第5話 HEAVEN

 さて、どこに行こう。二人だけの同窓会。

 もともと三人のつもりだったので、店の予約はしていない。流行りのカフェに向かったが、生憎の行列。並ぶには暑すぎる七月だ。

「ここは二軒目にするとして」向かったのは屋上ビアガーデン。色気のないチョイスになってしまった。まだ日が沈まない時間帯から、舞花とジョッキで乾杯する。舞花とジョッキで乾杯?とても想像できなかったシチュエーションだ。

「残念だったね、今日は。結局二人になっちゃうなんてね」

「そうね、でも海くんとこうして話せるからいいわ。一番話したかったの海くんだったから」

「え、そうなの」正直、嬉しかった。

「中学、高校とずっと私を見てくれていたでしょ。でももう高校出てからも随分になるね。七年も経ったんだ。この歳になって、こうして一緒に飲んでるのって、不思議ね」

「うん、俺すごくドキドキしてた。今日、三崎に、いや…舞花に会えるのが」

「そうなの、光栄。…ねえ、中学、高校と二度も告白してくれたじゃない。覚えてる?」

「おいおい、それはこっちの台詞だよ。告白した方が忘れるわけない」

「そうよね。でも、された方も忘れないよ。困ったふりしたかも知れないけど、本当は嬉しかった。二度ともとても嬉しかったの。でもね、なんか、儀式みたいに感じたの。本当につき合おうと思ってた?告白すること自体が目的だったんじゃない?」

 痛いところを突く。その通りかも知れない。

「中学の時の手紙はともかく、高校の時のあれは、もし私がその気だったとしても、あの場でうんとは言えないよ」

 そんなものか。大好きな相手なのに、相手の都合を考える余裕はなかった。どこかで本当につき合えるとは思っていなかったんだ。

「でも、誤解しないでね。やっぱりつき合う気はなかったわ」そう言って笑う。

「ひどいかな、私」「うん、かなりひどいよ」でも僕も笑っている。

「あの頃はね、榊くんとうまくいってなかった頃で…」少し遠い目になって「榊くん死んじゃって、ずるいよね。残された方は引きずらないわけないじゃない」

「確かにずるいね。死んだ奴には永久に敵わないよ」

 舞花が一瞬黙って、ちょっとびっくりしたような顔で見た。

「何それ?可笑しい」本当に笑い出した。「男の人ってそういう風に思うんだ。海くんってあの頃のままね、いやいや、そんな訳ないか」

 僕の方を向いて座り直し、きりっと僕を見て、「ねえ」「うん?」何だよ、改まって。

「モテるでしょ、海くん」「なんだそれ」今度は僕が笑いだす番だった。

「いや、そうだな。正直、昔よりは少しはモテるかも」

「でしょー、なんだかカッコいいもん、このー女たらしっ」

「おいおい、茶化すなよ。でも、モテたとしてそれが何なんだって。モテると言えば、昔から舞花ほどモテる子もいないと思うよ。だから何なんだって、そう思わない?」

「それは…思う。勝手なイメージにはめ込まれて、窮屈よ。…ま、そういう意味では、私に対する勝手なイメージは海くんが最たるものね。そのイメージが恐ろしくて、私つき合えないって思ったもの」

 勝手に美化したイメージは、相手にとっては怪物なのか。僕は確かに舞花の実像に恋をしていたのか、言われてみれば自信がない。でも、中学時代のあの放課後の掃除、あの時の君は…。

「掃除?そんなことあったかな、うん、思い出してきたかも」楽しそうに笑う。「私、優等生だったからね。あんなことに騙されちゃったのかぁ」

「騙された。いや、騙され続けてるよ」今でも。

「じゃあ、あとそうだな、夏祭り、覚えてる?」

 繰り返し反芻した、すれ違ったあの一瞬だ。「いつの?」「大学一年。舞花は松田といたよ」「倫子ね。ううん、覚えてないなあ」嘘だ、覚えてるよ、何故だかそう思った。

「ついでに言うと、舞花は黄色のショートパンツ履いてた」

「ええっ?そんなことまで覚えてるの?海くんストーカーっぽい」少し斜に構えて引き気味にジロリと睨む。そんな表情もできるんだ。

 確かに。何も言えない。尾行や待ち伏せをしないだけで、執着という点ではストーカーと少しも違わないかも知れない。

「ねえ、昔の私と今の私、どう違う?」

 どう答えればいいんだろう。もう少女の頃特有の可憐さはない。でも、就職したての頃に偶然会った、あの時とも明らかに雰囲気が違う。大人になった。憂いみたいなものを身に着けた。昔と変わらない笑顔の向こうに、哀しみが透けて見えるんだ。

「ひょっとして、何かあった?」

 僕のその何気ない言葉に、明らかに舞花は動揺した、一瞬そう見えた。

「質問に質問で返すのは反則よ。んー、でも白状するとね、会社辞めた」

「そうなの?」秘書は天職に思えたのに。

「いろいろあってね、疲れちゃった。仕事って何なんだろうって。私も男に生まれればよかった」

 幸せを約束されたような容姿が。仇になることもあるのか。勝手なイメージや、注目されるだけに誇張された虚像が、彼女を苦しめるのだろうか。いやもっと、何が深刻なことがあったのかも知れない。さすがにそこまでは、聞けない。

「三崎舞花、ここまでの人生で最大の挫折かも。今はアルバイトで喰いつないでるわ。就職は父のコネで受けたのもあったから、家族ともうまくいってなくて」

「そうか、大変だったね。月並みだな…どうも気の利いたことが言えなくて」

「いいの、いいの。愚痴みたくなっちゃった、私こそごめん。海くんは仕事頑張ってるんでしょ」

「まあ、大変だけどやりがいはあるかな」

 とりとめのない会話は続く。大学時代のこと、仕事のこと、バンドのこと。

「へえ、海くん曲作るんだ。歌詞も。そうか、中学の時から才能の片鱗あったよね、聴きたいな」

「そのうちにね。でも今夜、この同窓会が終わると…また長いこと、舞花と会えなくなるのかな」

「え、私とまた会いたい?」

「もちろん、会いたい」

「相変わらず直球なのね、これじゃ大概の子は口説かれちゃうな」


 二時間飲み放題のビアガーデンはあっと言う間に追い出される時間になり、先に覗いたカフェに河岸を移した。

 舞花は酒が強い。カクテルを小気味いいペースで飲む。僕もカッコつけてバーボンやジンを頼む。やべ。ちょっとペース落とさなきゃ。

「強いね、俺も多少自信あるけど、負けそうだよ」

「なんだかね、あまり酔えないの。口説かれても口説いてる方が先につぶれちゃったり」

「わかるなぁ。危険な女だ」

 でもさすがに、眼がトロンとしてきたぞ。きっと僕もだけど。

「ねえ、海くん」「何?」「私のこと、もう口説かないの?」流行りのレゲエが耳についていた。

「何だって?聞こえなかった」

「何でもない」

「ずるいよ、もう一回言ってくれ」

「口説いてもいいよ、って言ってるの!」

 舞花の吐息を感じた。近いよ。少しむくれた、綺麗な顔が。

「うんと…そうだな、考えとこう」

「だめ、考えさせない」酔ってきたな。

「私ね、海くんに感謝してるんだ。昔こんな私のこと、好きだって言ってくれたから。久し振りに今日会って、幻滅させちゃった?」

「幻滅なんてしないよ、今現在のリアル舞花に会えた。期待通り、いやそれ以上に、すごく楽しいし、新鮮だった」

「ありがとう。ほんとに感謝。私、海くんの希望を何か叶えてあげたい」

「酔ったな。危ないこと言ってるよ」

「失礼ね。まだちゃんとしてるわ。ねえ、私に何かできることない?私にできることなら何だってしてあげる」

「そうだな」この一瞬、酔いが吹っ飛んでいた。重要な局面だ。

「凄いこと言っちゃうかも。後悔するなよ」今夜は帰さない、一晩一緒にいてくれ、俺に抱かれろ、とか。

「大丈夫よ。準備OK」酔いを振り払い、舞花も僕をまっすぐ見つめる。

「来週、またデートしてくれ」

「うん、お安い御用」

 まだウインクできる程度には、舞花も酔っていないようだ。

 え?まさか、本気か?


 夢のような夜だった。本当に夢じゃなかったのか。

 僕の初恋は片想いのまま、長く棚ざらしにされて、決着がついていなかった。事あるごとにうずみ火が顔を出したが、まさか、またこんなに燃え上がる時が来ようとは。

 これが最後のチャンス。でもこのチャンスはこれまでとまるで意味合いが違う。これからは、僕次第かも知れない、


 翌日の夜、舞花に電話した。

「昨夜は飲んだねー、二日酔いだったよ」

「私も。さすがに飲み過ぎちゃった。でも本当にすごく楽しかった」

「ところで覚えてる?約束」

「忘れた。…フフフ、嘘。もちろん覚えてるよ。今度の日曜日、楽しみにしてる」

「じゃあ、今度は俺のクルマで、海へ行こうよ」

「わあ、素敵。ますます楽しみ」


 次の日曜日、ドライブデートをした。僕のクーペで、真夏のドライブだ。海を目指して西へ向かった。とっておきの選曲、僕は口笛を吹く、舞花も知っている曲は口ずさむ。相変わらず綺麗な声だ。強い日差しも波の音も、何もかもが最高の舞台装置だ。マリーナに立ち寄り、海辺のレストランで食事して、港の公園を散歩する。何を話したろう。何度はしゃいだだろう。波打ち際で遊び、潮風に吹かれた。

 夕陽が沈む頃、防波堤に腰かけて、トランクに忍ばせたギターを抱えた。大好きな舞花だけのためのライブだ。絵を描くように情景を切り取りたい。そう思って作った、ここのところお気に入りの曲を歌った。


 マティーニに落ちた夕陽


 潮の香りの中を 風に吹かれて

 車を走らす 海沿いの国道

 洒落た白い建物 入り江見下ろし

 愛した二人が 夏過ごしたホテル


 二階のロビーには 愛想のいいクローク

 ルームキーを受け取る 今日はひとりで

 季節の移ろいがもたらした静けさの

 ほかには 何もかもが あの頃のままさ


 夕暮れにはレストランバー 西向きの窓

 静かな時間が君は気に入ってた

 いつものやつをツーショット 暮れきるまでに

 火照った肌には酔いは心地よくて


 君はいつもモスコミュール

 僕はマティーニ・オン・ザ・ロック

 飽きもせずに窓越し 夕陽を見つめて

 あの夕陽がグラスに 落ちれば素敵なのに

 そう言っては微笑む 君の面影


 君がいればさぞかし

 はしゃぐだろう この季節(It's autumn)

 ごらん、僕のマティーニに

 夕陽が、落ちた


 たった一人のオーディエンスから拍手が来た。

「とても素敵な曲。マティーニに夕陽が落ちちゃうんだ。海くん、気障な詞を書くのね。でも現実は違うよ」

「どういうこと?」

「もし秋にまた海に来るとしても、ひとりじゃない。私も一緒よ」

 そう言って、舞花は僕の左肩に頭を乗せた。僕は左手で舞花の腰を抱いた。

 これまでに経験したことのない、満ち足りた時間。十分に語り合い、確かめ合い、もうこれ以上わざわざ、言葉に託す必要もない。

 夕陽に照らされて、僕は初めて舞花とキスをした。抱き寄せた肩はやっぱり華奢だった。心から舞花を守りたいと思った。舞花を守るためなら、命を捨ててもいいと思った。

 これまでのことは、今日この時のためにあった。すべては報われた。舞花の頬を撫で、髪を指で解かして、切実にそう思った。

 中学二年のあの秋の夕陽。それに優るとも劣らない夕映えを見届けて、立ち上がる。一緒に街に帰ろう。明日からまた日常が待っている。でも、もう何も怖くない。僕は一番大切な、一番価値のあるものをこの手に入れたんだ。


 女神を捕まえた僕は、すべてが上手くいきだした、と感じた。体調も絶好調、仕事もうまくいく。明るい顔になったのか、人間関係も順調だ。荒んでいた頃とは別人のようだと自分でも思う。これほどまでに、愛は人を変えるんだ、と実感した。

 今度はどんな映画を観よう、どんな曲を書こう、どんな料理を食べに行こう。一緒にどんな景色を見よう。すべては舞花とともにある。

 舞花はいつも静かな微笑みで僕を見て、人目を気にしながら手をつなぐ。必要以上にベタベタすることはない。そのあたりの趣味、価値観が、僕らはよく似ていた。

 僕もルックスは悪くない方だと思うが、それでも不釣り合いなほど舞花が美しすぎることが悩みか。街を歩くとみんな振り返る。舞花のあまりの美しさに振り返り、僕を見て「なんだこいつ」みたいな顔をする。僕は「ざまあ見ろ」と呟く。


 仕事を辞めた舞花は、カフェでアルバイトをしている。これから何をするのか、何になるのか、時間をかけて考えたいと言っていた。それでいい。でもアルバイトだからけして収入は多くない。それでも自宅にはあまりいたくない、と言う。僕は部屋を借りることにした。同棲とまではいかないが、舞花と一緒の時間を過ごすために。もちろん本当の理由を言わず、親を説得した。二十代も後半に差し掛かる。もはや独立に反対される理由もなかった。


 一緒に部屋を決めた。広くはない。1LDK、小ぢんまりしたリビングダイニングと、寝室兼書斎のひと部屋。十分だ。駐車場も探さなきゃ。こりゃ貧乏生活になるな。

 引っ越しが済んで、舞花と買い物に行く。一緒に電化製品や、家具、食器、カーテンを選ぶ。二人の生活が始まるようで、見てまわることがとても楽しい。

「舞花、部屋に欲しいものはない?」僕は尋ねた。「遠慮はいらない。舞花が居心地いいことが大事なんだ」

「そうね、一つだけおねだりしていいなら」「うん」「椅子が欲しいの。さっき見つけたアームチェアが素敵だった」「わかった。それ買おうよ」

 そう言われてみると、さっき輸入家具の店で、舞花がしばらく見てた木製のアームチェアがあった。さして高くはない。僕はそれに座っている舞花をイメージした。悪くない。窓際に置こう。そこが舞花の居場所だ。


 早速持ち帰って、窓側、寒い時期には陽だまりになる位置に、アームチェアを置いた。舞花は「がくくん」と名前を付けた。

「何でそんな名前にしたの?」

「彼、海くんのライバルなの。山ちゃんじゃ弱そうで勝てないな、と思って」

 可笑しそうに笑う。何考えてんだろう。でも大好きなんだ、その笑顔。

 引っ越したばかりの部屋の特等席にその椅子は納まった。椅子が特等席なんて可笑しいんだけど。これを言うと舞花はまたひとしきり笑うだろう。


 岳くんの、いや舞花のアームチェアの横に観葉植物を置こう。「物を増やしたくないけど、これだけはいいよね」

「海くん、そのセンス最高」ウインクしてみせる。僕もウインクを返す。これからの暮らしに心踊る。

 観葉植物、幸福の木には僕が命名した。

「花ちゃん、いや花咲かないから、葉子にしよう。もちろん、舞花のライバルだ」

「望むところよ」舞花は観葉植物相手に、真面目な顔でファイティングポーズを取った。


 アームチェアに座る舞花。

 一緒にいるようになると、イメージよりずっと喜怒哀楽を見せる彼女は、まるで仔猫のようだった。特に化粧もせず、部屋着でくつろいでいる時は、年齢よりずっと若くも見えたし、何より無邪気で無防備だった。

 真剣に本を読む君、テレビを見て泣いている君、僕の言葉に膨れて膝を抱える君、何かがツボにはまって笑い転げる君、うとうとと居眠りする君、ぼんやり何かを考えている君。

 ずっと舞花は「岳くん」に座り、僕はソファに座ってそれを見つめた。何度か写真に撮ってみた。何か違う。ピースサインはいらないし、カメラ目線もいらない。あまつさえ変顔なんて頼んでもいない。スナップを撮ったとしても、僕の腕のせいなのか、思ったような写真にならない。

 僕は舞花の肖像を、僕のイメージごと切り取るために、絵を描いてみようと思った。

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