第3話 パラレルの軌跡

 僕が入学した東亜大学は、学生数が全国でも屈指に多い総合大学だ。

 自宅から片道1時間強、私鉄の最寄り駅から大学までは1キロほどの距離があるが、その道程は『親不孝通り』と呼ばれるほど、喫茶店や食べ物屋、雀荘にパチンコ屋が立ち並ぶ、向学心に欠けた能天気な大学生には危険な商店街だ。

 駅から歩くとやがて赤いレンガ造りの正門が見える。それは校舎を兼ねている、わが法学部のメイン校舎。行事が多い春、友達があまりいないうちは『親不孝通り』の誘惑を断ち切れていたが、そのうちに大学に行くまでに喫茶SUNNYで待ち合わせ、なんてことになってしまう。これはもう仕方がない。


 大学生になると格段に世界が広がる。高校までは、特に公立高では学区の縛りがあって、似た環境で育った者たちが集まっている感があるが、大学は男子校出身者も多く、地方出身者も多い。法学部ということもあり、高校まで付き合っていた連中と比べて、お堅い、朴訥な感じの奴らが多い気がした。


 舞花の大学は、四年制の聖学館学院女子大。お嬢様学校と評判の大学だ。どちらかと言うと、桜台高校のあった地元からさらに郊外にあたり、僕とは全くの方角違いだ。

 もう会うこともないと思っていたが、高校時代の友達と当然僕も繋がりがあるから、噂話は耳に入る。


 ある時、いきなり噂で、榊大吾が死んだ、と聞いた。舞花の元彼だ。バイクの単独事故らしい。

 聞いた瞬間、鳥肌が立った。息が詰まる感じがした。榊とは、直接にはお互い顔見知りでしかなかった。舞花に告白した時期、すでに別れたと聞いていたのたが、どうやらその後も舞花と繋がりはあったらしい。僕は局外者で、別れた事情も、再び付き合っていたのかも知らない。でも胸がきりきり痛んだ。残酷すぎる現実をどんな気持ちで受け止めたんだろう、舞花は。


 榊だけではなく、何故か当時、中学高校での友人や知り合いが続けて何人か死んだ。車の事故で、あるいは田んぼの中で倒れていて不審死扱い、という奴もいた。

 十代後半は脆い。大人になることに憧れを抱きながら、大人になることをどこかで拒んでいるようなところがある。不安定で無謀に流れる危険が潜む。実際に僕も高校の頃は思っていた。

「二十歳を過ぎたら死んでもいい、俺たちには今しかない」親が聞いたらどう思うだろう。実際、二十歳を過ぎた頃、妙な倦怠感があった。何もできずに十代を終えてしまった小さな挫折と呼んでもいい。

 鮮烈に生きて、死んでしまった奴にはもう一生、勝てない。生き残ってしまった者の無責任極まりない言い分だが。


 舞花にはもう会えない。もうチャンスはない。もう忘れて、大学生活を楽しまなければ。みんな新しい環境に身を置いて、出会いを求めている。法学部は女子が少ないのだけど、何となくできた仲間と一緒に、何だかんだと声を掛ける。そんな中、何人かの女子と親しくなった。化粧が垢抜けていて、大人びた進藤麻里、地方出身者で素直で明るい村岡加奈子。彼女たちは僕らの立ち回り先、喫茶SUNNYのウェイトレスでもあった。僕と比較的家が近い田中真樹の自慢の新車で、みんなで夏休みに加奈子の実家の島根の城下町までドライブに行ったっけ。

 でもなかなか本気になれない僕は、結局中途半端で、付き合うにも至らない。モテたかと聞かれれば、それなりにモテてたと思うのだが、自分が煮え切らないんだ。肝心な時にボーっとして、話していても上の空。そんな奴に女の子も踏み込んでこない。


 そんな八月。高校時代からの悪友、浪人生の柳田啓人やなぎだ あきとと、地元の祭に行った。ただの盆踊りと夜店が出ているだけの小さな祭りだが、中学高校の旧友に再会できるかも、とみんな結構足を運ぶ。たこ焼きにりんご飴、ベビーカステラ。射的に金魚すくいに、ヨーヨー釣り。啓人を誘ってそぞろ歩き、店を冷やかしているようで、実は違う。僕は気がつくと探してしまっていたんだ。彼女、三崎舞花の姿を。


 そして実際、舞花が、いた。

 後ろ姿、細身のスタイルと歩き方で遠くからでも分かる。想像してた浴衣ではなく、紺のTシャツに、黄色いショートパンツを履いている。すらりと細くて長い色白の脚がとても美しい。彼女は女友達といた。高校時代、一番よく舞花と一緒にいた松田倫子のりこだ。倫子は活発な舞花に比べて控えめなタイプだが、舞花と似たお嬢様的な雰囲気を持つ親友だ。


 あれ、あれれ。何だろう、僕は慌てていた。近づくにつれ、胸の高鳴りが止まらない。どうしたことだ。

 そうなのか。決定的に突き付けられてしまった。僕の中で、まだ舞花のことが終わっていないことを。

 彼女たちが踵を返す、人混みの中で僕らはすれ違う。倫子は確実に僕を見た。あれっ、て感じだった。舞花とは一瞬目が合ったようにも思えたが、ふっと視線が流れて、そのまま。スローモーションで時が動く。僕らのか細い糸が、すれ違いざま、ちぎれ飛んだ気がした。

 僕は今でもこの瞬間を絵に描けると思う。永遠に反芻する一瞬として胸に焼き付いている。

 僕に気づかなかったのか、気づかない振りをしたのか、それともすれ違ってしばらくして僕が振り返った、その前に一度振り向いたのか。繰り返し考えてみたが、いずれにしても大差はない。声をかけ合わなかった事実が残るのみだ。何度頭で巻き戻しても、過ぎた時は取り戻せない。僕は色々なことを考え過ぎて、あの瞬間かける言葉が見つからなかったんだ。


「ちくしょう、やっぱり可愛かった」そう言って啓人に笑いかけた…つもりが、情けない顔になっていただろう。僕は一体何度、舞花に失恋するんだろう。

 パラレルという言葉が浮かんだ。平行線だ。スキーでは中級者の滑り方だ。両足のスキー板をまっすぐ平行にして滑る。どこまでもまっすぐ、板が交わることはない。

 僕と舞花も、今、青春の日々を交わることなく過ごしていく。どこまでもまっすぐ、きっと二度と交わることはない。


 九月になって、田中真樹の紹介でアルバイトに行くことにした。青春を空費している場合ではない、と思い直したのと、そのためにはまず金がいる、二つの目的に合致するのがすなわちアルバイトだ。

 スーパーでの日用品の販売の仕事。メーカーの販売会社との契約なので、毎回行き先が変わる。販売なんて向いていないと公言しつつ、毎回誰と一緒になるか分からない、出会いの場としての妙味に僕はハマってしまった。そこでたくさんの友人知人を手に入れた。


 そしてそうこうしているうちに、十一月、伊藤彩乃あやのと出会った。

 彩乃は、舞花ほどの美人ではない。器量は中の上といったところ。小柄で華奢なタイプだった。ただ、細い二重の目元がセクシーだったのと、笑顔になんとも言えない愛嬌があった。アルバイトをきっかけに出会い、連絡先を交換して、徐々に距離を縮めた。僕から誘って正月には初詣で、四月には男女5人で桜を観にも行った。


 春が来た。僕らは二回生になった。

 アルバイトで世話になっていた事務所の支社長が、新しく会社を立ち上げた。一回生ながら売上実績でも頭角を表していた僕は、アルバイトのリーダー格になっていた。そして、新しい会社に引き抜かれた。それを機に、同じく移籍した二年先輩の西村信治しんじたちと一緒に、アルバイトのサークルを立ち上げた。


 西村信治のことに触れたいと思う。僕が大学時代に最も影響を受けた人と言ってもいい。短髪で、痩せ型で、小ざっぱりした流行りの服を身に付けている。とにかく渋くてカッコいい。ある時事務所で出会ったのだが、当時アルバイト達の中では有名人で、噂に聞いていて早く会いたいと思っていた。そして実際に会ってみて評判以上の人物だと思った。

 僕の乗っていたJR沿線をさらに南へ、少し田舎にある彼の実家に遊びに行っては、そこに集まる仲間達と一緒に飲んだ。西村さんとか、西村くんとか呼ばれていたが、僕は敬愛を込めて、信ちゃんと呼ぶことにした。そう呼んでいたのは、奥山広輔や、柳田啓人や、藤岡春彦、僕の周囲の数名だったと思う。この人から色んなことが吸収できる、そんな期待をしていた。

 信ちゃんの彼女は、遠野麻由子。僕の一つ年上、信ちゃんの一つ年下で、彼女も信ちゃんと負けず劣らずの有名人。アルバイトの中でのマドンナともいうべき存在だった。美人で優しくて、頭も良くて所作も完璧。誰からも好かれる存在だった。まあ、やっかんで見る一部の女子達を除いては。

 その麻由子さんと、アルバイトの帰りだったか、二人で話す機会があった。

「信治はね、彼実はリーダーを張るようなタイプじゃないの。年下に頼りにされて無理していると思う。海くん、あなたとは違う。あなたは黙っていても集団の中で頭角を現してくるタイプ。あなたのような人が信治を助けてくれるとありがたいわ」

 何もかも見通しているようにそんな風に話す。すごいな。でも、麻由子さん、信ちゃんのことはわかっていても、僕のことはわかっちゃいない。僕も努力して今の自分を作ってきた。そう、三崎舞花という、あなたに似た素敵な女性にふさわしい男になるために。


 信ちゃんが、僕に折り入って話があると言う。何事か聞くと、僕のことを好きだと言っている女の子がいると。しかも二人いるらしい。

「伊藤さんとはその後どうなんだ、海斗さえよければ、どちらかと付き合ってみないか」

 魅力的な話だった。二人ともをよく知っていて、どちらもとても素敵な子だった。少し時間をもらうことにしたが、結局そのうちの一人、大森優子と付き合ってみると返答した。

 なかなか進展しない…いや僕が例によって煮え切らなかったのだが、現在進行形の彩乃ではなく、密かに僕を想ってくれているという、優子を選んだのだ。


 優子はとても真面目で、努力家。家庭的でもあった。将来、憧れのキャビンアテンダントになるために努力していると言う。きっと天職だよ、応援してる。何度かそんな話をした。後日談だが、短大を卒業して、彼女は見事、国内メジャーの航空会社の国際線CAになってみせた。

 映画を観たり、遊園地に行ったり、優子とのデートはとても楽しかった。でも何か、物足りなさも感じていた。会話が途切れると、少し心配そうな顔で僕を見る。

 ある時、サークルの企画のボーリング大会に向け、優子と練習に行って、翌日の本番では西村信治を逆転して優勝した。3ゲーム戦の2ゲーム目には216というとんでもないスコアが出て「どんなもんだ」とガッツポーズをしたが、それを見ていた優子はやはりどこか寂し気な、心配そうな顔に見えた。

 彼女は僕とどんな未来を描いているんだろう。かく言う僕は、どんな未来も描けなかった。僕にとってはそれが別れるに足る十分な理由だった。そうなると少しずつ、一緒にいるのが辛くなってくる。まだ付き合い始めてたった3ヶ月なのに。


 夏、八月。サークルで島の砂浜にあるキャンプ場に行った。目の前は海。ラジカセで流行のサマーチューンを鳴らしながら、僕らは青春のひと時を謳歌した。優子も、もう一人僕を好きだと言ってくれていた一つ年下の遠野奈津美も参加していた。そう、実は彼女は遠野麻由子の妹だ。

 傍で彩乃とその仲良し達4人のグループも、水着で楽しそうにはしゃいでいる。この時点でまだ、彩乃とそのグループは僕と優子が付き合っていることを知らない。居心地が悪かった。彩乃の彼氏候補第一本命。彼女たちにとっては僕はそんな存在だったのかも知れない。

「海くん、こっちおいでよ」求められるまま、悪友達と一緒に彼女たちと遊んだ。当然ながら僕との時間を楽しみにしていたであろう優子を置き去りにしてしまっていた。付き合っている彼女に対して、こんな残酷な仕打ちはない。


 僕は酷い男だ。

 島から戻って、しばらく悩んだ挙句、信ちゃんに相談した。

「最低だな、お前」と真顔で怒られた。だが、苦虫を嚙み潰しながら「仕方ない」とも言われた。「俺たちはまだ未熟だ。俺も同じような経験がある」

 償わなければ。優子に会って謝った。だが、何をどう言い訳すればいいのだろう。僕は酷い男だ。自分に信頼がおけない。説明することで輪をかけて彼女を傷つけることにならないか。

 優子は、会ってもはっきりしない僕を見て

「知ってるわ。伊藤さんのこと、やっぱりまだ好きなのね」ずばり、そう言った。

「酷いと思いながら、やっぱり私、海くんが好きなの。だから今の状況は苦しい。別れた方がいいのかな」

 それは皮肉なことに、僕にとっては助け舟だった。

「ごめん」とうつむいた。「僕もそう考えていた。このままの関係で一緒にはいられない」

 どれだけ悩ませ、泣かせたんだろう。この優しい女性を。頭の中が空っぽで、それ以上、何も考えられなかった。僕が悪い。僕だけが悪い。

 さらに報いは訪れる。

 彩乃と彩乃の友達連中に、僕が優子と付き合っていたことが知られてしまった。いつかはバレるだろうとは思っていた。とりわけ、島のキャンプの段階で付き合っていたことが、彼女たちを怒らせた。彼女たちは人気のグループで、僕に近い男どもともしっかり繋がっている。

 一方、優子は遠野麻由子、遠野奈津美姉妹にとても近い。西村信治にも近いということだ。ここの印象は言うまでもなく最悪だ。

 サークルで人気者だった僕は、一転して孤立無援になった。


 秋が来て、冬の声を聞く頃には、ほとぼりも冷め、ほぼ元の人間関係に戻った。僕が許されたというより、みんな怒ることに疲れたのかも知れない。夏以来、優子がサークルに顔を出さなくなったのも大きいと思う。

 彩乃とも少しずつ打ち解けて、また夏前の雰囲気を取り戻しつつあった。周囲もそんな目で見ているようだ。

 サークルの活動のメインは来るスキーツアーになっていた。短大生は、もうすぐ卒業だ。このスキーは学生時代最後のバカンスになる。彩乃とその友人達にとってもそうだった。


 いざ、信州へ。スキーリゾートへ。僕にも彩乃との期待感が蘇っている。なるべく一緒に滑ろうと思った。

 ゲレンデの彼女は可愛い。転んだ彼女を助け起したり、僕が派手に転んだら彼女はストックでつついて笑い転げたり。ペアリフトに乗って流れる曲を一緒に口ずさみ、仲のいい恋人同士のように二人でシュプールを描いた。

 夜は貸切のペンションでパーティ。僕もわざわざギターを持って行っていて、弾き語りを披露した。「一番真剣に聴いていたのは伊藤さんだったね」後から信ちゃんに背中を叩かれた。気は熟した。


 楽しかったスキーから戻って来て、僕から告白して、ようやく彩乃と付き合うことになった。でもそれも、6ヶ月で破局を迎えることになる。

 春に彼女は就職して、会える時間も短くなり、話す話題も噛み合わなくなった。厳しい上司の話、憧れの先輩の話、気のおけない同僚の話、そのどれにも僕は関われない。黙り込んだり、不機嫌になる時間も多くなった。それを彩乃は不思議そうに見ていた。

「あのね」ある日のデートの終わりに、いきなり彩乃が切り出した。

「先週ね、前から話していた先輩から、帰りに呼び出されて、交際の申し込みを受けちゃった。すごくいい人なの。海くん、どう返事したらいい?」

 少しの自慢がてら、彼女の真意は僕の反応を、気持ちの深さを確かめることにあったのかも知れない。でもそれまで散々、知らない大人の世界に疑心暗鬼になっていた僕には、そんな余裕はなかった。一瞬でストレスが沸点を超えてしまっていた。

「よく俺にそんなことが聞けるな、自分で考えろ!」席を立って、彼女を残して去った。そのまま関係を修復できず、僕らは別れることになった。


 しかしその後、彼女の方から連絡があり、再びつき合うことになる。彼女とはよくぶつかり、そんなことを幾度か繰り返した。

 最後は、二年後。会社の人と結婚すると会った時に報告を受け、いよいよ式の1ヶ月前になって、手紙をもらった。

「海くんと一緒にいた頃が一番楽しかった、またあの頃に戻りたい」と感傷的に書いていた。しかし時は巻き戻せない。マリッジブルーか、『卒業』を期待しているのか。本当に大切に思うなら、彼女の期待に応えるべきなのか。


 考えた挙句、僕は書いた返事を破り捨てた。僕は、残酷な男だ。優子を不幸にした。君も傷つけてきただろう。でも今もやはり君を幸せにする決意も、自信もない。

 彩乃は僕の返事を待っていたのか。待って待って、ついに来ない返事をどう思ったのか。僕にはわからない。ただ彩乃ともまた、交わることのないパラレルの軌跡をこれから描いていくんだ。そう思った。ゲレンデでの二人のシュプールを、彩乃の笑顔を思い出した。白と青に縁どられた美しい記憶、宝物だ。

 その後、さすがに彩乃とは二度と会うことはなかった。


 後日譚として、彩乃は結婚して子供もできて、地方都市で幸せに暮らしていると聞いた。彼女が幸せになれたのなら、僕にとってせめてもの救いだ。

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