ、楽しみ。でも気長に待たないとって感じだね」じっと僕を見つめた。

 今の舞花を例えるなら、やっぱり仔猫だな、と思った。


 あの二人だけの同窓会の夏からこっち、時間が飛ぶように過ぎる。考えると、色々なことがあった。舞花とドライブに行って、つき合い出して、今や半同棲の状態だ。半年前には想像もできなかった幸せの中に、僕はいる。もう秋も深まって、十一月。もうすぐ舞花の誕生日が来る。

 僕と舞花は、同じ射手座の生まれ。ハンターの星だと以前に書いた。でも舞花の方がひと月近く早く、二十六歳になる。さて、どうしよう。何かプレゼントを用意しなくちゃ。

 何が欲しいって聞くと、遠慮するんだろうな。指輪もいいな。でも細くて長い指ということはわかるけど、何号とかサイズが分からない。結局、ネックレスにしようと思った。ショーケースに張り付くように見ていたら、見かねた店員の女性に声を掛けられた。

「贈り物ですか」「ええ、まあ」「お誕生日ですか、クリスマスには早いですもんね」「はい、そうです」彼女は巧みに舞花の特徴を聞き出し、「すごい素敵な彼女さんなんですね。色白で痩せ型なら、これなんか絶対お勧めです」小さな石の付いた、上品な細い鎖のネックレス。んー、そう言われると、確かに似合う。ていうか、舞花のために存在しているとさえ思えてきた。軽々と予算オーバーだったが、仕方ない。奮発するか。

「ありがとうございます。幸せな彼女さんですね、こんな素敵な彼氏から、こんな素敵な贈り物。本当はこれ、私が狙ってたんですけど、きっとお客様の彼女さんの方がお似合いです」

 そこまで言われると悪い気はしない。店にすれば、なんてくみしやすい客なんだろう。

「よかったらまた今度、彼女さんとご一緒に来てください。私お会いしたいです」深々と頭を下げる。同年代に思える感じのいい店員さんだ。どうやら僕は、あるいは舞花まで含めて、この店員さんの上顧客の仲間入りをしてしまったらしい。やれやれ。


 さて、舞花の誕生日。今日は僕も頑張って早上がりして、彼女も早い時間帯のシフトにしてもらった。食事は、美味しいと評判のイタリアンレストランを予約してある。カフェに勤める彼女が一度行きたいと言ってた店だ。

 食前酒にシャンパンが出て、まず誕生日に乾杯。アンティパスト、サラダ、魚料理、肉料理。どれも手が込んでいて、スペシャルな味がした。舞花はいちいち喜んで、大切に味わうように食べる。どっしりした赤ワインとボロネーゼのパスタで満足した頃、店内の照明が落ち、キャンドル付きのケーキが現れて、ハッピーバースデータイムになった。主役はもちろん、舞花だ。

 店員と他のお客さん、初めて会う人達の祝福の中、舞花は最高の反応だった。瞳をキラキラさせながら、小さな炎を吹き消した。こんな美人のハッピーバースデータイムは、なかなかないだろう。スタッフが構えたカメラで写真に収まったが、あまりに素敵に撮れたので、店に飾っていいか、ホームページに載せていいか、と帰り、写真を受け取るときに交渉された。

 僕は舞花にプレゼントを手渡した。歓声、指笛に拍手。舞花が丁寧に包装を解いて、現れたネックレスにさらに眼を輝かせた。

「可愛い。海くんのセンス…すごいね」「付けてあげるよ」後ろに回って僕が細い首に巻いてフックを止めてあげる。ふわっと舞花の香水の香りがした。「ありがとう」何だよ、これしきで眼をうるうるさせちゃって。舞花が感動しているのがわかった。ああ、よかった。店のチョイス、プレゼントのチョイス。ファインプレーだったかな。僕にとっても忘れられないひと時になった。

「皆様ご協力ありがとうございました。幸せなお二人にもう一度拍手を」店からのアナウンスが入り、ひと時のイベントが終わった。ふと見ると、舞花が泣いていた。

「あれれ、どうしちゃったのかな?舞花さん。主役なのに化粧取れちゃうよ」

「グスン…嬉しかった」とすすり上げる。

「実はね、今日父と喧嘩しちゃったの。私お父さん子で子供の頃からお父さん大好きだったのに、最近うまくいってなくて。家から一歩も出るな、と怒鳴られて。でも、振り切って出てきちゃった」そうだったのか。「こんな風に親に逆らうのって初めて。本当はすごく憂鬱で、せっかくの海くんがセットしてくれた誕生日のお祝いなのに、不機嫌な顔しちゃったらどうしようって。なのに、こんな、こんな…」また顔を両手で覆ってしまった。いつも気丈な舞花が、珍しいこともあるもんだ。しょうがないけど、また店中の注目の的だ。

 大丈夫かな…舞花と父親との関係に、僕は不吉なものを感じていた。その予感は後日、最悪の形で的中することになる。


「舞花はとてもいい子だ」ずっと父親にそう言われて、育てられてきた。舞花は父親が大好きで、ずっとその期待に応えようと頑張ってきた。「舞花は美人になるぞ」「舞花は字が上手だね」「舞花はお父さんに似て本が好きだね、賢くなるぞ」振る舞いも、言葉遣いも、読書や勉強も。それが舞花の生い立ちだ。母親は同性の舞花に厳しく、今も昔も弟を溺愛している。父親に可愛がられ、母親に躾けられた。教育のしっかりした家庭で、何不自由なく大切に育てられた。天真爛漫さ、節度、頑張り屋、他者への優しさ。その環境が舞花を作り上げてきた。

 子供にとって親とは、ある時期まで絶対服従の対象だ。親が子を愛すれば愛するほど、期待すればするほど、子供は親の期待に応えたいと思い、裏切れないと自分を追い込む。期待を裏切った時、またそれ以上に期待されなくなった時、救いようがないくらい子供は傷つく。舞花の心持ちはよく分かる。例えば反発や反抗でさえ、親の期待に対する反作用や、親の諦めへの反動として起きるものなんだ。


 舞花の父親のことが気になりながらも、忙しい毎日に容赦なく時は過ぎていく。年末の掻き入れ時、仕事に忙殺されながらも、僕は時間を見つけて舞花のデッサンを書き溜めていった。また、土曜日の油絵だけは、舞花とのデートが重ならない限りさぼらずに通っていた。

 美術館にも行き、様々な絵も見た。図書館で名画の本も見た。ルノアールの光の表現か素晴らしい。でも一番はフェルメールだった。『真珠の耳飾りの少女』『青いターバンの少女』とも言うらしいが、あの刹那の少女の表情の煌めき。眼差しのリアリティに圧倒された。あと、やはりフェルメールと言えば光の画家。左上から差す自然光、現存する作品の点数は少ないものの、現代でも世界で愛されるのは、科学的とさえ言っていいような、その徹底したリアリティとそれを実現させる眼、画力。望むべくもないかも知れないが、『真珠の耳飾りの少女』のように、舞花の煌めきをすくい取りたいと思った。できっこない?そうだろう。しかし創作だ。目指すところは高い方がいいに決まってる。


 いつしか、十二月も半ば。僕の誕生日が近づいてきていた。その4日後は、もうクリスマスイブだ。プレゼントをどうしよう。アクセサリーをあげたばかりだから、財布とかバッグかな、ぼんやり考えていた。

「うん?」誰かの視線を感じた気がした。気のせいか?しかし、今だけではない。最近何度か同じ感覚に囚われた。舞花と一緒の時もあった。

「ねえ」「どうしたの」「さっきから、誰かに見られてない?」「えっ、わかんない」「せえの、で振り向くよ。いいかい」「せえのっ」怪しい人影は確認できなかった。でも間違いなく誰かに尾けられていた。最初、舞花がストーキングされているのかとも思ったが、どうやら違う。尾けられているのは僕の方だった。

 数日して、その感覚はなくなった。気のせいか?いや、そうじゃなかった。このまま何も起こらなければいいんだけど。

 そんな時、突然、見知らぬ番号から僕の携帯に電話がかかってきた。折も折だ、嫌な予感しかしない。

「はい」

「もしもし、鈴木海斗さんの携帯でよろしいでしょうか」男性、五十代くらいか。心当たりがない。いや、本当は一人だけある。

「はい、そうです」「突然電話差し上げてすみません。私、三崎と申します。舞花の父親です」ついに来た。寒い中だが、じわっと身体に汗が滲んだ。

「お世話になります。ご挨拶できていなくてすみません。…ところでご用件は何でしょうか」

「驚かせたようで申し訳ない。実は私、鈴木さんに一度お会いしたいと思っていました。もちろん娘のことで。できれば明日の夜とか、ご都合いかがですか?」

「大丈夫です。夜7時なら、都合つけられます」

 対決の時が来たと思った。最強、最恐、最凶の敵と。もちろん僕に勝ち目など、これっぽっちもイメージできない。


 このことを舞花に話すか。少し考えて、止めようと思った。

「どうしたの、元気ないね」その後部屋に戻るなり、舞花に心配されてしまった。「この頃残業が多いからな」そう誤魔化した。舞花に話しても、心配させるだけだ。解決策のない、ループする不安に眠れなくなるのが落ちだ。僕も一晩中、このことを話すような気力もない。明日は男同士話し合って、その結果で考えればいい。明日は明日、出たとこ勝負…そう思いながら、やはり眠れなかった。

 朝方、夢を見た。会ったことのない舞花の父親に僕は手錠をかけられ、地の果ての監獄島に護送され収監される夢だった。独房のベッドに横たわり、状況を悔いている。

「舞花に会いたい」

 …目が覚めた。僕は実際、涙で枕を濡らしていた。今日訪れる現実が、夢よりましである保証は何もない。

 ベッドから半身を起こしつつ、左隣りを見た。舞花は何も知らず、幸せそうに寝息を立てていた。

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