進とシエルは森を抜け、山を登った。時には凶悪な猛獣を狩り、時には壁とも思えるような坂を登り、少しずつながらも二人は山の向こうを目指して足を進めていた。




 そうすること2週間。二人はついに頂上を制覇した。








「わぁ…!」


 東の空からは陽が顔を見せ始め、曙の空が広がる。水平線は照らされ、眩しいばかりの輝きを水面に反射させる。

 標高3000mから見える景色は格別なものとなっており、シエルは感嘆の息を洩らす。


「すごいですよシン!!世界が一望出来ます!!」


 子供のようにはしゃぐシエルを、進は鬱陶しそうに軽く相槌をうつ。


「はいはい。分かったからとっとと下りるぞ」


「…もう!少しは風情を楽しむという気持ちも大事ですよ!」


(そんなのに構っていられるかよ)


 頬を膨らませるシエルを無視して、進は通れそうな道を探す。



 登山をするだけで2週間。山を下るのであればそれと同じぐらいの時間を要することになるはず。

 それに、登りと違って下りは完全に初見である。道順、動物、風土、その全てを1から経験することになる以上、登りの時よりも時間を費すことになると考えた方がいい。




(そういえば標高が高くなると酸素が薄くなるって聞くけど、大丈夫なのか?)


 進はふとそんな事を考える。


 一般の人間なら、地上との距離が離れていくにつれて呼吸がしづらくなるはずである。それに加えて気温も徐々に低下していき、4000mともなるとその気温は0℃にほぼ近くなる。―この数値は『海面気圧』と『地上の気温』によって変動する。―


 シエルにはその症状のどれもが見られず、地上にいる時と同じように生き生きとしている。

 進はというと、呼吸こそ特に問題は無いが、気温の低下に肌寒さを感じている。


『勇者』である進すら動じるこの寒さに、シエルはどうやって耐えているのだろうか。






「―さあ?多分『龍人族ドラゴニュート』の末裔だからですかね?

 そういえばどうしてなんでしょうか…?」


 シエルから返ってきた答えは曖昧なもので、本人もよく分かっていない様子だった。


(龍人族だからって、寒さは感じるだろうに)


 崩しても影響が無さそうな岩を砕きつつも、進は肌寒さに身震いする。


「シンは寒いんですか?」


「少しな。耐えられないわけじゃない」


 腕を摩りながら、ひびの入った岩を脚で軽く小突く。

 それだけで岩は音を立てて崩れ去り、傾斜が急な坂が道として出来上がった。



(登りの時はそこまで危険じゃなかったが…。

 これを下るのはさすがに危ないな)


 坂の傾斜は滑り降りるにはとても危険で、飛び降りて下ろうにも生身では無事では済まない高さだった。

 カランカランと、進の足元から小石が転げ落ち、奈落のようにも思える遥か下の地上へと音もなく落下していく。



 ―仕方がないか。




「シエル。しっかり掴まってろよ」


 進はシエルに振り返ると、何を思ったのか彼女の体を膝から抱き上げた。


「ちょ、何するんですか!!?」


 シエルの質問に答えず、進はそのまま助走をつけ始める。



 ―何って。






「スカイダイビングだ」



 進は勢いに任せて崖から飛び降りた。











「―きゃああああぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!!!!!!!??」


 少女の甲高い悲鳴がまだ覚醒しきっていない紫色の空に響き渡る。

 進はその悲鳴を直で聞き流しながら、地面に意識を集中させる。



(しくじるなよ。しくじったらシエルが死ぬ)



 チャンスは一度。失敗したとしても、もう引き返せない。

 進はだんだんと近付く地面に“気”を集中させ、一つのイメージを構成する。


 形状は足場一つ分。材質はネット。

 実際にそんなものを創り出すわけではないが、“気”を用いればそれに酷似するものを創ることも可能となる。


 そして、進は足場を創造する。



「今だっ!!」


 イメージした“気”を一気に放出する。

 放たれた“気”は進のイメージ通りに、網のようにして進の足場を確保する。


 透明で目に見えないその網に足を突っ込むと、進の体は急激に加速を止め、減速に入る。

 不思議と、その急制動によって起こるであろう負荷は進たちには掛かることは無く、ゆっくりと地面に着地した。




「ふぅ…」


 どうにか上手く行った事に安堵する進。



「『ふぅ…』じゃないです!!急に何考えてるんですかっ!!」


 しかし、シエルは今までになく憤慨していた。


 今までに体験したことの無いような浮遊感に身を包まれ、降下中のシエルは恐怖に支配されていた。その恐怖はあの憎き両親の比ではなく、まるで自身の命の危機を感じたかのように…。


 簡潔にまとめると、シエルは少し漏らしていた。



 涙目でボコスカと殴ってくるシエルを上から押さえ、進は改めて全景を見渡す。




 ついに。進たちは『エルベスタ地方』と山を隔てている隣地方の『バッキニアス地方』に足を踏み入れた。

 見える景色もエルベスタとは大きく変貌を遂げており、見える限りに入ってくるのは水辺ばかりで、森林はあまりお目にかかれない。


 多くの小さな街や村を超えた先に見える地平線にあるのは、一際大きく存在感を放つ都市。

 シエルの言っていた『バッキニアス国』に違いないだろう。



(この山を降りて、歩いていったとして大体2ヶ月ぐらいか)


「ちょっと、シン!!聞いてますか!?」


 片手で軽く押さえていたシエルは怒りが収まらないようで、まだ進に向けて拳を振るってくる。


「いや悪かったって。さっさと行くぞ」


 パッとシエルを押さえる手を離し、進は道無き道を下り始める。






「少しは反省の色を見せてくださ〜い!!」


 シエルもそれに続くように、腕を回しながら進を追いかけた。







 ―。








 それから3日。


 進たちは麓の小さな森まで歩を進めていた。


 進が想定していたよりも大分早い進行で、予定を大きく短縮することに成功した。


(本当なら、あと3日ぐらいは掛かる想定だったんだが…)


 進たちが予想を上回って下山出来たのには理由がある。

 進の想定では猛獣や進の追っ手、最悪の場合『魔物』との戦闘も視野に入れて、その中で最短の時間を予想していた。

 しかし、ここ『バッキニアス地方』の動物は比較的温厚で、進たちを襲う素振りを見せる動物はほとんどいなかった。それが早く進めた要因だろう。



 しかし、それはある種のデメリットでもある。



(食料調達がめんどくせぇ)


 進達を狙う動物がいないということは、進たちは自分から動物にアプローチをしないといけないことになる。

 動き回ればその分予定のルートを外れることになり、結果的には猛獣側から向かってきてくれる方が時間短縮に繋がることすらある。


 進だけなら別に食料を狩る必要は無い。『勇者』である進は、絶食程度で死に絶えることは無いからだ。

 しかしシエルは違う。シエルはこの世界に生きるれっきとした人間で、食事を摂らなければいずれ死に至る。


 本人曰く『最低限の水と食料だけで1ヶ月は生きられる』らしいが。だからといって食事をしないわけにはいかない。

 もしも空腹で本来のポテンシャルが発揮出来ず、猛獣との戦闘で死なれても困るという、進の僅かばかりの計らいである。






 日も落ちて辺りは夕闇に包まれていく。


 進はここで野営をすることに決めた。



「今日はここいらでいいだろ。シエル、食糧取ってこい」


 先程から進の後ろでモジモジと体をうねらせているシエルに、進は食料調達の命令を出す。


 それを聞くとシエルは嬉しそうに、


「分かりました!行ってきます!」


 と意気揚々と森の中に飛び込んで行った。


(…やけに元気だったな)




 そんな事を考えながら、進は火を起こしていた。







 ―。






 茂みの中。

 シエルは進とある程度距離を取る―具体的には進の気配が消え去るぐらいまで―と、我慢の限界というようにその場にしゃがみ込む。

 そのまま下着を膝元まで下ろして、その場を少しずつ濡らし始めた。




「まったく…。シンは一体わたしの事を何だと思って…」


 膝を抱えながらシエルはぼやく。


 シエルはこの旅が始まって以来、排泄行為を行う際は必ず進が寝た後に行っていた。

 それは進に自分のみっともない姿を見られるのが恥ずかしいということもあるが、何よりも進の旅を阻害したくないという気遣いが強かった。



(わたしだって女の子なのに…)


 不貞腐れたような表情をしながら、艶が戻りつつある黒檀色の髪を指で弄り始める。

 シエルが進に対して抱いているのは『恋心』では決してない。それはシエル自身も分かっている。しかし、まるでなんとも言えぬような感情を抱いているのは事実。



 シエルはその感情にやきもきしながら、一時の時間を終えた。




「ふぅ…」


 下着を履き、シエルは平常運転へと戻る。


(さて。食料調達をしないといけないんでしたね)


「シンも沢山食べられるように大きな獲物を仕留めてこよう」と気合いを入れると、シエルの横の茂みがガサガサと揺れ、草木が擦れ合う音を鳴らす。


「!?」



 シエルは腰のククリナイフの柄に手をかけ、一瞬で臨戦態勢に入る。

 この場は未開の地。シエルの知らない猛獣がいることもある、ということを思い出したシエルは気を張り巡らせる。






 ガサガサッ




 茂みの中から、物音を立てた主の正体が姿を現した。






「―これって…」








 ―――――








 進が焚き火に酸素を送っているところに、シエルは大きな獲物を持って帰ってきた。



「お帰り。よくこんな大物を1人で仕留められたな」


「見てないで運ぶの手伝って下さいよ…」


 重量10キロはくだらないほど大きな狼を地面に寝かすと、シエルは息を切らしながら進の隣に腰掛ける。

『デアスト・ウルフ』という名前の猛獣はその生命活動を停止しており、力無く横たわる。



(血抜きはされてない、か…。まぁ、さすがにそれは求めすぎか)


 一通り獲物の状態を確認すると、進は一言質問を投げかける。






「―で?

 その『手』に乗っけている奴はなんだ」


 進はシエルの手を指差して、『それ』の正体を言及する。


 それに対してシエルはただ。








「―多分『狐』です?」


 と、短く疑問形で答えた。

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